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「18時半にはここを出る、1時間で荷物を纏めておいてくれ」
西條智明が、執事にそう指示を出した。声に一切の感情はこもっておらず、それはまるで日常の些細な用事を命じるかのような淡々とした口調だった。
執事の顔にわずかな動揺が走ったが、すぐに恭しく頭を下げ、「かしこまりました」と答える。指示の内容が何を意味するのか、彼は完全に理解しているようだった。
巴が生まれる前からこの家に仕えている彼にとっては、残念な結果なのだろう。一瞬の動揺には悲しみの色が見て取れた。
デスクの上には、学年末の成績表があった。正直分かりきっていたことだったが、順位は更に下がっている。もはや学年全体で下位十番以内に入るほどだ。葛木桃も同様、目も当てられない酷い有様だ。
巴には、兄である嫡男ほどの才覚はないと最初から理解していた。しかし智明は巴に、次期当主の片腕となるか、あるいは分家の当主として家を支える役割を期待していた。
そのためには、最低限の教養と、何よりも責任感が必要だった。残念だが、仕方ない。これ以上の恥の上塗りは避けなければならない。
智明は、真っ黒なスーツに身を包み、鏡を確認してから車へと乗り込んだ。
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「19時から会食があるそうです」と早見さんから伝えられていたので、翠は寄り道をすることなく帰宅した。
荷物を自室に置き、どれを着ようかと鏡の前で思案しているとドアがノックされた。
「翠?」
「はい、お母様」
翠は扉を開けると、母は既に支度が整っているようで、淡いクリーム色の訪問着を身につけていた。
「貴方の服は決まっているからこちらにいらっしゃい」
翠は少し疑問を感じつつも、素直に母の後をついて行った。案内された部屋に掛かっていたものを見て、翠は目を見開かせた。
振袖!?
会食は毎回フォーマルな服装だったが、流石に振袖を着ることはなかった。てっきり西條家との重要なお話だと思っていたのだが、それは全くの見当違いだったのだろうか。
壁に掛けられていたのは、それはそれは見事な友禅の振袖だった。深みのある緑色を基調とし、金糸銀糸で曲線が描かれ、牡丹の花が咲き誇る。未婚女性が纏う、最も格式高い礼装。まさか、これに着替えろというのだろうか。
「お母様これは…」
翠が問いかけると、母は優しい、しかしどこか含みのある笑みを浮かべた。
「貴方が最も美しく見えるものを選んだのよ。今夜の会食はとても大切なものになるわ」
母の言葉は、予感に近い確信をもたらした。
これは単なる会食ではない。何かが終わり、そして、何かが始まる夜。振袖は、その始まりを告げる、静かなる祝砲なのだ。
翠は、ゆっくりと振袖に手を伸ばした。ひんやりとした絹の感触が心地良かった。その流れるような生地に触れるたび、高城家に連なる女性たちの、凛とした生き様が、翠の体に吸い込まれていくようだった。
翠の瞳に、確かな覚悟の光が宿る。
「とっても素敵な振袖だわ、ありがとうお母様」