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秘めていた想い


 数日後の夜、真っ青な顔のロザリーがこっそりと現れた。


「いずれどこかでフェリシアさまのお耳に入るかと思いますので、私からお伝えした方がよろしいかと存じまして……実は、最近入った妾女と殿下が閨を共にしているとの噂がございます――」


 フェリシアはぐっと息が詰まった。


「……つ――ははは…」

 

 乾いた笑いが零れて、周りの景色が一瞬止まった。

 この世界に誰もいなくなったかのよう。


 やがて、スローモーションのように景色が動き出すと、ロザリーの不安気な視線が目に止まる。


「…ロザリー、教えてくれてありがとう。そんな顔しないで。分かっていたことよ。わたくしは大丈夫。」


 フェリシアは虚ろな目をして笑った。

 

 別に驚くことではない。ずっと予期していたことだ。だから大丈夫。フェリシアは自分にそう言い聞かせた。


 何か言いた気なロザリーを横目に、座っていたソファから立ち上がる。


「…もう寝るわ。ロザリーも休んでちょうだい。」

 

 ロザリーは何か言いたげな様子だったが、やがてゆっくりと頭を下げた。


「…夜分遅くにすみませんでした。…おやすみなさい。」


 ロザリーが出て行く扉の音を聞くと、窓に向かいテラスに出る。とても寝れそうにない。冷たい夜風が吹いて、蜂蜜色の細い髪が頬を撫でる。

 月光を浴びた芝草が、暗がりの中でつやつやと輝いている。まるで、夜の海原の中にいるようだ。このまま海原に溶け込んでしまいたい。


 不意にフェリシアの瞳からポタポタッと涙が零れた。ロザリーが口にした言葉はどこか遠くのことのように感じたが、それが突然、現実となってフェリシアに襲いかかってきた。

 フェリシアは瞳に溜まった涙を瞬きで払うと、一呼吸おいて空を見上げた。


「――大丈夫。大丈夫。わたしはだいじょうぶ…」


 遥か彼方に瞬く星を見ながら、願いごとを唱えるように繰り返す。


「…だいじょうぶ…」


 フェリシアの口から零れた声が、真っ暗な海原の闇に吸い込まれていく。


 恐れていた不安が現実になった。この日が来るのがずっと怖かった。アルベルトが他の女を抱いていることを知ることが――でも、それが今日やっとはっきりした。

 しばらくそのまま呆然としていたフェリシアの手の甲の上に、ポタポタと涙が落ちてきた。膝の上からゆっくりと手を上げ頬を触ると、白い指がしっとりと濡れた。


『…わたし、泣いてる』涙が後から後から溢れて、フェリシアの指を頬を瞳を濡らした。

 フェリシアは肩を振るわせて嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちた。いつまでもいつまでも涙が止まらなかった。



 フェリシアは暗い気持ちのまま、毎日を過ごしていた。暗い闇の中にいるようで、自分がどこにいるのか、どれくらい時間が経っているのも分からない。フェリシアは途方も無い孤独感に包まれていた。


 新しい妾女が来ると聞いたときから予感はしていた。やはり世継ぎは、純粋なエーヴェルト人であることを主張している貴族たちの意向を汲んで、アルベルトは妾女と子を成すことを決めたのだ。だから、妾女と閨を共にした。


 アルベルトの声やにおい、スベスベした肌、温かな体温、抱きしめる腕の強さ、安心できる広い胸、柔らかな唇、笑った顔、そして優しい眼差し。それらすべてが今は別の女に向けられている。


 アルベルトが判断したのだから、それは政治的にどうしてもしなければならないことなのだろう。そこにはフェリシアの私的な感情を挟む余地などない。王太子の責務としてアルベルトは自分の意志に関係なく、妾女と閨を共にしていくのだ。


 そしてそれは、ずっと続いていくのだ。やがて妾妃と子を成し、愛する日が来るのだろう。アルベルトが王太子である以上、フェリシアだけなんて最初から無理な話だったのだ。

 

 フェリシアは王太子妃だ。アルベルトの心が離れたとしても、それを止めることはできない。この先、アルベルトが妾妃を愛する姿を見ていかなくてはいけないのだろうか。


―――そんなの耐えられない―――だって、アルベルトが好きなのだから……胸が痛い。息が詰まりそうなくらい苦しい…

『…いや。そんなの絶対いや…』想像しただけで大声で喚きたくなる。


 アルベルトの声も瞳も腕も全て、誰にも知られたくないし見せたくない。王太子妃の立場と、好きという気持ちを切り離せない。

 アルベルトはフェリシアの心を攫ってしまった。一度恋に落ちてしまったら、もうあの頃には戻れない。

 

 フェリシアは、深い深い闇に迷い込んで、そこから逃れられないでいた。




◇◇◇


 部屋の外が騒がしくなった。扉に目をやると、アルベルトが無言でズカズカと部屋に入ってくるところだった。


「…殿下、いきなりどうされたのですか?」

「いきなりって…もう、体調も戻っただろう。今日から一緒に寝ようと思ってな。」

「えっ!?」


 フェリシアは引き攣った顔を必死に取り繕った。


「フェリシア、何があった?」


 フェリシアは唇をきつく噛むと下を向いて黙り込んだ。


「フェリシア」


 アルベルトが宥めるようにフェリシアを呼んだ。


 手の平で覆うように両方の肩が掴まれた。フェリシアはビクリと身体を震わせた。アルベルトの目を見ることができなくて、視線が彷徨よう。

 

 アルベルトのため息がフェリシアの頭上に落ちた。


「…わたしが前に言った妾女のことで何か聞いたのか?」


 フェリシアの肩がわずかにぴくりと動いた。


「…やはりそうなのか。フェリシア、何を聞いたんだ?」


 唇をきつく噛んで下を向いて黙り込む。


「…何を聞いたのか知らないが、わたしにはフェリシアだけだと言っただろ。」


 アルベルトはフェリシアを自分の方へと引き寄せようと手に力を込めた。


「いや!」


 フェリシアは弾かれたように顔を上げると、アルベルトの胸を両手で強くどんと押し退けた。


「フェリシア!」


『―フェリシアだけ―』アルベルトの言葉は、一瞬にしてフェリシア心を乱した。


「そんなの嘘!殿下は妾女と閨を共にしているのでしょう!わたくしのことなど嫌いになったのでしょう?」


 アルベルトは大きくため息をついた。


「は!?なんでフェリシアを嫌いになる?最近、仕事で妾女の元へは行ってはいるが…この前フェリシアが教えくれたハリントン侯爵家との繋がりを聞き出すだめだ。だが、流石に口が堅い。もうひと押しだな。」

「………え?」


 フェリシアは呆然として言葉を失った。目を瞬いて、間近に迫ったアルベルトの顔に焦点を合わせる。


「でも、世継ぎは純粋なエーヴェルト人の血を受け継ぐ子がよいのでしょう。だから、妾女と子を成すと決めたのでしょう。だって、避妊薬を使っていた妃など何の役にもたたないから。」


 アルベルトに怪訝な眼差しを向け言葉を紡ぐ。


「貴族たちの中にはそう主張しているものもいる。だが、わたしはそれは避けたい。国内貴族の娘と子が生まれれば、その妾女の力が増して、政治に干渉される恐れがある。それに、どんなに妾女を迎えてもフェリシアは唯一の妃だ。ほかの女が代わりになるはずがない。大切なのはフェリシアだけだ。肩身の狭い思いはさせたくない。だからずっと、フェリシアとの子を望んでいる。わたしは妾女と子を成すつもりなどないし、これからもそのつもりもない。」


 はっきりと言い切ったアルベルトをフェリシアは呆然と見上げた。

 

 身体中に電流が走ったかのような衝撃がフェリシアを襲った。


「…えっ?…う…そ…」


 震える唇から零れた微かな囁きが、シンとした部屋の空気に吸い込まれていく。


 アルベルトの言葉が本当だとしたら、フェリシアは今まで何をしてきたのか。何に悩んできたのか。今まで信じ込んできたことをいきなりひっくり返されて、フェリシアは激しいショックを受けた。固まったまま動けなくなり、瞬きだけを繰り返す。


 アルベルトの考えがまったく分からない。


「…ど…し…て…?」


 喉の奥から絞り出したような掠れた声が、フェリシアの口から零れた。 


 ただただ疑問が頭に沸いてくるばかりだ。だったら何で最初からそう言ってくれなかったのか。そして、それを何で今更言うのか。急にそんなことを言われても受け入れられない。


「…どうして…そのこと、言ってくれなかったの?」


 戦慄く唇から絞り出された弱々しい問いかけに、アルベルトは苦しげに顔を歪めた。


「わたしには世継ぎが必要だ。その重圧をフェリシアだけに背負わすのは酷だと思った。でも、わたしはフェリシアがよかった。そのことを知って苦しめるくらいなら、何もかも知らない方がいいと思ったんだ。」


 頭で上手く理解できないまま胸に入ってくる言葉は、フェリシアの心を大きく揺さぶった。

 フェリシアは息をするのも苦しくなって、喘ぐように肩を大きく震わせて息を吸った。


「…そんな――そんなことなら、わたくし、知りたかった……わたくし、あなたを傷つけた…自分のことしか考えずに逃げていた―――ごめんなさい……」


 震える声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。


 アルベルトは僅かに首を傾げてフェリシアを見た。


「…フェリシアはわたしが妾女と子を成すと思って、避妊薬を使っていたのか?」

「わたくしが子を生めば、世継ぎ争いの火種になると思って……産まれてきた子が昏い世継ぎ争いに巻き込まれるのは耐えられないから……」


 アルベルトは、苦しげに呻いたフェリシアの肩を両手で掴んだ。そして、フェリシアの顔を覗き込んだ。


「…フェリシアが妾女のことでそんな悩みを抱えているなんて知らなかったんだ。…苦しめたくなかった。傷つけたくなかったんだ。でも結局、何も知らせずにきたことで、苦しめてしまった。すまなかった。……ずっと、ずっと大事に思ってきた。」


 フェリシアは大きく目を瞠いた。


 潤んだ瞳を見つめながら、アルベルトは切なげに眉を寄せた。


「…愛してるんだ。」

 

 フェリシアの肩がぴくりと動いた。


 心臓がバクバクと音をたて、これ以上ないほど心が大きく揺れた。


 ぎゅっと閉じた瞳の上で長い睫毛が震える。瞳に溜まっていた涙が眦から滑り落ちる。何かが壊れる!これまでの色々な思い込みからフェリシアを縛り付けていた何かが―――ガラガラと音をたてて崩れていった。


 アルベルトの唇がフェリシアの唇に重なる。


「…んっ!」


 唇が繋がっている箇所から何だか熱いものが流れ込んできた。それは、フェリシアの身体の中に、どんどんどんどん注ぎ込まれて、あっという間に身体中を満たしていった。身体の隅々まで染み込んで、やがて身体の外へ溢れ出し、身体ごと包み込まれていった。


 閉じ込められて溺れてしまいそうだ。息が苦しくてもがき始める。やがて、フェリシアは魔法にかかったように、ふんわりと浮かび上がった。うっとりするほど心地いい。


 アルベルトが静かに唇を離した。


「愛してるんだ。ほんとうだ。納得いかないなら何度だって説明するよ。わたしが信用できないなら他の者から話を聞いたっていい。今回のことで分かったんだ。何があってもいい、傍にいてくれればそれでいいんだ。……好きなようにさせてやろうと思ったけど、やっぱり離してあげられない。フェリシアはわたしのものだ。わたしを受け入れて、わたしの子を生んで欲しい。」


 フェリシアは濡れた瞳を瞬いて、ぼんやりとアルベルトを見つめた。


『ああ、私の好きな瞳』


「……わたくしは殿下の子を生んで、たくさん可愛がって育てていきたいです。」


 フェリシアは心の奥に秘めていた想いを、うわごとのように呟いた。


「フェリシア!」


 アルベルトは感極まったように嬉しそうな顔をした。

 フェリシアは恥ずかしくなってアルベルトの胸に顔を埋めた。





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