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冬休みも終わりに近づき、巴が桃との浮かれた日々を送る一方、高城家の屋敷には、相変わらず穏やかな時間が流れていた。翠の心の中は、静かに、しかし確実に変化しつつあった。
ある午後、翠は自室にある愛用のアンティークデスクに向かっていた。一目惚れして買った小さな卓上暖炉の中ではキャンドルが優しくゆらめいている。
彼女の手には、開かれたままの哲学書。古い紙の匂いが部屋に満ちていた。だが、その視線は活字を追ってはいない。
窓の外は、澄み切った空から淡い光が庭を照らし、枝を落とした木々が静かに佇んでいる。その景色を眺めながら、翠は自身の婚約について、そして巴の変化について深く考えていた。
巴の成績が急落したこと、葛木桃とのあまりにも親密すぎる関係。そして、それに対する西條家からの具体的な動きが全く見られないこと。
なぜ、あの厳格な西條家が、この状況を黙認しているのか。そして高城家当主である私の父も。
翠の聡明な頭脳は、単なる個人間の問題では片付けられない、何か別の意図があるのではないかと推察していた。
「……試されている、とでもいうのかしら」
翠は、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。もしそうであれば、巴は完全にその試練に失敗している。そしてその結果は、婚約者である自分にも波及する。
彼女は、改めて彼への想いが変わったとこを自覚した。もはや彼に恋慕の情はない。ただ、名家の御曹司としての役割を放棄した彼に対する、冷静な評価だけだ。
自分の運命は、高城家の長女として生まれた時から決められていた。西條家との婚約も、その一つに過ぎない。自分は自分に与えられた道を、粛々と進むのみだ。
しかし、同時に、翠の心には微かな、それでいて確かな孤独感が募っていた。全てを理解し、割り切ったとしても、この宿命を背負っていくことの重さ。父が敷いたレールを進んでいくしかないのだ、私には。
両親だって祖父母だって政略結婚だった。それを見てきたのだから、想いを寄せる人と結ばれることが出来るとは思っていない。恋愛結婚なんて夢のまた夢だ。ただ、それでも尊重し合える関係が欲しかった。
歴代の高城家の女性たちは、常に正妻として尊重され、他の女とは一線を画した扱いを受けていた。母も祖母もその立場にふさわしい堂々たる振る舞いだった。
今の今まで翠は、母が父から粗末に扱われているところを見たことがない。
それが翠の理想なのだ。表面的な愛がなくとも、互いに役割を認め、敬意を払い、家という共同体を支える関係。
だが、巴にはそれすらない。婚約者である自分を公衆の面前で蔑ろにし、転入生と浮かれ騒ぐ姿は、尊重どころか、高城家の顔に泥を塗る行為に他ならなかった。一方的に傷つけられ、恥をかかされるような扱いはまっぴらごめんだ。
翠は、開かれた哲学書をそっと閉じ、その表紙に指先を滑らせた。書斎の静寂の中で、彼女の思考は、高城家という巨大な存在の歴史へと向かう。
幾世代にもわたり、この家は多くの困難を乗り越え、その地位を揺るぎないものにしてきた。その礎となったのは、代々の当主と、そして彼らを支える正妻たちの揺るぎない覚悟と品格だったはずだ。
「品格を忘れず、己の役割を全うしなさい」
祖母からも母からも聞かされた言葉が、翠の脳裏に鮮明に蘇る。その言葉は、当時の幼い翠には理解しきれなかった重みを持っていたが、今の彼女には、その真の意味が痛いほどに染み渡る。
それは、ただ耐え忍ぶことではない。自らの尊厳をいかなる時も守り抜くこと。そして、家名に恥じない行いをすることだ。
翠は、顔を上げ、窓の外の景色をまっすぐに見据えた。その端正な横顔は静かな決意を宿している。
「私は、高城翠としての役割も全うするわ。誰に何を言われようとも自分の品格を落とすような真似は絶対にしない」
それは、巴に対する激しい怒りではなく、自らの尊厳を守り、決められた運命の中でも高城家の名に恥じぬ自分であろうとする、静かで強固な決意だった。
太陽が傾き、書斎の隅に影が伸びる。その中で、翠の瞳だけが、揺るぎない光を湛えていた。