息吹を感じて
季節は移り、冬本番を迎えていた。
エーヴェルト王国の北東部にある国境付近には、古くから住んでいる民族がいて自治区になっている。その地で暴動が起こった。モントクレイユの民も、自治区内に受け入れることになったのがきっかけだ。
モントクレイユ国側からは、自治区の長に交渉を呼びかけているが応じないという。アルベルトはモントクレイユと話し合いを持つことを勧めるために、彼らに使者を送った。王族としてエリックが派遣され、レオンも帯同した。
◇◇◇
フェリシアは、後宮の中庭にあるお気に入りのベンチで、ぼんやりとしていた。国境地帯の紛争のことが気になって、読もうと思って開いた本は一頁もめくっていなかった。
このところちゃんと睡眠を取っているのに日中もやたらと眠い。きっと本を開いても、うつらうつらするのが関の山だ。
「……フェリシアさま?」
メイドの声が聞こえた。
「え?あ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしていたわ。何だったかしら?」
ここのところぼんやりしていることが多く、頭の回転まで遅くなったようで苛々してしまう。
「あの、王太子殿下が…」
回廊をそれてこちらに向かってくるアルベルトに気付いて、フェリシアは顔を上げた。
アルベルトは、植込みを回り込みながら話しかけてくる。
「大丈夫か?」
この言葉が最近のアルベルトの口癖だ。
フェリシアは軽くため息をついた。誰かがフェリシアの様子がおかしいと、アルベルトに報告したのだろう。報告にいく者もいく者だが、報告を受ける度に様子を見にやってくるアルベルトもどうかしている。
こんなの睡眠のリズムが狂っていて、ほんの少し身体の調子がいまひとつなだけ。
フェリシアは、すっくと立ち上がった。
と、その時……急に意識が遠のき、闇に包まれる―――
フェリシア……フェリシア……
遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。
何を言っているかわからないが誰かの話し声がする。状況が飲み込めないうちに、急速にその声が近付いてきて、間近に迫ってくる。
「フェリシア!」
切羽詰まった呼び声がした。
戸惑いながら目を開けると、目の前でアルベルトが安堵の笑みを浮かべた。
「気が付いたか。よかった。」
その問いかけに、フェリシアは自分が気を失ったことを思い出した。
なんという失態!
「ごめんなさい。わたくし、どのくらい気を失っていましたか?」
気がつけばアルベルトの腕の中にいた。
アルベルトの顔の向こうに青空が広がっている。植込みの前からは移動していないので、さほど時間は経っていないだろう。
腕から降りようとすると、そうさせまいとするアルベルトが、フェリシアを強く抱きしめた。
「じっとしているんだ。また倒れたらどうする。」
アルベルトはフェリシアを抱いたままサッと立ち上がり、早足で屋敷の中へ入っていく。
「下ろしてください!わたくしはもう大丈夫です。」
「大丈夫なものか。ここのところ、ずっと青い顔をしていただろう。我慢せずにベッドで休め!」
フェリシアはアルベルトに心配かけていたことを申し訳なく思いながらも、アルベルトにそっと抱きついた。
◇◇◇
先回りしていた使用人が、寝室の扉を開けて待っていた。アルベルトは扉を通ってまっすぐベッドまで行くと、フェリシアをそっと横たえた。
「心配することはありません。少しめまいがしただけです。」
「心配するなというほうが無理だ。リーシャは立ったかと思ったら、糸が切れたように崩れ落ちたんだぞ?そうだ、薬師を呼ばなければ……」
フェリシアの夜着を持ってきたロザリ―が、のんびりした声で割って入ってきた。
「その必要はありません。大袈裟な。」
「まあ、殿下の慌て振りは大袈裟ではございますが、フェリシアさまには、今まで以上にお身体を大事にしていただかないと。もうおひとりのお身体ではないのですから。」
ロザリーの言葉に、フェリシアは反射的に身を起こした。
「何が大袈裟なものか!──は?」
勢いで声を荒らげた後、アルベルトは間抜けた声を漏らした。
二人はロザリーの衝撃発言に呆然として固まった。
『おひとりのお身体ではないのですから?』
フェリシアとアルベルトの驚きようを前に、他の使用人も目を丸くしたが、すぐにくすくす笑い出した。
「気付いていらっしゃらなかったのですか?てっきり、ご公表を先に延ばしたくて、気付かない振りをしていらっしゃるとばかり……お立場的にも慎重にならざるを得ませんからね。」
先に我に返ったフェリシアは慌てて訊ねた。
「それは本当なの?」
懐妊は待ち望んでいたけれど、にわかには信じ難い。
懐妊を公にして、もし違っていたら目も当てられない。
思わず勢い込んで言ってしまったが、ロザリーは急に自信がなくなった。
「……ええ多分、他の使用人たちも言ってましたもの。最近とても眠そうにしてらっしゃることや、お顔やお身体の線が丸みを帯びてきてらっしゃるのは、きっとご懐妊の兆しだろうって。月のものも、ここしばらくありませんし…」
「え?……ここしばらく、どうして、教えてくれなかったの?」
ロザリーはにっこりと微笑んだ。
「やはりご自分で気付かれるほうがよろしいかと思いまして、黙っておりました。ですが、なかなかおっしゃらないので、ひょっとしたらフェリシアさまは、ご懐妊が確実になるまで待っていらっしゃるのだとばかり。勿論、お食事などには気をつけておりますので、ご安心くださいませ。」
信じられない思いでいたフェリシアは、ロザリーが嬉しそうに話しているのを聞いているうちに、じわじわと実感が湧いてきた。
ここに宿っている?アルベルトの子が?
「わたくし……妊娠しているのね。」
フェリシアはそっとお腹に手を当てて、その息吹を感じる。
勿論、まだはっきり診断された訳ではないので確実ではない。それでも、これだけ月のものが遅れており、体調もいつもより悪いのだ。ただ、吐き気などはなくひたすら眠いだけだったので、色々な忙しさに紛れてすっかり気付かなかった。
フェリシアの物思いは、唐突にアルベルトの大声によって破られた。
「やった!!!でかしたぞ!!」
フェリシアをぎゅうぎゅう抱きしめて左右に揺らす。
「わたしたちの子がとうとうできたんだ!」
アルベルトの胸元に顔を押しつけられて、呼吸がままならない。
背中に手を回して叩くけれど、叫び続けているアルベルトは気付かない。
見かねたロザリーが、フェリシアの代わりに告げた。
「殿下、妃殿下が窒息なさってしまいます。」
アルベルトは急いで腕をほどくと、ばつの悪そうな顔をした。
「すまない。あまりに嬉しくて、我を忘れてしまった。」
フェリシアの顔をのぞき込むと、今度は力を入れないように抱きしめた。
「リーシャ、わたしはリーシャが妊娠しているのなら、とても嬉しい。一緒にこの喜びを分かち合いたい。」
アルベルトはくにゃりと形相を崩すと、惚けるように微笑んだ。
「もちろんです!アルビーが喜んでくれて嬉しいです。」
フェリシアは、すぐさま笑顔になって答えた。
「リーシャ、身体はきつくないか?」
「大丈夫です。アルビーはとっても温かくて、安心できます。」
フェリシアはアルベルトの背中に腕を回してぎゅっとしがみつくと、幸せいっぱいの笑みを浮かべた。
「これからは一人の身体ではないからな。もっと大事にしなければ……休んだほうがいいなら無理をしないで、何でも遠慮なく言ってくれ。…それから警備を強化しないと、それに乳母も探さなければならないな。他には何が必要だろうか?」
「…アルビー、そんなに急がなくても大丈夫ですよ。本当に妊娠しているのか、それは早く確認してもらいたいですけど……警備は十分ですし、乳母については、また話し合いましょう。」
喜びと焦りの交じったアルベルトの言葉に、フェリシアはくすくす笑いながら答えた。
アルベルトはその笑い声を聞きながら、幸せに満たされた。
フェリシアをベットにゆっくりと横たえると、その隣にすべり込んで優しく抱きしめた。途端に二人同時にほっと息を吐き、二人して笑った。