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 翠は何度も何度も文面を確認して、ようやく送信ボタンを押した。問題を解くときだってここまで見直しはしないだろう。それほど翠にとっては、彼にメッセージを送ることが大変な行為だった。


『10月の星見の会での服装はどうしますか。パートナーは色やデザインを合わせるのが一般的です。何か希望はありますか』


 余所余所しい文章だ。他人行儀さが拭えない。婚約者とは到底思えない。まるで親と子のやり取りのようだ。


 スクロールして過去のを遡ってみるが、どれもこれも変わらない。決まって私から話しかけて、彼がそれに対して一言二言返事をする、その繰り返しだった。業務連絡と間違われてもおかしくない内容だ。



 すぐに既読がつく様子はない。けれどこのまま寝れる気がしなかった。翠はカモミールティーでも淹れようとキッチンへと向かった。きっとあの優しい香りに癒されるはずだ。




「あら、翠様。まだ起きていらっしゃったのですね。何かお飲みになりますか?」

 キッチンでカップを洗っていたお手伝いさんの早見(はやみ)さんが、手を止めて微笑んだ。彼女は翠が幼い頃から高城家に仕えている。

「ええ、カモミールティーをいただこうかと。ちょっと寝付けそうになくて」

 早見さんは僅かな変化にも気づく人だ。


「何か心配事でも」

 早見さんは決して踏み込みすぎないよう、普段と変わらないトーンで翠へと問いかける。


 翠は一瞬、婚約者との冷え切った関係のことを話そうか迷った。けれど早見さんに心配をかけるのは忍びない。それに話したところで解決する問題でもないだろう、そう結論づけた翠は本音を打ち明けなかった。

「いえただ少し考え事をしていただけです。明日の課題のことで」


 彼女は慣れた手つきでティーポットにお湯を注ぎながら翠の言葉に頷いた。

「左様でございますか。お嬢様ならきっと大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 そう返事した翠の顔をじっと見つめ、彼女は穏やかに続けた。

 

「差し出がましいようですが、どんな悩み事も無理に抱え込まず、時には手放すことも肝心でございます」

 

 早見さんの言葉は翠の心にズキンと響いた。ついついふとした時にあれこれと気を揉んでしまう私にとって最も必要なことを言われた気がしたのだ。


 悩み事を手放す。今の私にはまだ難しいと思うけれど。


「お役に立てたでしょうか」

「はい。ありがとうございます」

 今度こそ翠の心からの感謝だった。帰り道、温かいカモミールティーの香りが立ち上る中、翠は早見さんの言葉を反芻した。



 

 自室に戻りスマホを確認すれば彼から返信が来ていた。

『なんでもいい』

 たったこれだけの返信に、先程まで解れていた心が一気に閉ざされたような気がした。なんでもいいとは。イベントに興味がないのか、それとも。


『私が合わせるのでどのようなスーツを着て行く予定なのか教えていただけませんか』

 今回はすぐに既読がついたが幾分悩んだのだろう、返信には数分かかった。

『グレー』

 せめて写真を送って欲しいとか、もう少し詳しくとか言いたいことは山ほどあったが全て呑み込んで、ただ『わかりました』と翠は打った。


 はなから分かっていたことだが彼は全くもって乗り気じゃない。面倒なのがありありと伝わってきた。これ以上あれこれと聞いてしまったらさらに関係が悪化する気がして、翠は黙るしかなかった。


 スマートフォンをそっとベッドサイドテーブルに置く。

 彼の「なんでもいい」という言葉の裏には、悪意などないのだろう。ただ、彼にとって、私やこの婚約はそれほど価値がないのだ。


 幼い頃、蝶に怯えて泣いていた彼。あの頃は、私が世界で一番大切だったはずなのに。彼が大人になるにつれ、私たちの関係も変化してしまった。


 その夜は、カモミールティーの優しい香りも翠を安らかな眠りへと誘うことはなかった。


 



 

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