1-1:泥に眠る
時に「イタタ・・・」となる中二病的ロマンをあえて思い思いにつめた物語を作れればと思います。
拙い内容ですが、少しでも読者の方に楽しんでもらえるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
獣が向かってくる。
本能としての危機感が彼の背中を前へ前へと突き飛ばす。彼はひたすら走り続けていた。
朝、夜、朝、そしてまた、夜。何時間も何日も走り続けているような錯覚に囚われる。実際、いつまで走っていても、彼はこの深い森の奥の奥へ入っていて二度と出られないような気分だった。彼はただ荒い呼吸で震えた唇を噛むことしかできなかったのだ。
しかし、物事を前に進めるような契機は本当に突然訪れるものである。
不意に足が泥濘にはまり無様に彼は転んだ。口内に入った大量の泥のせいでえづく。呼吸を整えるのでさえやっとだった。足はもう泥に浸かって動かせなかった。
そうして彼はとうとう追跡者の姿を捉えたのである。
本来であればこのような木の高い真夜中の森で、夜目でもない彼がその姿を明確に捉えることなど不可能である。
しかし、イレギュラーな事態が発生するのがこの世の常である。
戸惑う彼の目には原始的で純然な炎が映っていたのである。その炎はとても近いように見えたし、同時にとても遠くにあるようにも見えた。
しかし、確実なのはその炎が彼に向かって確実に歩みを進めているということだった。
そしてその炎の中心部には、熊の2倍はあるであろう巨大な生命体のシルエットが浮かび上がっていたのである。
その生命体は決して焦っていなかった。獲物である彼の方へ向かって、大木にも引けを取らないほど太い前足を一つ一つ動かしている。
獣が一歩進むたびに周囲の木々は骨だけになってやがてはチリとなったその炎に吸収されていく。
周囲の生態系を薙ぎ倒すその炎はまさに獣の攻撃性を象徴していた。
炎はさらに燃え盛って迫ってくる。いよいよ彼の肌がその熱を感じとり始めると、圧倒的な恐怖で彼の身体は固まった。
そして恐怖の炎を消化するために、彼に残された唯一の手段が足元に転がっていた。
リボルバーを掴み、その炎へ銃口を向けた。
狙いをどこに定めるべきか皆目見当もつかなかった。
激鉄を起こした刹那、咆哮が上がった。
それは果たしてどちらの動物が発したものだっただろうか。
その答えを知る権利を得たのは、幸運にも彼の方だった、
引き金にかけた指先から全身まで伝わる振動が、もはや痛みの域にまで達していると気がついた頃、彼の目の前に獣は倒れ込んでいた。
いつの間にかこの獣を取り巻いていた炎の柱は消え去り、彼の周囲は静寂に包まれた。薬莢がパラパラと転がる音と共に彼は呆然とその燃えカスを眺めていた。
不意にリボルバーの硝煙とはおよそ異なる酷い異臭に気づいた。明らかにこの焦げた死体から発せられているものだった。
しかしこの悪臭は彼が少年時代を過ごしたブランクベイの牧場を思い起こさせた。牧場の一角にあった牛の肥溜めや廃棄物が溜め込まれていた納屋を彼は思い出した。
少年時代に暇つぶしで起こした火遊びが原因で、崩れ去ったオンボロの納屋だった。
この火事は彼の背中に痛ましい傷跡を残し、その後の人生に暗い影を落としていた。
焦げた死体を遠ざけようと触れたその刹那、獣の目が見開かれた。
獣はまた甲高い咆哮を上げたのである。
咆哮と同時に獣の全身を包むオレンジの炎は再度急速に燃え上がり、星空まで届くほどの柱を作った。
目を潰すほどの明かりが彼の体を大きく包み込んだ。
焼かれると思ったのと同時に、病的なほど白い腕が彼を抱きしめた。
彼は拒むことなくその腕に抱かれ身を任せる。それは何十年も前に経験した安堵感だった。
白い手の持ち主は、古くから伝わる子守唄のメロディを口ずさみながら彼の頬に手を置いた。
そして耳元で何かを呟くと、彼の身体から離れた。
彼が不意の寂しさを覚えたとの同時に、その白は暴力的なオレンジの炎で塗りつぶされ、優雅なソプラノのメロディは、強烈な悲鳴へと転調した。
グレッグ・ローズは長らく母の夢を見ていなかった。