消えた王太子妃
胸騒ぎがする!アルベルトのこめかみがピクリと動く。
アルベルトは勢い良く立ち上がり剣を手にする。弾き飛ばされた椅子が倒れ大きな音をたてる。シンとした執務室に木霊する。
さらに胸が騒ぐ!!アルベルトは疾風のごとくフェリシアの寝室に向かう。
フェリシアの寝室の扉にかけた手は震えている。何の気配もしない。それでも、アルベルトは音を立てないように、そっと扉を開ける。
◇◇◇
春が来てずいぶん暖かくなってきた。安定期に入ったフェリシアは久しぶりに後宮を出て、王族専用の庭園へと足を伸ばした。
後ろについていたロザリーが身体を寄せてくる気配に気づき、フェリシアは歩むペースを緩めた。
「フェリシアさま、失礼いたします。このまま足を早めて、私の案内する方へとお進みください。」
ロザリーはフェリシアの背中にそっと手を添えた。
「え!?どういうこと?」
フェリシアは訝しげに眉を潜め、ロザリーに首を傾げようとした。その時、ドサッと重いものが倒れたような、大きな音が後ろから聞こえた。その音に驚いて、慌ててそのまま後方を振り返った。
最後尾を歩いていた近衛兵が、地面に倒れているのが目に入った。警備兵のような服を身に付けた男が、その上に覆い被さっている。
「えっ!?」
フェリシアは突然の事態に状況が把握できず、咄嗟に視線をめぐらせて辺りを見渡した。
どこから現れたのかさっぱり分からないが、同じ恰好をした男は他にもいた。もう1名の近衛兵も既に背後から取り押さえられていた。
さらには、もっと近くに別の男がいる。素早く動いたかと思うと、ロザリーの後ろにいるモニカに手を伸ばした。
「モニカっ!」
フェリシアはそこで、自分たちが何者かに襲われていることをようやく理解した。
真っ昼間の王宮内でこんなことが起きるなんて信じられない!
フェリシアは現実味のない世界に急に引きずり込まれた。サァ―と血の気が引いていき、青褪めた顔が引き攣った。
男に抱え込まれるように取り押さえられたモニカを目にし、上擦った声が出る。
「やめてっ!」
「フェリシアさまっ!逃げて!!」
フェリシアの視界の端から、もう1名の男が飛び出るように現れた。
ロザリーがフェリシアを守るように立ち塞がった。フェリシアはその様子を呆然と見ながら、身体を後ろに引いた。間違いなく男たちの狙いはフェリシアだ。
ロザリーの言葉に反応した身体が、半ば無意識にその身を反転させた。前に進むと、小刻みに震え出した足がもつれる。とたんにものすごく強い力で腕を掴まれ、その痛みに顔を歪める。
フェリシアの上半身にものすごい勢いで、グルグルと固いロープが巻きつけられる。瞬時に口元に布を強引に押し当てられる。思わず顔を捩じると、布ごとがっと顎を掴まれた。
『あっ…やばい……』
鼻から入ってくる咽るような匂いに思考が絡め取られて、徐々に意識が昏迷していく。
薄れゆく意識の中で、フェリシアはどこか聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
◇◇◇
「――フェリシア!」
アルベルトはフェリシアの寝室の扉を開け部屋へと飛び込むと、誰もいないベッドを目にした。
ひょっとして、起きていてサロンにいるのか…
その騒ぎに居間からミランダや侍女が駆けつけた。
「ミランダ、フェリシアはどこだ!」
「王族専用の庭園へ行かれました。」
アルベルトは急いで庭園へと向かう。
そこには、近衛兵とロザリーが倒れていた。
「ロザリー!何があった!?」
ロザリーに駆け寄り呼吸を確かめると息はある。
声をかけ、揺り動かしたが反応はない。
「今すぐ門を閉じろ!誰も何も外に出すな!」
アルベルトの命令に、後を追って来た近衛兵二人が駆け出す。
そのとき、近衛隊長のロバートがやってきた。
「殿下、妃殿下は――!」
「ロバート、今すぐ王宮内をくまなく捜せ! 」
フェリシアが消えたことを瞬時に理解したロバートに命じる。
ミランダは動揺をあらわにし、ロザリーに声をかけ続け介抱していた。
近衛兵たちに指示を出し終えたアルベルトがやってくる。
「ロザリー、何があった!?」
ロザリーは目をぎゅっと瞑り、苦しそうに呻く。
「……で、んか……けいび……へい、見たことの、ない、……を、着ていて……」
目を閉じたままのロザリーが、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
その警備兵にいきなり襲われたと、かすれた声で訴えた。
◇◇◇
ロイドが開かれた扉の隙間から、音もなく身体を滑り込ませるように執務室へと入ってきた。アルベルトの前まで迷うことなく足を進ませる。
アルベルトはぎゅっと固く目を瞑ってから、滾る全身を落ち着かせるように深い息を吐き出した。そして、ゆっくり目を開いた。
「……ロイド、状況は?」
「妃殿下は侍女のロザリーと妃殿下専属の近衛兵の3名を帯同されて、王族専用の庭園を散策中、背後から現れた4名の集団による襲撃に遭いました。3名の近衛兵は制圧され意識を消失、そのすぐ後に妃殿下の近くにいた侍女のロザリーが、みぞおちへの打撃で気絶させられました。4名は訓練された手練の者です。妃殿下は何かを嗅がされて意識を失くされた模様です。賊は妃殿下のみを連れて姿を消しました。」
アルベルトはその報告を聞きながら、血がにじむほど強く拳を握り締めた。痛みで落ち着かせようとするかのように、反対側の手も強く握り込んだ。
「妃殿下を隠して王宮外へと運びだすのは、荷を装って荷馬車などに乗せるしか方法がないかと思います。脱出には多少の時間を要します。迅速に発見したため、荷馬車が往来する西門への連絡は間に合ったと考えられます。怪しい馬車をすべて追尾するように配備済みです。」
ロイドが淡々と状況を説明する
「ロイド、レオンをすぐに呼び戻せ。…それから、一応エリックの母親の身柄と、肩入れしていた貴族たちの居所もすべて押えておけ。」
「はい。」
アルベルトは口の端を釣り上げて、ぞっとするほど冷たい笑みを浮かべた。
その昏く沈んだ瞳の奥には、禍々しいほど残忍な光を宿していた。
◇◇◇
――ここはどこなんだろう…
粗末なベンチの上に横たわっていた身体を、フェリシアはそっと起こした。
あの時、フェリシアはどこからともなく現れた男たちに襲撃された。その際に薬のようなもので意識を失わされて、どうやら王宮からどこかへと連れ去られてしまったらしい。
フェリシアは、キョロキョロと視線を辺りに彷徨わせた。窓がないのか薄暗くて周りがよく見えない。どうやら室内にはいるらしい。ここがひどくがらんとした飾り気のない部屋であることは察知できた。
室内は固い床と壁のみで、おそらく倉庫だろう。家具などは一切なく、けっこう広い。目の前にはぽつんと、大した特徴もない扉が見えるだけ。置かれた状況の異様さに、みるみるうちに言いようのない不安がフェリシアの中に充満していく。
倒れていた近衛兵やモニカ、そしてロザリーはどうなったのだろう。アルベルトはフェリシアがいなくなったことに気付いているのだろうか。
アルベルトの顔が脳裏に浮かび、涙が眦にじわりと滲む。熱いものが喉まで込み上げてきて、無理矢理に唾を飲み込むと、ひどくひしゃげたような音が喉の奥から漏れた。思わず泣き出してしまいそうになったフェリシアは、ぎゅっと目を瞑ってすんでのところでそれを堪えた。
何とか自分を保たせようと心を落ち着かせることに努める。曲がりなりにも自分は王太子妃だ。やすやすと誘拐された上、泣いて取り乱すだけなんてことをする訳にはいかない。それに、泣いたところで何がどうなる訳でもない。それよりも今、この事態をどうにかすることを考えないといけない。
フェリシアは必死に自分にそう言い聞かせた。不安と興奮のために荒くなった呼吸を、意識してゆっくりなものに変えていく。
――誰が何のために?
あの時間に王宮内にいた人物が関わっているはず。エリックは国境地帯にいるはず。
王太子妃を攫うなんてただでは済まされない。その理由によっては死罪だってありうる。個人的な恨みのためにそこまでするのは、さすがにリスクが大き過ぎる。すると、やはり政治がらみの組織的な犯行だろうか。アルベルトを次期国王の座から引きずり降ろそうとしているのだろうか。
――私を攫って、その命を盾に脅しをかけるとか…?
フェリシアは心に浮かんだその考えに、背筋が凍りつくかのような感覚を覚えた。