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「このまま行ってくる」

「分かりました」

 薫は妻に一声かけて、車に乗り込んだ。黒塗りの高級車が一台、家とは逆方向に消える。高城薫にはまだ仕事があった。もう一つの、最後の締めが。高城家の面子に泥を塗ったのは巴だけではない。今日で全ての問題に終止符を打つ。



 約束の時間ぴったりに着けば、社長の葛木直々にお出迎えがあった。駅から少し離れたところにある4階建てのビルのエントランスは、どこか浮足立った空気に包まれている。



 社長室に通された薫は、応接ソファに深く腰を下ろした。葛木社長は、緊張した面持ちで向かいに座る。彼の顔には、どこか引きつった笑顔が貼り付いていた。


 それもそのはず。薫は「話がしたい」とだけ伝えたのだ。突然、雲より上にいる人に電話越しで一言そう言われ怖気づかない人がいるだろうか。いい話ではないというのは明白。


 それに何より葛木には心当たりがあった。


「本日はどのようなご用件でしょうか…」


 葛木が恐る恐る口を開いた。その声には、すでに動揺の色が滲んでいる。


「葛木社長。単刀直入に申し上げます。葛木桃さんが、我が娘翠、ひいては高城家の名誉を傷つけたことについて、本日貴方に責任を問うために参りました」


 葛木の脂の乗った顔からみるみる血の気が引いていく。その表情は、今さっき見たばかりの巴にそっくりだった。額には脂汗が滲み、指先が小刻みに震え始める。


「そ、それは…大変申し訳ございません。娘の軽率な行動が…。しかし、あの件は、西條巴さんが主導してのことでございまして、娘も、まさかあのようなことになるとは」


 形ばかりの謝罪に、すぐさま責任の所在を巴に押し付け、自分たちは巻き込まれただけだと主張する。その言葉の節々から、自己保身の意図が露骨に感じられた。どうにか責任を回避しようと葛木は一気に早口になる。



 薫は、その言い訳を黙って聞いていた。馬鹿な男の無駄に足掻く様を。一切の相槌も、表情の変化もない。その沈黙が、男を一層追い詰める。



 あまりにも薫の反応が芳しくないのを見て、葛木が口を止めたのを確認し、薫は話を進めた。


「なるほど。西條巴君が主導であったと。しかし、その巴君は、その責任を取り本日除籍という処分が下されました。もはや、西條家の人間ではありません」


 その言葉が、必死に頭を回転させていた男の頭上で、雷鳴のように響き渡った。


「な、、ッ!?」


 葛木の目が驚きで見開かれる。西條巴が除籍、その事実は、彼にとって完全に予想外の展開だったのだ。まるで、頼みの綱が突如として断ち切られたかのように、口を半開きにしたまま、呆然と固まった。



 巴が西條家を出たということは、もはや葛木家が責任を転嫁する相手は存在しない。巴の背後にあったはずの「西條家」という巨大な後ろ盾が、今や全くの無関係な存在と化したのだ。残されたのは、高城家という巨大な権力と、その怒りを一身に受ける葛木家だけ。


 智明が巴に対してあれほどの冷徹な決断を下したのだ。ならば、高城家が葛木家に対して、どのような報いを求めるのか。その考えが脳裏をよぎった瞬間、葛木社長の目に宿っていた焦りの光は、完全に消え去った。


 彼は、膝から崩れ落ちるかのように、ソファの背に体重を預けた。顔は青ざめ、額には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。言葉を紡ぐこともできず、ただ虚ろな目で薫を見つめ返していた。どうにか巴に責任をなすり付けようという魂胆は儚く散った。もはや、彼の口から、言い訳の言葉は出てこなかった。



 言葉を失った男に、薫は淡々と要求を突きつけた。1つは翠への一切の接触禁止、もう一つは桃の退学であった。


 元々高城家は葛木家とビジネス上の接点はない。それに加え、競合関係にはならないとの判断により、処分は比較的甘いものとなった。

 


 葛木は、取引の停止や財政的な圧迫がないことに、一瞬の安堵がよぎったものの、娘の希望が奪われたことに、悲嘆に暮れた。



 この学校は桃が行きたいと言い出したのが理由で、海外から生活拠点を戻してきたのだ。上手く娘が馴染めるか心配だったが、どうも素敵な男の子を見つけたようで毎日楽しそうに過ごしていた。


 それなのに…


 


 彼は抵抗することもできず、ただ青ざめた顔で頷くしかなかった。愛娘の輝かしい学園生活の終焉を自らの口から伝えなければいけない。その苦渋が、彼の全身から滲み出ていた。





 その日の夜。


 葛木桃は、自室でスマートフォンをいじっていた。そこへ、父親が重い足取りで入ってくる。桃は何も喋らないことを不思議に思い、画面から顔を挙げると、父の顔は、血色を失い疲弊しきっていた。


「パパ、どうかしたの? そんな顔して」


 桃が、軽薄な口調で尋ねる。父のただならぬ雰囲気に、微かな不安を感じながらも、まだ事の重大さを理解していなかった。


 娘の顔を見ると、彼の目はみるみると潤んでいった。娘への深い愛情と、それのために状況を黙認してきた自らの愚かさ、そしてどうしようもない諦めだった。


「桃、お前は…」


 声は、掠れて、震えていた。顔を歪め、今にも泣き出しまいそうなのを必死に堪えるような表情で、桃を見つめる。


「明日から…学校には、行かなくていい」


 桃の顔から、一瞬にして血の気が引いた。スマートフォンの画面が、彼女の手から滑り落ち、シーツに小さくバウンドした。


「え…? パパ、何を言ってるの? 学校に行かなくていいって、どういうこと?」


 彼女の瞳は、困惑と恐怖に大きく見開かれていた。口の端が強張るようにひくつく。父の言葉の意味が理解できない。あるいは、理解したくない、と本能が叫んでいた。


 父は言葉を選びながら、絞り出すように告げた。その一言一言が、彼の心を深く切り裂くようだった。


「高城翠さんのお父上が、お前との接触禁止と、退学を要求した。これだけは、どうしても呑まないといけないんだ。もう十分情けはかけてもらっているから、これ以上パパには、もうどうすることも、できないんだ」


 彼の声は嗚咽に震え、桃の耳にはまるで遥か遠くから聞こえてくるようだった。それは、最愛の娘に、自らの手で残酷な現実を突きつけなければならない父親の、悲痛な叫びだった。


 桃は、その言葉の重みにゆっくりと瞬いた。彼女の顔は、父の苦悶の表情を映すように、みるみる青ざめていった。

 

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