◆65 狂気を生み出す霧
「ひいいーー、龍の化け物だ!」
「気を付けろ。黒い霧を吸ってはならん!」
明らかに動揺しながらも、マオ以外の年長の子供たちや、助修士、修道女たちも頑張っていた。
孤児院から逃げ延びた子供たち、総勢十名近くを、できるだけ遠くへと引率する。
「お前たちも、早く!」
「逃げろーー!」
子供たちが、わあああっ、と泣き叫ぶ。
蜘蛛の子を散らすように、孤児院から逃げ出していく。
その一方で、反対に、王都中央から飛び込んでくる勢力があった。
銀色の甲冑を纏った五十名ほどの騎士たちーー王都の都民を守る第三騎士団の面々だ。
彼らは孤児院に駆けつけつつも、孤児を気遣う者などいない。
騎士連中が目指すのは、黄金色に輝く化け物の討伐だけであった。
幸い、〈双頭の龍〉は瓦礫となった孤児院から動いていない。
蠢くばかりで、移動していない。
時折、小さい翼をはためかせて空中に浮かぼうとする。
だが、飛び切らない。
翼が重い大気を切る音が鈍く響くばかり。
図体が重いのか、宙には浮かべないようだ。
それでも全身から黒い霧が、濛々(もうもう)と湧き起こっている。
「一斉攻撃だ。掛かれ!」
オオオオーー!!
騎士団連中は雄叫びをあげ、弓矢や剣を手にして走り出す。
黄金龍が蠢いている孤児院の敷地に、集団で乗り込んでいく。
化け物相手にも物怖じしない、勇敢な突撃であった。
が、すぐさま、彼らの雄々しい声が消え去ってしまった。
代わって聞こえてきたのは、呻き声や悲鳴だった。
騎士団として、統制のとれたものではない。
あくまで個人の苦しみや痛みをあらわすものばかりであった。
〈魔の霧〉に毒されたのだ。
〈魔〉と恐れられるだけあって、人が息をすれば、たちどころにおかしくなってしまう。
ある者は、呼吸困難になって、喉を掻きむしって倒れた。
他にも、目の焦点が合わなくなり、口から涎を垂らしながら、徘徊し始める者もいた。
完全におかしくなって、誰彼構わず襲いかかるようになる者もいた。
とにかく、みんな無茶苦茶になってしまう。
『狂気を生み出す霧』ーーそれが〈魔の霧〉の正体であった。
おかげで、半壊した孤児院に誰も近づけない。
庭の樹々に、炎が燃え移り、黒い煙がもうもうと立ち昇っていた。
マオとライリー神父は、龍が暴れる様子と、騎士団の面々が気が触れてもがくさまを、呆然と見ていた。
黄金龍の武器は、人を狂わす霧だけではなかった。
孤児院の石壁や柱めがけて、龍は口から真っ赤な火を吹いた。
龍の化け物は相当苛立っているようで、かなりの火力だった。
孤児院の屋根は、メラメラと音を立てて燃え落ち始める。
敵の砲丸は石造りだったり鉄球だったりで、爆発しない。
だから建物が焼けるはずがない。
マオは、竈門の火が火事の原因だと思っていた。
が、違ったらしい。
双頭の龍は〈魔の霧〉を身にまとうと同時に、火炎を吐くのだ。
マオは気づいた。
子供たちがすでに孤児院の地下倉庫から出て、離れである倉庫塔に避難していることを。
気の利いた子供がいたらしく、黄金龍が生み出されるより先に、孤児院から逃げ出していたようだ。
そして、幸いなことに、その倉庫塔は風上にあたり、まだ黒い霧に覆われていなかった。
〈魔の霧〉を運ぶ風は、倉庫塔がある西側から流れ込み、森の樹々に当たって迂回し、北側の王城方面へと抜けていた。
おかげで教会方面から駆けて来たマオたちにも〈魔の霧〉が覆い被さることはなく、正気を保てていたのだ。
だが、孤児たちが逃げ込んだ倉庫塔にマオが向かうには、〈魔の霧〉が黒々と流れる只中を突っ切らねばならない。
炎を吐く〈双頭の龍〉が居る場所を横切るしかなかった。
ところが、運が良いことに、今現在、龍が翼をバタつかせるおかげで風が渦巻いており、孤児院辺りで〈魔の霧〉がたゆたう瞬間があった。
行手の障害物が除かれた、隙間のような時間ーー。
(動くなら、今だ!)
マオは勇を鼓して走った。
倉庫塔に向かって。
龍が蠢く孤児院を、大きく迂回しながら。
必死で走りながら、森の樹木の合間から眺め渡すと、異変が見受けられた。
いつのまにか、倉庫塔にも火が燃え移っていたのだ。
ついさっきまで、いつも通りだったのに。
さっき、龍が火を吐いたときに移ってしまったのだろうか。
泣き叫ぶ子供たちの姿が、マオの目に浮かぶ。
(頑張れ、みんな!)
マオは森を抜けて、懸命に駆ける。
そして、倉庫塔にまで辿り着いた。
龍を背中に、眼前に燃える塔を見据えながら、マオは立ち止まる。
「こんなに炎が……」
龍が吐いた炎は、材料がなくても燃え続ける、特殊な炎だった。
マオは急に不安になった。
(……ボクなんかで、助けられるのだろうか?)
唇を震わせながら、後ろを見る。
龍が相変わらず孤児院をゆりかごにしているかのように、ゴソゴソと蠢くばかり。
大人たちは〈魔の霧〉を恐れて、誰も動かない。
神父様も、助修士も修道女も。
黒いのも、白いのも。
緑の人はもちろん、孤児を助けになんか来てくれない。
だったら、ボクが頑張るしかない。
(聖女ヒナ様ーーボクにお力を!)




