第一章 第四話 大妖怪ミョウブ
広大な森林の奥で炸裂音が響き渡った。
音に驚いた巨鳥の群れが奇怪な鳴き声を撒き散らしながら空へと舞い上がる。
死鳥ケオスの群れだ。
全高2mを超える体躯と鋭い毒爪を持つケオスは、単体でもCランク、群れとなるとBランク以上の討伐レベルになる人類の脅威である。
そのケオスの群れがけたたましい声を上げながら、炸裂音が響き続ける辺りから逃げ惑っていた。
一体何が起きているのか?
その答えが森の木々を薙ぎ倒しながら姿を現した。
まるで太陽の光まで吸い込むような黒い鱗に覆われた巨体が、ケオスの群れに飛び込んで薙ぎ倒す。
大地を踏みしめる四肢が暴力的なエネルギーを解放し、周囲を逃げ惑うケオスを引き裂いていく。
暴れまわる大柄なケオスの個体を黒い剣のごとく伸びた尾が叩き伏せ、眼前を逃げ惑う別の個体を鋭い牙がひしめく顎で噛み砕く。
瞬く間に仲間を蹂躙されたケオスの生き残りが一斉に飛び立ち逃避を試みるが、その頭上を大きな影が覆い隠した。
爆発的なスピードで跳躍した殺戮者が、蝙蝠のような黒く強靭な翼を広げて回り込んだのだ。
10mを超える巨体が空中で身を翻し、ケオスの群れへ向けて咆哮する。
凄まじい迫力と音量の咆哮を浴びたケオスは金縛りにあった様に首を竦めて身を震わせ、目の前の脅威から逃走出来ない事を悟る。
ケオスたちの眼前に現れたもの――それは彼等魔獣種にとって王とも言える存在であった。
竜。
討伐レベルSの幻獣がそこにいた。
だがただの竜ではない。
漆黒の鱗を持つ竜の背には、黒い甲冑に身を包んだ騎士が乗っていた。
ケオスの群れはその異常な存在を知覚できたであろうか。
高い知能を持たないケオスの目には、最近この一帯で啄んでいた餌と同じものが竜の背にある、としか映らなかったのかもしれない。
ケオスは魔物である。己を脅かす脅威からは逃げるし、空腹の前に現れた餌には欲望のままに襲い掛かる。本能のままに生きていると言っていい。
この森で数十年ぶりに発生したケオスの群れである。
100体程集まった中には様々な個体が存在する。
竜への恐怖と餌への欲望が混ざり合って混乱した群れから、命知らずで蛮勇な一体が竜の背に乗る人間へと決死の突撃を行なった。
『ケキャアアァァァ!』
「ふん!」
闇の魔力を帯びた鳴き声を撒き散らしながら飛び掛かる死鳥を、すれ違い様に騎士が一閃、真っ二つに叩き斬った。
その手にはケオスの身の丈に迫る大剣が握られている。
尋常で無い膂力の持ち主であった。
この時初めてケオス達は知ったのだ。
竜の背に乗るものは、竜に認められるだけの力の持ち主であるという事を。絶望という感情と共に。
その存在を、竜騎士と呼ぶ。
再び咆哮を上げた漆黒の竜が、ケオスの群れに突撃する。
騎乗の騎士が振るう大剣が死鳥を裁断する。
その背面では、竜の爪が別の個体を引き裂いている。
逃げ惑う群れを追って騎士の剣技が断ち切っていく。
連動した騎竜の四肢と尾が炸裂し、叩き伏せてすり潰す。
人竜一体。息のあった騎士と黒竜が暴れ回る度に死鳥の命が消えていく。
突如襲いかかった破壊の権化の様な暴風に、濃密な死の気配を本能で感じ取ったのか。
残った死鳥達は、仲間を踏み台にする事も、自らの体を木々にぶつける事も厭わずに、狂った様に飛び立った。
「……一匹も逃さぬ! やれ! 『ブラックファング』!」
背に騎乗した騎士の号令を受けた黒竜の顎門が大きく開き、莫大なエネルギーが収束した。
次の瞬間に放たれたのは、破壊を司る竜種の代名詞『炎の息』であった。
赤と黒が混じり合った魔力の奔流が空を切り裂いた。
黒竜が放った炎の息が通り過ぎた後には――何も残っていなかった。
100体近くいたケオスの群は炎の息ブレスの一撃でその存在を消滅させられたのだ。
破壊の余波で一部を更地へと変えた森を背に、黒竜と騎士は悠々と飛び去っていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらく森を超える様に飛行した竜と騎士は、森の外縁部と接するように広がった村落へと辿り着いた。
村の中央の広場に子供達の歓声が上がる中、バサリバサリと翼をはためかせた竜がゆっくりと舞い降りる。
10mを超える巨体の背に跨る騎士は、地に降りた黒竜の背から大地へと飛び降りた。
「ご苦労であったな、ブラックファングよ」
竜の名を呼び、労うように首筋を撫でてやる大柄な騎士と、気持ち良さそうに目を細めてグルルと喉を鳴らす黒竜。
彼らは竜騎士と呼ばれている。
人外の力を持つ幻獣の頂点たる竜と、その信頼と愛情を勝ち取った英雄による組合せ。
魔物が跋扈する世界において、人類を守護する最強の存在である。
ブラックファングと呼ばれた竜は、竜種の中でも比較的小柄な影竜だ。
だがそれでもその体躯が放つ威容は恐ろしい。
気圧された村人たちは広場の淵にへばりつく様にして近付けないでいた。
歓声を上げた子供達も、家族に抱き抱えられらようにして近づく事は無い。
英雄譚を元にしたお話の中で憧れた竜ではあるが、実際にその威容を目の当たりにした子供達の中にはベソをかく子さえいた。
そんな中、二人の村民が騎士へと歩み寄る。
「首尾の方は如何じゃったでしょうか? 竜騎士様」
「おかえりなさいませ、ジューロ様!」
村長と、その孫娘だ。
一方は恐怖と打算が混ざり合った声で、もう一方は憧憬と称賛の響きを滲ませた声で、ジューロと呼ばれた騎士に語りかけた。
「うむ、死鳥の群れは間違いなく、某が殲滅致し申した。最早この村において、かの鳥共が災厄を振り撒くことは叶うまい」
「おお! おお! さようでございますか!」
「なんと素晴らしき事でしょう! ありがとうございますジューロ様!」
信じてはいたが、実際に当人が帰還して報告したことによって安堵が溢れ出したのか、大きな吐息と共に二人の肩から力が抜けていくようであった。孫娘の目には光るものがある。
「こんな僻地までお越しくださって、そのお力を振るって頂けたなんて、恐れ多いことでございます」
「本当に……まさか最高位の冒険者様に来ていただけるなんて……なんと感謝を申し上げたらいいのでしょうか……!」
2人が安堵し、涙すら流すのには理由があった。
ここは人間世界とは隔絶された地に築かれた開拓村である。周囲を囲む森は魔境と呼ばれる大森林だ。
それでも、仲間と、友人と、家族と、力を合わせてなんとか切り拓いて来た希望の地なのだ。
それを無慈悲に空から蹂躙された。
抵抗すら許されない空からの侵略者は、多くの村民を餌として捕食したのだ。
目の前で仲間が、友人が、家族が、啄まれ攫われた者達の絶望たるや。
彼等にとってケオスとは死の象徴であった。
今日、竜騎士が来るまでは。
ジューロは村を預かる両名にとって、正しく救世主であったのだ。
喜ぶ二人へ向けてジュウロウは大きく頷く。
鉄兜の隙間から覗く彼の瞳は、優しげな色に染まっていた。
「某は受けた依頼を果たしたまででござる。報酬も頂いておる故、気にされることもなかろう」
「ああ! ジューロ様……」
涙を零しながら胸に飛び込んで来た娘をジューロは優しく抱き留めた。
「おお、そなたのような妙齢の娘が、儂の様な戦人に縋ってはならぬ」
「……いえ、ジューロ様のお優しさに私はお礼を申し上げたいのです! 私が捧げるものなど、この身一つしかありませぬが……」
風に揺れる金色の髪、感情のまま潤んだ緑の瞳。村一番の美人と評されていた娘は大層美しかった。
厳格なる騎士として人生を歩んできたジューロの目には眩しく映る。
美しい娘がジューロに寄り添う。
その細い体にあって声高に主張をする豊満な胸元を押し付けられる形となったジューロは、その魅力から目を背ける様に明後日の方角を見上げた。
「……しかし、儂の様な武骨な男に、其方の様な可憐な者は似合わぬ」
「ジューロ様……」
「儂も其方の様な……すたいるの良い女性は嫌いではないが……だが、だからと言って――」
娘の手がツンツンとジューロの胸をつつき出す。
「ジューロ様……お慕い申し上げます――」
(……ああ! 駄目でござる……)
「……ジューロウ……」
(……拙者はその様な事は……)
「……ジュウロウってば」
(……うぬぬ……)
『ジュウロウ、おいってばよ』
ジュウロウは、なんとも言えないフワフワとした頭の中で、聞き慣れた声が響いて来るのを聞いた。
『また冒険譚の世界に浸っとるのかもしらんけど、とりあえず起きるにゃ』
間違いない。相棒であるミョウブの声だ。ジュウロウがみる夢のクセまで知っているのだから間違いない。
ジュウロウはその立ち振る舞いや言葉使いこそ忍者のイメージに相応しい古風なスタイルで生きているが、その実、趣味としては異世界への憧憬を抱いた男であった。彼の趣味の蔵書は殆どが異世界冒険譚と呼ばれるジャンルなのだ。
だから儂が見る夢は大抵が……竜を駆る騎士であったり、魔神に挑む戦士であったり、天変地異に立ち塞がる大魔法使いであったり――んん? 夢?
そこでジュウロウの意識は覚醒した。
儂は夢を見ておったのか
それにしても、儂は一体何をやっておったのか……何故ミョウブに起こされておるのか……?
『おい、ジュウロウ。起きるにゃ』
声どころか、ペシペシと体を叩く感覚まである。
胸元を突いていたものは、村長の娘ではなく、ミョウブの前足であったのか――そこまで考察してジュウロウは驚愕した。
彼の体が無かったからだ。
なにしろ彼は今、白く霞んだ気体のような存在だったのだ。
手や足の感覚はおろか五体全ての感覚が消失した異常な状況。
球体に近い発光体であるという感覚。
にも関わらずミョウブに突き回されている光景。
これではまるで怪談話に出てくる人魂のようではないか――覚醒したジュウロウの意識はそう判断した。
『お、どうやら起きたようだにゃ』
フワフワと漂うジュウロウの後ろには、体の所々が半透明に透けている中型の猫のような存在、つまりジュウロウと使い魔契約を交わしている妖、ミョウブノオモトがいた。
ミョウブ……! 儂は……!
『ああ、落ち着くにゃ。びっくりするのもわかるにゃけど、とりあえず落ち着くんにゃ』
聴き慣れた使い魔の声に、忍として鍛え上げられた精神力が反応し、ジュウロウはフワフワした体を無視して印を結ぶ両手を意識し、精神を研ぎ澄ました。
『おお、あんたよくこの状態で術を使えるにゃ』
咄嗟に行使した忍術『精神統一』が発動したのを見たミョウブが驚きの声を上げる。
完全に平静さを取り戻したジュウロウは、ミョウブの様子から自身の状況を推察した。
お主が驚くということは、今の儂は本来ならば術を使えぬ状態……例えば魂のようなもの、ということだろうか?
『お、よくわかるにゃ。アレだにゃ。高天原の時と似た感じになっとるのよにゃ』
ミョウブの言葉にジュウロウは思考を巡らせる。
高天原――イチロウ兄者のマガミが持つ異次元の修練場――懐かしい話でござる……
『オオグチのヤツが持っとる空間は、びっくら異常な性能しとるのよにゃあ……チョッチ違うけど、まああんな感じよ。要は世界と世界の狭間におるっちゅーことにゃ』
魂魄体ということでござるか……どうやらこの状態でも精神強化の術式だけは発動出来る様でござる
冷静さを取り戻したジュウロウは自身に刻み込んだ術式をチェックして、現在の状態でも使えそうな術を把握していた。
いつ如何なる時も、どんな状況であれ、最善を尽くす忍としての習慣が染み付いているのだ。
確認作業の末に理解した事は、肉体を持たない現状でも努力すればそれなりの術式を組めそうだという事だ。
能力の殆どを制限された状況での修練や戦闘の経験を持つジュウロウからすれば、悪くは無い、といったところであった。
『相変わらずセンスオバケよにゃあ……ああ、あんたの行き先が関係しとるんかもにゃ』
ジュウロウはミョウブの言葉を受けて問題の根幹に思い当たった。
自分を取り巻く状況は一体どうなっているのだろうか?
浮かんだ疑問に答える様にミョウブが言葉を続ける。
『あんた、死んだにゃ』
その言葉が衝撃すぎて、ジュウロウの魂魄体がブルブルと震えた。
『多分うっすら覚えとるんじゃにゃいか? あんた、扉を縛るガシャドクロと戦ったにゃ?』
封印された扉と、骨鎖に封じられた神像群、そして根元にあった髑髏水晶――あれが大妖ガシャドクロ……!
ジュウロウは、護魔忍屋敷最奥の地で起きた出来事、そして自身が命を賭けた一撃を放った事まで思い出していた。
『あんた、護魔忍の力の根源やっとったガシャドクロを叩き斬って呪い殺されたにゃ』
そうだった。儂は……であるならば、異界の神々は――
『無事に解放されて扉を開いたにゃ。で、あんた気に入られて一緒にあっちに行くことになったにゃ』
あっち?
行く?
つまり儂は死後の世界に――
『ちゃうちゃう、違うにゃ。ギュネイホロスって世界にゃ』
透けた前足と尻尾をシンクロする様に器用に振ったミョウブが続ける。
『さっき世界と世界の狭間って言ったにゃ? なんちゅーか、説明が難しいんにゃけど、簡潔に言うと、同じ宇宙にあって違う層にある星に行くんにゃ』
簡潔に言うと――ミョウブの口癖である。
この説明好きの妖からこの口癖が出ると言うことは、長々と説明に時間をかけている程状況に余裕があるわけでは無いのだろう。
『うちらがおる層も含めて、この世界は多層構造になっとるにゃ。まあ、レベルは同じで異なる次元……多次元ならぬ他次元とでも言うところにゃ』
ジュウロウは良く意味を理解は出来なかったが、感覚で飲み込んだ。
『つまり、あの神さんがたが地球に来る前に元々おった世界にゃ。そこにあんたは行くところ、って事にゃ』
神々がいた世界――そうか。無事にお返しする事が出来たのか……儂は成し遂げたのでござるな?
神の返還。それはジュウロウにとって何よりも大切な事だった。
地球上において不倶戴天の敵手を打倒し終えた護魔忍の力は大き過ぎる。
その力は異界の神々から搾取してまで維持しなければならないものでは無い。
そう信じたからこそジュウロウは命を賭して戦ったのだ。
自分を信じて任せてくれた兄弟や仲間達を思って、ジュウロウは震えた。
『そうにゃ。あんた、勝手に命を使いよってからに。おかげであたいらの棲家はメチャクチャになりかけたにゃ。まったく契約をなんだと思っとるにゃ』
すまぬ……あのお姿を目の当たりにして、儂は止まることが出来んかったでござる……
妖達との契約を蔑ろにして絶命の自殺技を放った事は、ジュウロウにとって大いに心残りであった。
申し訳ない思いが胸に込み上げたジュウロウは、謝罪の気持ちを誠心誠意伝えてまた震えた。
『まあ、あんたはそういうやつよにゃ。でも、それでこそあんたでもあるにゃ。あんたが死んだらチョッチ困ったにゃけど、契約が守られるならあたいらみんなハッピーにゃ』
そんな自分に対して伝わってくる、気にするなと言わんばかりのミョウブの思いに、ジュウロウの心は暖かい気持ちで一杯になった。
『でもってここからが大事なところにゃ』
前足で顔をゴシゴシと撫でたミョウブが本題を切りだした。
傍から見れば、猫がリラックスしている光景だが、ミョウブにとっては重要な話をする前の緊張を解す仕草である事をジュウロウは知っている。
『地球とギュネイホロスじゃずいぶんと勝手が違うにゃ。魔力の絶対値が違いすぎるんにゃ。あんた、そのまま行っても多分にゃけど、初めて無重力空間に出たニンゲンの様に無様に転がるだけにゃ』
真面目に聞いていたジュウロウだが、正直なところいまいちピンとこなかった。
初めて無重力を体験した時に、大した苦労もなく感覚をアジャスト出来たからだ。
『……そうだったにゃ……こいつ感覚オバケだったにゃ。ぼけっとした顔しとるから忘れてまうんにゃ。なんでもかんでもすぐに習得するふざけた性能しとったにゃ』
あまりと言えばあんまりなミョウブの呟きにジュウロウは震えた。
『……とにかく! 時間がないんにゃ! あんたの中に足りないモンをぶち込む様に指示されとるんにゃ! とりあえず細かい話は後にゃ! ていっ!』
掛け声一閃、ミョウブがペチンと前足でジュウロウの魂魄体を引っ叩いた。
その瞬間、ジュウロウの意識は暗転した。