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 橙色の光にぼんやりと照らされた看板に、藍染の暖簾がかかる平屋造りの料亭・皐月。手入れの行き届いた庭木や、細部にまで趣が凝らされた門構えからは、格調の高さが窺える。夜の帳が下りた今は、一層その静謐な美しさが感じられた。



 専属ドライバーが運転する高級車が、音もなく料亭の前に滑り込む。車から降り立つと、まだ少し肌寒く感じた。


 翠は、母の隣に並び、一歩一歩石畳を踏みしめて玄関へと向かう。真新しい振袖が、夜の闇に映えて鮮やかに浮き上がる。涼しげな色合いと、上品な牡丹の対比が翠の存在感を際立てた。



「高城様、ようこそお越しくださいました。西條様方は既にお見えでございます」


 やはり。

 ついにこの時が来たのだ。女将の言葉に、一瞬の緊張が走る。


 

 案内されたのは、庭園を望む広々とした座敷だった。障子が開かれると、ぴりりとした空気をかんじた。よく似たクールな顔が3つ、整然と並んでいる。



 奥から順に西條智明、妻。彼と瓜二つの顔立ちをした長男、そして巴が、まるで居心地悪そうに身を縮めて座っていた。彼はまだ、今日の会食が何を意味するのか、正確には理解していないはずだが、それでもこれから何が起こるのかと不安そうな表情だった。


 巴の隣には、葛木桃の姿はない。その事実に、翠は内心でわずかに安堵する。



 西條家の装いを見て、翠は少し戸惑いを感じた。智明はネイビーのネクタイをしているのに対し、長男の伊弦(いづる)はシャーベットのような水色である。しかも巴に至ってはスーツもネクタイも真っ黒だ。


 私は言うまでもなく、こちらは父も母も華やかな服装だというのに。どうにも服装に差がありすぎるように思えた。




「本日はお越しいただきありがとうございます」

 智明の言葉は丁寧だが、その声には一切の温かみがなかった。翠は頭を下げ、言葉の続きを待つ。座敷の空気は張り詰めていた。何か重大な裁きが下される前のような、厳かな雰囲気があった。



 廊下に誰かいるような様子もなく、テーブルの上にはお茶さえない。気持ち悪いほどの静寂の中、両家はただ見つめ合っていた。



「長期にわたる巴の度重なる無礼と軽率な振る舞いによって、高城家の皆様にご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」


 智明の声が静寂を切り裂いた。その声が放つ冷気は、座敷の気温を数度下げたかのように感じられた。巴以外の3人が深々と頭を下げ、翠は流石に驚きビクッと体を揺らした。


 全く予想していなかった訳ではない、が、いざ頭を下げられると、その光景に思わず圧倒された。



 しかし翠以上に驚きを隠せないのが、いきなり渦中に引き摺り込まれた巴だ。ただ「会食」と伝えられ来たら、家族が自分の為に頭を垂れている。


 巴は、呆然とした表情で、未だに俯いている兄の横顔を見つめていた。まるで自分のことではないかのように、あるいは、何が起こっているのか理解できないかのように。彼の顔には、困惑と恐怖の色が濃く浮かんでいた。



 数分の出来事であったが、それ以上に長かったように思えた。顔を上げた伊弦と視線が合ったが、そこに感情の揺らぎは一切見られない。彼は、この状況を全て理解し、そして受け入れている。その冷静さが、かえって巴の動揺を際立たせていた。



「それで翠の婚約はどうなるのだろうか」

 初めて智明以外の人間が口火を切った。翠の父、高城薫だった。


「はい、本日をもちまして巴が西條家の籍を抜けましたので、長男であり後継者でもある伊弦を新しい婚約者とさせていただきます」


 その言葉が発せられた瞬間、どうすればいいか分からず視線を彷徨わせていた巴の動きが止まった。


「は…?」


 巴が、か細い声で信じられないといった様子で呟いた。彼の顔から、血の気が完全に失せ、一瞬で真っ白になる。座敷の静寂の中に、彼の絶望が痛いほど響き渡る。


 翠の端正な顔立ちにも、驚きの色が走った。巴の除籍は父からの事前の示唆や、彼女自身の分析からある程度予想はしていた。しかし、実際に智明の口から直接聞いた時、想像以上の重みが伴った。今1つの人生が、あまりにもあっけなく断たれたのだ。



「籍、抜けるって、俺何も聞いてないんだけど…」

 巴は、震える声で父親に問いかけた。彼の瞳は、恐怖と混乱に大きく揺れている。懇願にも似た声は憐憫を誘うが、相手が悪い。智明は、依然として巴に視線を合わせようとはしなかった。彼の顔は、完璧なまでに無表情だ。



「学費は既に支払ってあるから気にするな。引っ越しも既に済ませてある」

 巴の問いかけには答えず、淡々と事実だけを伝えていく。



 巴は母や兄の顔を縋るように見つめるが、誰とも視線は合わなかった。どう足掻いたところで、全ての決定権は当主にある。言い訳も嘆願も、家のことを最も重視する父の前ではもはや意味をなさない。巴はようやく自分のしでかした事の大きさに絶望した。たった今己の地位も家族も失ったのだ。


 ついに、揺らめいていた巴の瞳から涙が溢れ出した。抑えきれない嗚咽が響く。


 


 可哀想に。

 翠は冷静に巴を観察していた。彼がまだ小さな子供だった頃からの関係が今、幕を閉じる。こうしてみると呆気ないものだ。結局私の意思など関係なかった。



 肩を震わせる姿を見て、もう少し自分に愛嬌があれば、と考えたが翠はすぐにその思考を振り払った。たらればを考えてもしょうがない。結果が全てなのだ。



 

 翠は視線を巴から新しく婚約者となった伊弦に移した。巴と違い感情の読み取れない瞳だったが、自分を見つめる視線に否定的な色合いは無かった。




「ではあとは2人に任せましょう」

 巴は引きずられるように連れ出され、部屋には翠と伊弦だけが残された。翠は姿勢を正して、正面へと向き直る。


 翠はこの人なら大丈夫だという予感があった。彼の真っ直ぐな視線は、翠の目から逃れることなく、静かに翠の存在を受け入れている。



 池にぽっかりと浮かぶ月は、これから始まる二人の、そして両家の未来を見守っているかのようだった。

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