第一章 第三話 ジュウロウ最後の戦い
空間を超えて屋敷の最奥に転移したジュウロウは、畳の上に立っていた。
それは、ごくありふれた日本家屋の和室――有り体に言って、只の部屋である。
だが外気に触れる目元の肌がピリピリと引き攣る感覚があった。
何かがおかしい。
何の変哲も無い八畳間を認識する視界に対して、別の感覚が違和感を告げていた。
あれほどまでに堅牢な結界で封じられた「封印の間」の正体が、こんなどこの家にもある様な普通の和室なのであろうか?
感知能力が決して高くないジュウロウではあったが、それでも視覚から脳に届く情報を拒絶する。
いや、恐らくは、隠蔽の術がかけられた結界が存在しておる…… !
彼の目にはその結界は映らない。だが彼には自身の能力不足を補う術式がある。
ならば見破るまで! ――看破忍法『傍目八目』!
残り少ない魔力を練って光の術を発動したジュウロウの双眸が淡く輝き、全てを見通す真眼を発現させる。
欺瞞を破る眼を得たジュウロウの視界は、違和感の正体をはっきりと捉えた。
畳が敷き詰められた部屋の奥には、漆喰塗りの床の間があるが――何も無い。
正確には、何があるのか認識出来ないのだ。
実はこの場所に備えられた結界は、ジュウロウが感じ取った通り対象の存在を希薄化させる隠蔽結界だった。
それを悟ったジュウロウは、真眼に更なる魔力を注ぎ込んで結界の奥を見通していく。
突然、視界が開けた。
隠蔽結界を突破したのだ。
そこには長大な座敷があった。
一体どれほどの畳が敷き詰められているのだろうか。その一枚一枚から隠蔽の術式が感じ取れた。
その術式は、奥へと伸びる座敷を所々区切る様に天井へと伸びた柱にも刻まれている様だ。
まるで京都の「三十三間堂」の様な作りの座敷であった。
ジュウロウの真眼は、広大な空間を構成する材質の一つ一つに設置された隠蔽の防御機構が全て内側を向いている事を見抜いていた。
つまり、この座敷の最奥にある物の存在を隠蔽する為だけに、この空間は用意されたものなのだ。
絶対に隠し通すという妄執が感じられる空間であった。
「護魔忍屋敷」が生み出されてから200年以上、守り続けられてきた最奥へ至る道。
防衛罠群、妖獣結界、隠蔽結界。その三段構えの守りは絶壁として君臨し、幾多の侵入者を塵に変えてきた道である。
誰一人として侵入を許さなかったその道は、ジュウロウによってついに踏破される事となったのだ。
えもいわれぬ感動があった。
激情が込み上げるジュウロウは、しかし己の心を厳しく戒めた。
まだ、お目に掛かれたわけではない――
そう、まだ目的を果たした訳では無い。ジュウロウの目的は、この奥にこそあるのだから。
グッと下腹部に力を集めて集中したジュウロウは歩みを進めた。
100m以上あろうかという座敷を、滑るようにジュウロウが進む。
一歩ごとに隠蔽の術式の隙間へ身を捻じ込むようにして。
進むにつれて、ジュウロウの感覚に捉えた存在が大きくなっていく。
彼のよく知る崇高な存在と、彼が知らない邪悪な存在とが。
数えること実に七十二間を抜けた先で座敷は行き止まり、最後の封印術式が施された襖があるだけだった。
見覚えがある術式。おそらく、転移陣。
つまり座敷の最奥へ辿り着いたという事であった。
ジュウロウは意を決して封印された襖を開き、再び転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そこには、二十畳程あろうかという広大な板間があった。
その空間の中心辺りだろうか。
200cmを超えるジュウロウと変わらない大きさの石像が七体、円を描くように等間隔で並んで屹立している。
それぞれが派手な装飾が施された鎧に身を包み、様々な武器や盾を手に構えている。
それは神を模した石像群なのだとジュウロウは悟った。
しかし異形の「神像」であった。
本来であればあるハズの御尊顔――御神体によって猛々しかったり、或いは神々しかったりする顔――が無いのだ。
まるで表情だけが削り取られたようにのっぺりとしており、そして顔の代わりにグルグルと渦巻いた水面の様な模様が刻まれていた。
一種異様とも言えるこの神像群こそがジュウロウにとっては見慣れた神の姿なのだ。
そこから発せられる重厚で圧倒的な存在感をジュウロウは知っていた。
神威――ジュウロウ達「護魔忍」に超常の力を与える神の依り代が放つ威光である。
この石像群こそがジュウロウの忍術の根幹を支える「加護」を与えてくれる存在――「神々」であった。
だが、平伏し、真言を唱え、祈りを捧げるべき己の守護神像を前にしているのにも関わらず、身じろぎ一つせずに立ち竦むジュウロウの眼差しには、苦悩が色濃く映し出されていた。
ジュウロウの目が捉えていたものは、板間の中央に立つ不可思議な「扉」だ。
空間の中心にポツンと存在し、神像に囲まれるように置かれた西洋仕立ての巨大な古い「扉」。
天井に届くかというその金属製の巨体を、何重にも巻き付いた鎖によって厳重に封をされている。
扉を縛り付ける太い鎖は邪悪な気配を撒き散らした異形の鎖であった。
確かに金属製の鎖なのではあるが、金属というよりは動物的な何かで作られているような錯覚に陥る希妙な鎖。それはまるで死骨の様だとジュウロウは思った。
その邪悪な気配を放つ異形の鎖は、扉を縛り付けた先に七体の神像に向かって伸びていた。
扉と同じ様にして神像の全身を封じ込めるように絡みついているのだ。
そして神像群の胸の中心に突き立った何かへと繋ぎ合わされていた。
神像の体躯に打ち込まれたそれは、まるで臓物のような深い皺と襞を刀身に刻んだ、禍々しい「苦無」であった。
不思議な事に、邪気に満ちた苦無によって穿たれた神像は疲弊している様に見える。
無機質であるハズなのに、傷つき、疲れ果て、血を流しているかのような錯覚を覚える程だ。
看破忍法を発動したジュウロウの目は、その苦無に込められた強大な呪力を見抜いていた。
「扉」から伸びて神像の胸元に撃ち込まれた苦無へと繋がっているモノは、神をも縛る「呪いの鎖」なのだ。
この「呪いの鎖」は、一体何の為に存在しているのか?
その答えは、ジュウロウの目の前にあった。
神像を穿った苦無から更に伸びた呪いの鎖は、七本から収束して絡み合い、溶け合う様にして一本の太い鎖へと融合している。
そして不可思議な「水晶」へと接続されていた。
黒く輝き、歪な形をした巨大な水晶。
それは、朽ち果てた人間の頭部、髑髏を模した水晶であった。
禍々しい呪力を漂わせた髑髏の空虚な双眸が、まるでジュウロウの姿を睨みつけた錯覚を覚えて、ジュウロウの背筋は慄いた。
「髑髏水晶」と対面したジュウロウの眉間が苦悩に歪む。
この「呪いの鎖」……「扉」を封じ、御神体を縛り、強奪した神の力を使って、扉の向こう側から何かしらのエネルギーを吸い上げ、この巨大な「髑髏水晶」へと注ぎ込んでいる……
ジュウロウはそう直感した。
つまりこれこそが今回の護魔忍戦争の元凶であり、ジュウロウの目的であった。
ジュウロウ達の目的は、封印された異界の神々を解放する事にあったのだ。
「苦無とは……苦しみを打ち払う為にこそある忍の刃でござる。決して、苦しみを与え続ける為に在るのではござらん……!」
ジュウロウから低く重い声が響く。
それは決意の響きであった。
だか次の瞬間、ジュウロウの声色が変わる。
「七天様方、随分と御待たせし申した。今この瞬間にて、この世界より解放致します故、もう暫しの辛抱を頂戴したく。この沫木十楼にお任せあれ、でござる」
自身の信奉する神を敬っているのかどうか怪しい様な軽い声でジュウロウが言った。
見ればこの男、女神の御神体に向けてはウインク等までしている。
世を忍び闇に生きる者のクセに軽い。
余りにも軽い。
だが、これがジュウロウであった。
彼は救いを求める弱者と接する際に、決して心配や不安といった表情を見せない。
困難であればあるほどに明るく接し、苦労を感じさせること無く、無理難題を、艱難辛苦を、共に寄り添ってあっさりと解決する。
まるで何事も無かったかの様に。
まるで大した問題では無いかの様に。
例え流血を伴おうとも。
軽やかに、爽やかに。
そうあるべく最大の努力を払う男であった。
それは彼生来の気質であり、そして成長の過程において決定付けられた心根の在り方、云わば彼の矜持なのだ。
目の前に屹立した七体の神像は、ジュウロウにとって信奉する神であると同時に救うべき弱者であった。
軽い口を叩いたジュウロウの心は、実は怒りに燃え滾っている。
御神体を縛る「髑髏水晶」へと向き直ったジュウロウから烈帛の気合が迸る。
「ハアアアアアアアアアァァァっ!!」
ジュウロウの手にはいつの間にか刀が握られていた。
十本刀最強の忍が持つに相応しい七尺にも及ぶ長刀である。
その白く輝く刃が描く美しい刃紋は、ジュウロウの気迫と呼応して輝きを増していく……
「……儂の全て……この一刀に! ……頼む……『闇祓い』! ……うぉぉぉぉおおおお!!」
愛刀の名を呼び、ジュウロウは一撃を振るう。
数多の戦いを切り抜けてきた愛刀への感謝があった。
共に死地を駆け抜けた使い魔達への惜別の思いがあった。
神への贖罪と同胞への弔いがあった。
己を縛り付けていた里の秘密に対しての怒りがあった。
その全ての想いと命を燃やして、ジュウロウは光の刃となって駆けた。
彼はこの呪いを破った者がどうなるか知っていた。
彼もまた、封印によって根源の力を得ている者の一人だったからだ。
この呪いは絶命必至の邪悪な呪いであった。
自らの力の源である封印と対決するのであれば、彼に注がれた根源の力に潜んだ呪いによって命が喰らわれてしまう事を知っていた。
だからジュウロウは、一滴も残さずに全ての命を刃と変えた。
――狙うは髑髏水晶……必ず、この一太刀で封印を破壊する!
「――不惜身命・滅魔斬!!」
命の刃となったジュウロウ乾坤一擲の一撃が、神を縛る呪いを斬る。
パキイイィィィン……
そして――封印は破られた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジュウロウは死んだ。
神をも縛る封印の呪いを斬る為に、命を使ったからだ。
ズル……ズル……
その屍を、悪夢が襲う。
ズリ……ズリ……
神像を封印していた髑髏水晶は、真っ二つに断ち切られて地に転がっている。
だが、鎖の破片は封印破壊の余波に耐え、消滅せずに生き残っていた。
ジャララ……ジャラ……
意思を持って大蛇の様に蠢く鎖の残骸がジュウロウの四肢に巻き付いていく。
魔の鎖の先端にへばりつくように残っていた異形の苦無が、ズブリ、とジュウロウの心臓の辺りに突き刺さり、潜り込む。
苦無に宿った禍々しい何かが、新しい寄生先を求めているのだ。
異界の神すらも縛った封印の呪いが、最強の忍の体を傀儡と変えるべく襲いかかった。
命の灯を失った筈のジュウロウの体が、ビクンビクンと蠢動する。
死せる忍の体には、闇の侵略を拒絶する手段は残されていなかった。
人知れず戦い散った忍は、死して尚、安寧の時は迎えられぬのか――闇の苦無によって侵食されたジュウロウの屍が魔界に落ちる寸前……その時だった。
「扉」から七色の神気が立ち昇った。
『させぬ』
灼熱し赤く輝く剣が、右腕の魔鎖を断ち切った。
『不埒なる輩よ』
大地を切り裂く岩の鎌が、首に巻き付いた魔鎖を切り刻んだ。
『塵も残さぬ』
雷雲を穿つ巨大な鎚が、左腕に巻きついた魔鎖を打ちすえて木っ端微塵と粉砕した。
『許しません』
十二本連なった疾風の矢が、右脚を侵食していた魔鎖を吹き飛ばした。
『逃しはせぬ』
鋭く長い水冷の槍が、左脚に絡みつく魔鎖を破壊した。
『死ね』
『消えよ』
闇の弾丸と光の波動とが、ジュウロウの心臓へ潜り込んだ異形の苦無と、彼の周囲を包む呪いを消滅させた。
それは、神の御技の行使であった。
ジュウロウの身を通して、奇跡が発動したのだ。
己の命を賭して封印の呪いを斬ったジュウロウの気高き魂は、異界の神々の心を打った。
だから復活した神々は、奇跡を起こしてジュウロウを救う道を選んだ。
それはこの世界において重すぎる奇跡。
それでも神々は、彼を愛し救うと決めた。
床の間を埋め尽くす様に、封印を解かれた神々の光が溢れだし、世界を揺らした。
この瞬間、地球上の全ての場所が、異界の神々のエネルギーの余波で振動したのだ。
そして、封印の間の中心に存在する「扉」が開く。
神々の力で開かれた「扉」は、地球と異世界を繋ぐゲートなのだ。
渦巻くエネルギーの奔流は、「扉」を開いて向こう側へと吸い込まれるように消えていく。
封印された神々とは、この世界に於いて世界そのものを崩壊させる程の存在であった。
そのエネルギーの強大さを支えきれ無い地球は、神々が顕現している間に疲弊してしまうのだ。
だから顕現した神気は、地球を崩壊させない為にあるべき世界へと帰っていく。
そして、神々の奇跡によって生き返ったジュウロウもまた、地球に止まることが出来ない存在となっていた。
魂の再生には莫大なエネルギーが必要なのだ。
奇跡の微睡みの中にいるままのジュウロウもまた、「扉」の向こうへと消えていく。
だがしかしこの男、その身に降りた奇跡とは程遠い低俗な夢の世界へと旅立っており、満足そうな笑みを覆面の中に浮かべ眠りについたままであった。
全ての光がゲートをくぐり、異世界へと消え去った後、護魔忍屋敷最奥の空間には、崩壊した石像群と、古めかしい重厚な金属製の巨大な扉が残されているのみであった。
こうして、護魔忍十本刀最強の男であり、最強の忍術使いであった男は、大好きな仔猫と遊び、妙齢の巨乳淑女と愛を語らう――という、ふざけた夢を見たまま、異世界へと転移した。