月明かりの下で
音楽が始まると、アルベルトは腰を曲げフェリシアに片手を差し出した。
「わたしと踊っていただけますか?」
「…喜んで!」
差し出された手にそっと手を載せる。アルベルトは満面の笑みを向け、フェリシアの指先にキスを落とす。フェリシアの頬が赤く染まる。
アルベルトのエスコートで、ホールの空いている位置に移動する。向かい合わせに礼をして手を取り、音楽に合わせステップを踏む。
「さっきは…嫌な思いをさせた。」
顔を上げるとアルベルトの深い碧の瞳が揺らいだ。
「……で、でも」
「うん?」
「クリスティーヌさまは、婚約者候補だったのでしょう。綺麗な人だし、豊満で色っぽい方だわ。」
「フェリシアの方が何倍も綺麗だ。胸だって大きいし…可愛いし…」
フェリシアはかーっと顔が熱くなる。
アルベルトはふふ、と笑って優しく腕を腰に回し、包み込むように抱き締める。
フェリシアはいつもよりも多くの視線を身体に感じた。
「…なんか、いつもより見られているような?」
「…そうか?」
アルベルトは軽くため息をつくとフェリシアの耳に口を近付けた。
「今日のフェリシアが一段と美しいからだろう。」
「…は?」
「君は男にどんな目で見られているかわかっているのか?今日のドレスは身体の線が出すぎだな。もっと気をつけたほうがいい。ここも…」
アルベルトは何かを言いかけたが言葉を途中で途切れさせた。そして髪を結い上げ露わになっている、フェリシアの透き通った白い項をすっと指の腹で撫でた。フェリシアはその仕草に一瞬びくっと身体を震わせた。咄嗟に身体を引いてアルベルトを睨む。
音楽が終わり、向かい合って礼をする。
◇◇◇
アルベルトはフェリシアの耳元に顔を寄せて囁いた。
「…ちょっと疲れたな。何か食べるか?」
フェリシアが軽く頷くと、アルベルトの手が腰に添えられる。
二人で壁際の料理が置かれているテーブルへと歩き出す。ご婦人方の横を通り過ぎる時、フェリシアを睨んでいるのを視界の端に捉えた。
やがて、待ってましたとばかりに化粧の濃い綺羅びやかなご婦人方が寄ってきた。フェリシアは内心、ため息をつきながら視線をアルベルトに向けた。
アルベルトはフェリシアに視線を合わせると、フェリシアが逃げ出すのを阻むかのようにぐっと腰を掴み、にっこりと笑みを浮かべた。
あっという間に近づいてきたご婦人方に囲まれて、二人は足を止めた。ご婦人方がフェリシアを邪魔そうにちらちらと見てくる。フェリシアは平然とその視線を受け止めた。
アルベルトはさっきと同じ笑顔を浮かべたままで、ご婦人方が何かを言う前に口を開いた。
「今日はひとつ、お願いがあるんだ。」
アルベルトの急な言葉にご婦人方は一様に首を傾げ、開きかけた口を閉ざした。
「実は、わたしの部下のレオン・ベルナルドが結婚相手を真剣に探そうとしていてね。ぜひ協力してあげてほしい。」
「…まあ、レオン様が?」
「結婚相手を?」
レオンの名前はご婦人方にそれなりに効果をもたらしたらしい。コソコソと囁き合う声が聞こえる。アルベルトは駄目押しとばかりに言葉を付け加えた。
「身分や年齢など細かいことは気にしないらしいよ。この夜会に参加したのもそれが目的のひとつなんだ。お美しい女性たちと話すことを楽しみにしている。ぜひ行ってあげてくれないかい?」
キラキラの眩しい王子さまスマイルを繰り出したアルベルトに、ご婦人方はすんなりと頷いた。さっさと別れの挨拶を言い置いて我先にと争うように去っていく。
その後ろ姿を見つめながら、呆れたようにフェリシアは呟いた。
「…レオンはどんな女性がお好みなのかしら?」
「さあな―」
素っ気なく言い捨てて、アルベルトはふっと笑った。
「レオンは侯爵家の三男だが、王太子の側近だ。わたしが国王となれば間違いなく爵位が与えられる。あの顔で女の扱いが上手く出世間違いなしとなれば、王太子の妾女の一端に名を連ねるよりも遥かにいい思いができる。みな計算高いからな。餌をぶら下げれば追い払うことは割りと容易い。」
アルベルトはフェリシアにだけ聞こえる声で淡々と言った。
「さあ、今日は夜会を楽しもう。」
アルベルトはにっこり微笑むと、フェリシアをエスコートして歩き出した。
「フェリシアは本当にうまそうに食べるな。」
「だって、本当に美味しいんですもの。」
「ほら、これもあげるよ。」
アルベルトはそう言いながら、ぐいっと果実酒が入ったグラスを口に運んだ。
「これ以上はいりません。――あら?セシル様だわ!」
フェリシアはアルベルトにそっと耳打ちした。
アルベルトは女性たちに囲まれているレオンを呼んだ。レオンとセシルが二人でダンスを始めると、その輪に加わって一緒に踊った。
◇◇◇
今日の夜会はとっても楽しかった。
王太子殿までの帰り道、火照った身体を冷やすために王族専用の庭園を通った。
月明かりを頼りに庭をそぞろ歩く。ひんやりとした夜風が上気した顔に触れて、とても心地いい。どこからか、ジャスミンの香りが漂ってくる。周囲を探ると、葉の間から手のひらに乗るくらいの白い花がたくさん顔を出している。
カンテラの灯りに照らされたアルベルトの端麗な顔が美しく揺れている。その横顔をフェリシアはじっと見つめた。奥二重の目やすっと通った鼻筋、それから薄い唇は、まるで精巧な彫刻のように端正だ。硬質で、とても男らしい。
ずっと押し込めてきた気持ちが、堰を切ったように溢れはじめる。フェリシアはアルベルトの腕から手を離し真向かいに立った。
アルベルトはそんなフェリシアを不思議そうに見た。
フェリシアはつま先立ちをして伸び上がると、アルベルトの首の後ろに両手を回した。ぐっと二人の顔を近付けると、フェリシアの趣旨を感じ取ったアルベルトが身体を倒して顔を傾けた。フェリシアは目の前に近づいてきた顔を確認すると、瞳を閉じた。
柔らかなアルベルトの唇の感触がフェリシアの口元に落ちて、二人の唇が重なった。
自分の気持ちを誤魔化すことは、フェリシアにはもう出来なかった。
アルベルトの意志の強さを感じさせる瞳が好き。いつもまっすぐにフェリシアを見て、ときには慈しむような優しい眼差し。その瞳に見つめられると、なんだか切なくて、でも、幸せな気持ちになる。
芳しい匂いと温かな体温に包まれると、とても安心できる。
アルベルトはフェリシアを大事にしてくれる。そしてこれからも、きっと大事にしてくれるだろう。
お互いの気持ちを確かめるように唇を重ね合わせる二人の姿を、月明かりが静かに照らしていた。
◇◇◇
夜会の日から、二人の間に漂う雰囲気が少し甘くなったような感じがする。アルベルトの態度にはっきりとした変化はないけれど、フェリシアは今までよりも素直に色々なことが受け入れられるようになってきた。そんなフェリシアの態度が二人の関係を少しずつ変えていっているのかもしれない。
アルベルトもそう感じていてくれたらいいけれど……
フェリシアはこれまでの歩み寄りで、アルベルトの思いやりや優しさを知った。
アルベルトが好き。でも、この気持ちを言葉にできない。フェリシアの心の中で無意識にブレーキがかかる。なぜ、「好き」という言葉が言えないのだろう。
アルベルトからも愛されていると感じる。アルベルトはフェリシアへの好意を隠さないし大事にしてくれる。でも、アルベルトも「好き」と言葉にはしてくれない。なぜだろう?
もし、フェリシアが「好き」と言えばアルベルトも応えてくれるだろうか――