第一章 第八話 ジュウロウ、梟を狩る
夜の帳が深みを増した。空には月も星も無い。
常人にとって灯り無しでは出歩く事すら覚束ない闇の森。
その中を迷う事なく歩き続ける者がいた。
彼の名はマジェットという。北の地サバーレ公領より流れてきた元兵士達の集団に属しており、現在は犯罪者にまで身をやつした一人である。
その経歴から腕利きが多い集団であり、その中でもマジェットは特別な立場にいた。
彼は「夜目」という変わったスキルを所持しているのだ。
それは闇が深い程に眼がよく見えるという特殊な能力である。
彼は先程まで念入りに行った偵察によって確認した獲物の状況を、彼等の首領に報告へと向かう途中であった。
都市部から離れた位置にあり主要な街道から外れている小規模な村落を襲撃する。それがマジェット達の行動指針であった。
彼はかつて自分達が取り締まって来た賊と変わらない存在へと成り果ててしまったのだが、今となってはこの人生も悪くは無いと思い始めていた。
何しろ正規兵として訓練を受けた者ばかりで構成された集団だ。地方に点在する村を制圧する事は、犯罪者を取り締まるよりも遥かに容易い事であった。
彼等がかつて守るべき存在であった弱者は、彼等が栄達する為に消費する美味しい獲物へと変わったのだ。
気ままに移動し、標的を見定め、襲い、殺し、犯し、略奪する。
法を侵したマジェット達は転がり落ちる岩と化して最早止まる事が出来ない有様であった。
彼等は凶王と呼ばれる男が支配する地から這々の体で逃げ出した落伍者達の集まりではあるが、現在まで誰一人損なう事なくこの地まで流れ着いた。
理由の一つは犯罪集団に変わっても軍隊組織として鉄の戒律を持って行動していた事。
もう一つは索敵に関して優秀な人材が揃っていた事がある。
彼等を力で束ねる首領、元サバーレ公爵領軍第三遊撃部隊の長を務めていたキャラストの指揮と、『夜目』マジェットと『鷲の目』ターハンの組合せで行う偵察が全てを可能にして来たのだ。
彼等の成功は索敵班に当たる二名のスキルを元に入念な調査を行う事から始まっている。
慎重なまでに観測と調査を繰り返して対象の脅威度、戦力、弱点、優先度を割り出し、万全を期してから襲撃をかけるのだ。
軍隊行動に根差した執拗な観察と分析が、只の賊の集団とは一線を画す理由であった。
彼等はいつの頃からか自分達を指して傭兵団「鷲と梟」と名乗る様になっていた。盗賊団という実情を敢えて無視する様に。
彼等にとって現在の立場は周囲の耳目を惑わす仮の姿で、行っている略奪行為は軍法に基いた現地徴収なのだと。いつか回復される名誉の為に今は偽悪的な立場にいるだけなのだと、そう信じる為に。
その真意がどんな形をしているのかはともかくとして。
そして「鷲と梟」は次の標的を既にその研がれた爪で捉えようとしていた。
用意周到な彼等はこれから蹂躙する村についても既に複数回の偵察を終えている。
今夜は決行日。マジェットはそのスキルを活かして最終準備に奔走していたところであった。
村を包囲する様に伏せ兵を配置させ終えた足で襲撃直前の夜間偵察を行ってきたのだ。
マジェットの目に映った獲物の様子であるが、一月程前に襲った村と距離が近い為にやはり情報は伝わっている様で、外壁として置かれた木の柵を必死に補強している様子が窺えた。
馬鹿馬鹿しい、とマジェットは口角を上げた。自分達をその辺のちゃちな盗賊と同じ様に考えて対策している様が可笑しくて仕方が無かった。
マジェットの感覚はとっくに麻痺している。兵士時代にあれ程に嫌悪した拷問や殺人にも歯止めが掛からない程に。
彼の表情は常に不機嫌そうにしているか侮蔑を浮かべてニヤついているかのどちらかだった。
脳内で自身が手にかけた相手の最後を反芻しているのだ。
あいつらが惨めに死んだのはあいつら自身が無能で間抜けだったのだと責任転嫁して見下す事で、犯罪や殺人への忌避感を麻痺させる癖がついていたのだ。
そしてこの半年の漂流生活の中で、この地に敵がいないと慢心していた。
実際問題として西部南方の辺境に当たる土地柄は「鷲と梟」にとって有利に働いていた。
王国騎士団がいる中央からは遠く西方騎士団の戦力も北の国境に近い大都市に集中している為、この辺りに点在する村に常駐する正規兵は居ない。
西に広がる大森林の外縁部が近くまで伸びてはいるが、この辺りに生息する魔獣は弱く、むしろ貴重な蛋白源として狩り殺している。
この地は「鷲と梟」にとって非常に都合が良かった。
唯一の例外があるとすれば地方に根差した冒険者組合の支部で、実際に一度、西部最大の都市ベルングトの冒険者組合から派遣されて来た銅級上位者のチームに食い付かれた事もあった。
しかし鷲と梟の目を上手く使った策で夜の森に敷いた縦深陣に誘い込んで鏖殺している。
――あの時は最高だった。オレたちを盗賊風情と侮った生意気なギルドの小僧共を返り討ちにしてやったんだからな――
マジェットはろくに下調べもせずに現れ、そして死んでいった主人公気取りの若い冒険者達の様を思い返していた。そしてまだ若く見目が良い魔術師の女を捕えた事を。
その魔術師は中々に腕が立ったが全てにおいて経験が不足していた。
あの時マジェット達の最大の懸念は術師による索敵であったが、彼女は仲間の斥候の領分に手を出していなかった。
斥候の勘働きと魔術の組合せこそが戦場で生き延びる最適な手段であるのに。
――いや、戦場と認識すらしていなかったか。馬鹿馬鹿しい――
マジェットは再び吐き捨てる様に呟いた。
彼は組合の冒険者達を心底侮蔑し唾棄する程嫌悪していた。
凶王麾下の部隊で地獄の様な日々を生き延びてきたマジェットの目には、若い冒険者達の見せた危機感の無さが軟弱に映ったのだ。
最大限から程遠い警戒レベルでノコノコと追ってきて壊滅する憂き目にあった事も、既に致命傷を負った仲間を人質にした交渉で、残った魔術師の女があっさりと武装解除に応じた事も、その後目の前で仲間全員の息の根を止めた時に泣き叫んだ姿も、全てが唾棄すべき軟弱さであった。
仲間を殺した時の絶望した表情を思い返してマジェットは低い笑い声を漏らす。だがすぐにまた不機嫌そうな表情を浮かべた。
あの魔術師は自身の運命を悟った時に何かの魔術を使って結界に閉じこもったのだと思い出して。
現在の駐屯地として仮宿にしているあの場所に戻れば、あの魔術師の女が石像の様に変わったまま牢に転がされている。
おそらく地の魔術を行使したと考えられるが、博識な首領ですらその正体が不明だと言った。
ただし後数日もすれば魔力が尽きて結界が解けるとも言っていた。
そうなれば溜まった獣欲を解消する標的として酷い目に遭うのだろう。
その時は俺も使ってやろう――下卑た回想にニヤついたマジェットは、その表情のまま固まった。
「――先程、『馬鹿馬鹿しい』と呟いていたな――」
信じられない事に、背後から回された腕が首筋に刃物を押し当てている。
「――拙者も同感。……貴様、それでも斥候でござるか?」
変わった言葉遣いの低い呟きが真後ろからマジェットの耳に流れ込んでくる。
激しく打つ動悸が荒い息として口から漏れ出てくる。背は汗でぐっしょりと濡れていた。
夜目を使いながら周囲の状況を探っていたのだ。それなのに――
「――暗視特化の能力といったところか。随分とキョロキョロしながら歩いておったが、夜目が多少効く程度で――それ以外はざるでござるな」
マジェットは背後から囁くような低い声が自分を嘲笑っている事に気がついた。
だが動けない。
事もなげに背後についた男から放たれる威圧感がマジェットの動きを縛っていた。
それは死神の微笑みの様に感じられた。
何か、命乞いをしなければ――それがマジェットの最後の思考となる。
首元に当てられた刃物はそのままに、もう一方の手が動いた。
そしてズブリとマジェットの延髄に刃物が突き込まれた。
一瞬の早業だった。
物言わぬ骸となったマジェットは地面へと崩れ落ちて行き――赤く光る虚空へと消えた。何かに飲み込まれたかの様に。
責任転嫁を繰り返す殺人狂は、僅かな慈悲も与えられず刈り取られて人生を終えた。自身が手を下してきた罪が返る様に。
マジェットが消え去った跡には、彼を狩り殺したものがいつの間にか立っていた。異世界からやってきた忍であった。
――ふむ。これが本命か。残り18……
作業を終えたジュウロウは闇に溶け込むように身を翻した。音も無く、戦闘や殺人の痕跡すらも無く。
暗く沈んだ森の中を忍が進む。この半刻の間に彼が屠った賊は6人。いずれもヤーメイ村を視認できる距離に隠れ潜んでいた男であった。
ジュウロウはヤーメイ村近辺に潜んだ盗賊を一人ずつ狩っていた。
現在、低レベルの忍術しか使えないジュウロウは状況を俯瞰視する事は出来ない。だから周辺三百歩の範囲に広げた「レベル2 透波術・魔力感知の術」を頼りに標的の位置を探っている。
何とも非効率で迂遠な事だと内心に溜息を吐き出すジュウロウであるが、実は彼が所属していた戦闘集団「十本刀」の中で最も低いと揶揄われていたジュウロウの索敵術ですら、この世界では希少なスキルと肩を並べる程に反則級の技術である事を本人は知らない。
地を這う心地で最低な暗殺を続けているジュウロウは、賊達がある特徴を持っている事に気がついていた。
規則正しく配置された伏せ兵。
伝令を兼ねた斥候の存在。
揃いの革鎧に揃いの長剣。
鎧の胸元に当ててある鉄の心臓隠しには何かしらの意匠を削った跡。
此奴らはおそらく正規兵?――いや、脱走兵の類いか?
異世界の事情に乏しいジュウロウには想定しか出来ないが、一つはっきりと解った事がある。
それは現在仮想敵として狩り殺している賊達が、ジュウロウにとって取るに足らない相手であるという事だった。
ジュウロウの感覚では、五人目までは特に何の特徴も無い只の兵士であった。
実際はそれぞれが戦場経験を持ち練度の高い熟練の元兵士だったのだが、ジュウロウにとっては只の兵士という括りから出なかった。
それはつまり地球に於いて経験したジュウロウの戦闘経歴が、この世界ギュネイホロスに同等に通用するという証左であるが、ジュウロウはまだその事実を知る事は出来ない。
地球にも存在した特級戦力である異能者の存在が彼我の距離を測る事を難しくさせているからだ。
ジュウロウは最後に始末した六人目だけが何か特殊な能力を擁していた事を感じ取っていた。
ヤーメイ村のジューダに宿っていたものと同質のものだ。
おそらくこれこそが「スキル」と呼ばれるこの世界の異能。
先程の男が周囲を探る視線には、何か異質な魔力が篭っていた。あれがおそらくスキルの恩恵なのだろう。
だがそれもジュウロウの隠密を見破る事は無かった。
そらを知ったジュウロウは一人ほくそ笑む。
少なくともジューダ達を脅かす賊の程度であればら忍として磨き上げた業が通じると知れたことは僥倖であったと。
だがまだ油断はしない。
ただ淡々と彼我の戦力比較を続けていく。
忍とは実際主義の側面を持った者達であった。
残りはまとまっておる。そこへの合流を図っておったな――残りも順次狩らせて貰うとしようか――
ジュウロウが次の獲物に意識を向けた時、不思議な事が起こった。賊の集団から三名、森の奥へと動き出したのを拡張された感覚が捉えたのだ。
もし集団から抜けて動くものがあるとすれば村の方へ向かってくると読んだのだが、どうやら夜の森を苦にせず離れていく様だ。そちらにも何らかの能力者がいる可能性がある。
そして何故この時に動きがあったのか。ジュウロウの狩りに気がつくものがいたのだろうか。
何よりもその内の一名はジュウロウの感知した中で最も大きな魔力量の存在であった。
ジュウロウの経験上、魔力量の多い物とはすなわち強者である。
少々の逡巡を経てジュウロウは動き出した。
跡を追えば捕捉出来る。ならば一刻も早くその他大勢を叩いてから追えば良い――そう決断を下した忍は闇夜の中に溶け込んだ。