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恒例の月1の食事会。場所はいつも翠が提案している。一応自分で色々と調べ毎回お店を変えていたが、今回ばかりは違った。彼に対する当て付けではない。ただあれこれとお店選びに悩むのが馬鹿らしくなっただけだ。
前回と同じお店でも、予想通り巴は何も言わなかった。
「こんばんは、巴」
翠は努めて穏やかに挨拶した。しかし、巴からの返答はない。テーブルに置かれたメニューを開き、言葉を交わすことなくそれぞれの料理を選ぶ。互いの視線が交わることもなく、静寂だけが個室を満たしていく。
コース料理が運ばれてくる間も、二人の間に会話はほとんど生まれなかった。交わした口数はウェイターとの方が多い。
翠が時折「美味しい」とこぼすだけで、あとは店内の静かな音楽が場を支配していた。
そのままあっさりと解散し、車窓から流れる景色をぼうっと見つめる。まだ婚約関係は続いてる。巴の父親はどうするつもりなのだろうか。
出来るだけ翠は客観的に捉えようとした。正直、高城家とのコネクションを捨てるほどの魅力が彼女の家にあるとは思えない。直近の成長が目覚ましくとも、うちには遠く及ばないはずだ。普通なら婚約破棄をすることはない。
このまま卒業後に私と籍を入れて、彼女を愛人として囲うつもりなのだろうか。考えると、それが一番可能性が高いように思えた。
もしそうなったとしても、実際愛人扱いになるのは私の方だろう。巴は彼女に首ったけのようだから。形式上は私が妻でも、彼からの扱いは今と変わらないはずだ。学校内とはいえあの有様なのだから。体裁も何も気にしていないらしい。
愛人か。
政略結婚なのは重々承知の上だが、智恵子たちのような関係に憧れてしまうのは仕方がないはず。せめて私の立場を尊重してくれたら良かったのにと、翠は思わずにはいられない。
父にも祖父にも愛人というものはいた。実際に私が会うことはなかったけれど。小さい頃私はまだ無垢で、自分以外の女の人と仲良くしてるなんて許せないことだと思っていた。自分だけがいい、自分だけを見て欲しい。夫婦とはそういうものであるべきだと。
納得のいかなかった私は自分に甘かった祖母に尋ねたことがある。「何で怒らないの」と。
祖母はしっかり手入れのされたすべすべの手で、私の頭を撫でながらこう言った。
「彼女はあくまでも愛人だからね」
祖母のその言葉は、幼い翠には理解できなかった。なぜ「愛人だから」というだけで許されるのか。なぜ妻である祖母が怒らないのか。しかし、今ならその言葉の持つ意味が、嫌というほど分かる。
正妻である祖母の地位は揺るぎない。愛人は、あくまで正妻にはなれない存在。だからこそ、嫉妬する必要などないのだと。
事実、愛人が表に出てくることは無かったと思う。公の場で祖母は必ず祖父にエスコートされていたし、祖父の周りに祖母以外の女性の影がチラついたことはない。
祖父は明確に扱いを分けていた。愛がないとしても、翠は巴にそのように扱って欲しかった。本来はそうあるべきだとも感じていた。
名家の子息であるにも関わらず、婚約者に恥をかかせるような立ち振る舞い。巴の行動は、単に翠個人だけでなく、高城家と西條家の面子にも傷をつけている。
彼はまだ若い。でもそれでは理由にならないのだ、この世界は。彼が、その重さを理解しているとは思えない。
窓の外の夜景が、ぼんやりと滲んで見えた。その光景は、翠の未来を暗示しているかのようだった。しかし、翠はそこで立ち止まるわけにはいかない。
祖母の言葉が示すように、正妻としての立場、そして高城家の娘としての矜持がある。どれだけ彼女に煽られようと、感情に流され、体面を損なうような真似はできない。翠は強く誓った。