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「あらそれ、もしかして?」
智恵子が悪戯に微笑んだ。その視線は、翠の胸元に留められた小さな装飾品に注がれている。
「ええ伊弦さんから頂いたの」
翠の声はどこか弾むようだった。
ネクタイには規定のゴールドのピンの上に、もう1つお花があしらわれたものがあった。柔らかな曲線を描く花弁が特徴的な、上品なネクタイピン。
「何のお花かしら」
「トルコキキョウよ」
憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔で翠は答えた。トルコキキョウは翠の一番好きな花で、幾重にも重なるチュチュスカートのような花びらがとても愛らしい。
以前会話の時ポロッと溢したのを、彼は覚えていてくれたらしく、先週プレゼントしてくれた。多忙な日々を送る伊弦が、その些細な一言を忘れずに、翠のために選んでくれたことに彼女は深い喜びを感じていた。
あの後桃はすぐに転校し、巴は姓を変えて学校に通っている。数週間は魂が抜けたように虚ろな表情だったが、最近は心を入れ替えたのか、それともこのままでは駄目だと気付いたのか、熱心に勉強に励んでいるらしい。
この間の進級して初めての試験では、彼の本来持つ知性が発揮されたのだろう、無事以前までの順位に復活していた。それは、巴にとっても新たな人生の始まりであり、翠もまた彼の変化を静かに見守っていた。
巴の除籍、葛木桃の退学、それに伴う婚約者の変更。立て続けに起きた一連の出来事は、瞬く間に知れ渡った。
翠と伊弦の関係は、周囲の目には「政略結婚」、もしくは弟の尻拭いという冷たい現実に即したものであるかのように映っていたかもしれない。しかし、二人の間に流れる空気は、巴のものとは異なっていた。
伊弦は、感情を露わにすることは滅多になかったが、翠に対しては常に細やかな気遣いを見せた。彼は多忙な身でありながら、翠の学園生活や趣味に配慮し、定期的に会う時間を作った。それは食事の席であったり、あるいは休日のお出掛けであったりした。
たとえば、翠が少し疲れているように見えれば、次会う時には彼女がリラックスできるような静かな場所を選んでくれた。あるいは、翠が最近興味を持っていると話した絵画展があれば、多忙なスケジュールを調整して、誘ってくれることもあった。そうした一つ一つの行動が、言葉には表れない深い配慮と敬意を示していた。
巴との婚約時代には常に感じていた、どこか一方的で、不安定な関係とは全く違う。伊弦との間には、確かな安心があった。それは、互いの家の利益を第一に考えるという共通認識からくる、揺るぎないパートナーシップだった。
あの日、2人きりになった時に伊弦は最初にこう言った。
「私が、西條家の当主としてふさわしくなるようこれからも研鑽を積む。そして、貴方が安心して隣に立てるよう努めよう」
彼の言葉は、彼自身の決意であり、翠への誓いだった。彼は、自身の役割と、これから背負うものの重さを、完全に理解している。
翠は、彼の言葉に深く頷いた。互いの意思が、確かに繋がり合っている。分かり合えていると、心の底から感じたのだ。
あれからずっと翠は理想としていた尊重し合える関係が続いている。毎日の足取りは軽く、ふとした時に不安になることも無くなった。かつて感じていた未来への漠然とした不安は、もうどこにもない。そこにあるのは、伊弦という確固たる存在を伴う穏やかな安堵だけだった。
翠の瞳はいつになく輝いている。それは静かな高揚と確かな希望からくるものだった。
彼女の物語は、ここから本当に始まるのだ。
これにて作品完結いたしました。最後まで読んでいただきありがとうございます!
誤字脱字、至らないところなど多くあると思いますが、楽しんでいただけたら幸いです。