◆43 それぞれの夜
ヒナがお茶の席で侍女たちに〈お姫様へのサプライズ〉を提案したのは、婚約の儀が予定されている日まで、あと一週間という夜だった。
その夜、ターニャ王女殿下は、久しぶりに婚約絡みの仕事から解放されていた。
異世界から魔法使いヒナが召喚されてから、ちょうど一週間が過ぎた頃でもあった。
本来護衛役であるはずのヒナは連日連夜、夜の街に繰り出している。
その夜も、ヒナはスプリング、ローブ、ナーラの侍女三人組を引き連れていくはずだから、王女殿下の周りは幾分、物寂しくなる予定だった。
が、逆に、彼女にとっては、都合が良かった。
ターニャも連日連夜、自室から出て、応接室で男性と歓談して過ごしていたからだ。
逢瀬のお相手は、正式に婚約者として発表されるのを一週間後に控えた、公爵家子息レオナルド・フォン・スフォルトである。
彼と庭先に出て、果実酒を嗜みながら星空を見上げるのが、彼女の楽しみとなっていた。
ターニャ姫と公爵家の子息レオナルドは、お互いに好意を抱き合っていたことがわかると、今まで以上に親密になった。
二人は、今夜も人知れず密会していた。
隣室で控える侍女長クレアと補佐のサマンサは、委細を承知して邪魔をしない。
(ちなみに、連日連夜、ヒナが夜の店に繰り出して、侍女たちを姫様から遠ざけようとするのは、姫様とレオナルド様との逢瀬を邪魔しないよう気遣ってのこと、とクレアは勘違いしていた)
大きな樹木の下で、高貴な若い男女が、並んで座りながら語らう。
「レオナルド様、私、今月の二十日で十八歳になりますの」
「そうでしたね。五月二十日。存じております。
あと七日ーー正式に婚約が発表される日ですね」
「そうよ。
でも、公的なパーティーではなくて、貴方と二人だけでお祝いしたいのですが、よろしい? 前夜にでも、お時間を頂けないかしら」
「もちろんですとも。
その時には、僕の方から求婚させてください。二人きりのときに」
「嬉しい。こんな日が来るなんて!
ほんと、ヒナさんのおかげだわ」
ターニャはレオナルドに抱きついた。
「ヒナ様はとても良い方で、私にいろいろとアドバイスをくださいました。
今、こうしてレオナルド様と親しくなれたのも、ヒナ様のお言葉に従ったからです。
自分の気持ちを大切にして行動しなさい、と教えてくれました」
レオナルドも、ターニャの細い身体を力一杯抱き締める。
「本当にそうですね。
自分を動かすものは、自分の気持ちーー心ですから。
無理に心をごまかすことはできません。
ーーヒナさん、良い方ですね。
僕からもお礼を申し上げたいです」
二人は時の経つのも忘れて、いつまでも互いの思いを打ちあけあった。
その話は、明るい未来についてのことがほとんどだった。
だから、二人は足元に危機が迫っていることに、まったく気付いてはいなかった。
◇◇◇
一方、同時刻ーー。
男爵家子息のアレックは、王妃ドロレスの私室で密会をしていた。
彼にとって、今宵は出陣の日である。
酒を満たした杯を手に、武者震いする。
そんな若い男のうなじに、色香を漂わせた熟女がそっと指で触れる。
「このままでは、あの小娘が公爵家のボンボンとデキてしまうわよ。
いつまでも黙っている貴方ではないのでしょう?」
「もちろん。一発逆転を狙ってるさ。
そのために精をつけに来たんだ」
テーブルには、豪華な料理が並べられていた。
子牛の赤ワイン煮と、野菜の付け合わせ。
牛の骨で取った、肉と野菜のスープ。
パンと白ワインーー。 どれも王国では珍しい豪華な料理で、アレックの好物だ。
ほどよく煮込まれた柔らかな赤肉が、たっぷりとお皿に盛り付けられている。
赤ワインとバターの香りがして、肉汁が舌になめらかに広がる。
アレックは杯を乱暴に置いてから肉の塊を口に頬張ると、満足そうに舌鼓を打つ。
そして、唇をベロリと舌で舐めた。
「今宵、決着をつけてやる。
ターニャ姫が婚約相手として発表するのは、俺の名前になるだろうよ」
アレックは傲然と言い放ち、鼻息を荒くする。
「まあ、頼もしいこと。
ーーはい。これ、あの娘の部屋の鍵だから。
奥の寝室用の鍵もあるわよ」
王妃ドロレスは、アレックに鍵を差し出しつつ、含み笑いをした。
そして、自ら杯に琥珀酒を注ぐと、一気に飲み干す。
白い頬が、ほんのりと薄紅色に染まった。
王妃のほっそりとした白い指には、艶のある大きな赤いルビーの指輪が嵌められていた。
王妃はルビーの指輪を、うっとりと眺めている。 テーブル上の燭台にある蝋燭の光に反射して、ルビーは煌めいていた。
濃い紅色が、血のように見える。情熱の色だ。
「私が欲しいわ。この指輪。
あんな小娘に似合わない」
「いや、駄目だ。
それはターニャ姫に、婚約指輪として渡すのだから。
行為の後に、だがな」
アレックは王妃の指からルビーの指輪を抜き取って小箱に入れると、無造作に上着のポッケに仕舞い込む。
ドロレスは指輪の行方を名残惜しそうに眺める。
「もったいないわね。私のほうがつける価値があるのに」
「ドロレス様、貴女はたくさん持っておられるでしょうに」
「女はね、幾つ宝石があっても困らないし、嬉しいものよ。
特に男から贈られるものは、特別なの」
「貴女様には、いつも特別なものを与えているではありませんか」
そう言うと、アレックは王妃ドロレスの手をテーブル越しに掴んだ。
「もう、アレックたら!」
若い男と熟女ーー親子ほども年差のある二人は、互いに見つめ合う。
利害の一致が、年齢の壁を易々と超えさせていた。
「今宵の料理は美味いぞ!」
アレックは叫んだ。
両眼を欲望の色で染めて、怪しく輝かせながら。




