薔薇園の秘密
王城のローズガーデンは庭師によって綺麗に整備されていて、低木が均一に丸い形をしている。アーチに沿うように育てられた薔薇は満開に咲き誇り庭園を彩っている。
目に鮮やかな緑葉とそれを彩る色とりどりの薔薇の花。まさに花盛りと呼ぶにふさわしい美しさ。響くのは鳥のさえずりと風が葉を揺らす音だけ。テラスには心地よいそよ風が花の香りを運んできて、とても素晴らしい庭だ。
フェリシアはセシルを誘って庭園を散策していた。二人で並んで小道を歩く。フェリシアの侍女と護衛、セシルの侍女が共に少し距離をとりながら後ろからついてきている。
「それで、レオンとはその後どうなの?」
「勿論、フェリシアさまのお陰でお近づきになれたのですもの、絶賛アタック中ですわ!」
「ふふ、セシルは頼もしいわね。」
近況報告などをしておしゃべりに夢中になっていた。いつの間にかかなり奥まった場所まで来てしまったようだ。近くに四阿を見つけ腰を下ろす。
柔らかな日差しで暖まった空気には甘い花の香りが混ざっており、穏やかな気持ちになれる―――はずだった。
すっとフェリシアの傍に近付いたセシルが、トーンを落とした小さな声で囁いた。
「あの…、フェリシアさま。」
「なにかしら?」
にこやかな笑みを浮かべてセシルを見つめた。
セシルはちらっとフェリシアを見ると、おもむろに口を開いた。
「あの、後宮で噂になっていると聞いた件なのですが…」
セシルはそこで一旦言葉をきって、ゴクンと小さく喉を鳴らした。
「なんでも、妾女のおひとりが懐妊なさったとか……噂の真偽は定かでありませんが、何かの動きがあるのは間違いないはずです。」
フェリシアは思わずギクリと体を強張らせた。
「……つ、それは…」
「以前、お茶会でご一緒だったクリスティーヌさまは覚えていらっしゃいますか?」
「えぇ。」
「クリスティーヌさまは、いまだに王太子妃の座に執着なさっています。ハリントン侯爵家には違法な薬を入手しているとの噂がありまして…、そして、その薬の入手先はどうやらランバート男爵家のようです。確かフェリシアさまは、男爵令嬢のオリビアさまと懇意にしていらっしゃると伺いましたので、お耳に入れておいたほうがよろしいかと思いましたの。」
そこでセシルは、強い眼差しでフェリシアを見た。
しばらく2人で見つめ合った。フェリシアはセシルの眼差しから、切迫したものを感じ取った。
セシルの発言は驚きの連続だった。フェリシアは放心状態でしばらく動けなかった。
どれくらいたったのだろう――
薔薇のアーチの反対側から人の話し声が聞こえてくる。
『誰かしら?』そんなことを考えて声の聞こえた方へ目を向ける。フェリシアは声の主を確かめようと、そろそろと途切れたアーチの間まで行き覗き込む。
少し離れたベンチの近くに男女二人が向かい合うように立っていた。その男性の姿が目に入った途端、フェリシアは心臓が止まるかと思った。
それはアルベルトだった。離れた距離だがフェリシアにはすぐに分かった。
二人はとても近い距離で向き合っていて、今にも肌が触れ合いそうだ。女性はアルベルトの腕を掴んで伸び上がるような体制を取っている。
アルベルトは背を向けていたため表情が分からなかったが、女性の顔はよく見えた。これ以上ないほどアルベルトに顔を近づけて蠱惑的な笑みを浮かべている。神秘的な美しい女性だ。
色素が薄い柔らかい茶色の髪、白い肌。意志の強そうな瞳は金色ががった藍色、すっきりとした目鼻立ち、赤くツヤツヤとした唇でエーヴェルトには珍しい容姿。
フェリシアが瞬きも忘れて呆然と見つめている中で、女性が伏せていた顔を上げてまっすぐにアルベルトを見た。アルベルトはその珍しい色合いの瞳に引き込まれるかのように、女性の顔に自らの顔を傾けながら近付けた。
『う・そ……口づけした』
フェリシアは思わず自分の目を疑った。自分の見ている光景が信じられない。いきなり頭の回路がスパッと切られたかのように何も考えられなくなった。
目の前が真っ暗になっていく――
フェリシアは突然のことに息をするのも忘れて、ただただその場に立ち尽くしていた。
気付いたときには自分の部屋にいた。あれからの記憶がはっきりとしない。セシルとどのように別れてどうやってここまで戻ってきたのかよく覚えていない。フェリシアはショックが大きく、ぼんやりとしながらベッドの上に身体を投げ出し寝転んでいた。
アルベルトの唇が他の女に触れたという事実は、フェリシアの心を激しく揺さぶった。
『殿下はわたしだけのものではない……』
アルベルトが口づけていたのは、たぶん大事にしている愛妾だ。そして、彼女は妊娠している。王太子妃なのだから、本来ならそれを受け止めることは当然のことなのだ。理性ではそのことはよくわかっていた。でも気持ちがついていかない。
いつか観た『薔薇園の秘密』が甦る。これではまるで二人の恋を引き裂く悪役ではないか――
『わたしには王太子妃なんてやっぱり無理。早く殿下の傍から離れなければ……』フェリシアは身体を丸めて膝を抱え自らをぎゅっと抱きしめた。
焦りと不安が渦巻いて心の中をあっという間に侵食し、やがてフェリシアは暗闇に引きずり込まれた。
フェリシアは自分でも持て余す感情を整理することはできなかった。怒ればいいのか、泣けばいいのか、縋ればいいのか、自分がどうしたいのかも分からなかった。アルベルトにどう接していいのか分からない。何をどんな風に言ったらよいのかも分からない。
部屋に閉じ籠もって、ずっとそのままベッドに寝転んでいた。そうやってじっと目を閉じていても眠れる気配は全くない。時間の感覚がなくなり、今がどのぐらいなのかも分からなかった。ぼんやりと宙を見つめて時間だけが過ぎていった。
ガチャリと扉が開く音がした。その音は方向的に廊下へ続いている扉ではなく、王太子夫婦のサロンに続いている扉の方から聞こえた。
ギクリとフェリシアの身体が強張る。サロンからこちらに来る人物なんてどう考えてもひとりしかいない。おそらくはフェリシアの様子を見に来たのだろう。
アルベルトと顔を合わせる気にはどうしてもなれなくて、寝たふりを決め込むことにした。
絨毯が擦れる音がして、入ってきた人物がこちらに近づいてくる気配を感じる。フェリシアはその人物がやって来るであろう方向とは反対の方へ身体の向きを変えて、必死で寝息を装い呼吸を繰り返す。
「…フェリシア」
ベッドの傍まで来ると、その人物は小さくフェリシアの名前を呼んだ。
その声はやはりアルベルトのものに間違いなかった。
フェリシアは、アルベルトの声に反応してピクリと体が震えそうになるのを必死で堪える。その後はしばらく沈黙が続く。アルベルトが次に何をするのかわからない不安に怯えながら、早く去ってくれるようにと祈る。
ギシリとベッドが軋む音が聞こえて、ベッドの上面が揺れた。頭にアルベルトの手の平が置かれる気配がする。アルベルトがフェリシアの頭を撫で髪を梳きはじめる。そのことに気を取られていると、不意に頬に温かい感触が触れる。
フェリシアは何が起きたのかすぐに分かった。アルベルトがフェリシアの頬に唇を落としたのだ。フェリシアは瞼の向こうに涙の気配を感じて、思わず瞳をきつく閉じた。
しばらく傍にアルベルトの気配を感じていたが、やがてベッドから離れて静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる音が聞こえると、フェリシアはアルベルトの唇が触れた頬を強く握り締めた手の甲で何度も擦った。それは半ば無意識の行動だった。
―――見たくなかった。聞きたくなかった。もう以前と同じ態度は取れない。
他の女性に触れた唇で触れられるのは嫌だ―――
◇◇◇
フェリシアが体調が悪いといって自室に引き籠もってから、あっと言う間に数日が過ぎた。
いきなり部屋へ入ってきたアルベルトがソファに腰掛けているフェリシアの隣に座る。フェリシアの肩に手を回し引き寄せると、頬にもう一方の手を添える。顔を近づけながら瞳を覗き込まれると、視線を合わせることを拒否するかのようにフェリシアは目線を下げる。
フェリシアの脳裏に薔薇園の光景が甦り心が乱れる。
「やだ!」
フェリシアはアルベルトの胸を両手でどんと押しのけた。
アルベルトは驚き、大きく目を瞠いた。
「フェリシア!」
アルベルトが宥めるようにフェリシアを呼んだ。
フェリシアはハッと我に返り、思わず顔を下に向けて両手で覆った。
そして、弱々しい声で呟いた。
「わたくしは、もうここにはいられません。離宮へ移していただけませんか。」
「えっ!どういうことだ?」
なにをどう話せばいいのか分からない。フェリシアはぎゅっと唇を閉じたまま黙っていた。
「…フェリシア、何か不満に思うことがあるのだったら、教えてくれないか?」
フェリシアは意を決して、震える声で言った。
「……妾女がご懐妊されたと聞きました。」
「…は!?」
「妾女はお飾りだ。懐妊などする訳がないだろう。」
愛妾と口づけていながらシラを切るつもりなのか?
フェリシアは怒りが沸々と湧いてきた。
「殿下、先日は薔薇園のバラが満開で、美しく見頃でございましたね!」
「…まさか、あそこにいたのか?」
「美しい女性とお楽しみのようでしたわ。あの方が殿下の大切な愛妾なのでしょう?」
アルベルトはこれ以上ないほど目を瞠いた。
「……そういうことか。それで、離宮にいくとかいいだしたんだな。」
アルベルトは舌打ちしながら普段にはないぞんざいな口調で呟いた。
「やっぱり…!騙すおつもりでしたの?!」
「ちがうちがう!あの女は政敵だ!…正確にいえば政敵が送り込んだ駒だ。」
「わたくしこの目でしっかり見ましたわ!殿下がその女性と口づけされているところを!」
「口づけなんかしてない。あれはふりだ!」
焦った口調で慌てて畳み掛けるように説明するアルベルトに、フェリシアは険しい眼差しのまま呆れた顔を向けた。
「…は?誤魔化すならもっとましな…」
「本当のことだ!あの女は伯爵家の令嬢だ。その伯爵家が怪しい動きをしていることを前々から掴んでいて、何の意図をもっているのか探るために、女が手練れのものがどうか確かめようとしただけだ。でも、あくまでもふりで唇はつけてはいない。反応をみるのが狙いだった。大体、見たと言っているがはっきりと唇が重なっているところを見たのか?」
「―――そう言われると…」
きっぱりとした口調で言われると急に自信がなくなって、フェリシアは口ごもった。
フェリシアは記憶を思い返してみた。確かに少し離れていたし、フェリシアのいた位置からは角度的に唇が重なっているところはちょうど見えてはいない。しかし、そんなことを言われてすぐに納得できるものでもない。
眉を寄せて黙ったフェリシアが、疑わしそうな目でアルベルトを下から掬い上げるようにして見る。
アルベルトは、また慌てたように口を開いた。
「それに、大切な愛妾ってなんだ?そんなのいるはずがない。」
フェリシアは気持ちが混乱していた。
「では、懐妊されたというのは……」
「誰かが意図的に流したんだろう?フェリシアはどこから聞いたんだ?」
「セシルから気を付けるようにと忠告をされました。何か動きがあるかも知れないからと。」
「動きが……」
「あっ!そういえば…、ハリントン侯爵家が違法な薬を入手していて、その入手先がランバート男爵家との噂を聞きました。」
とたんにアルベルトの顔が険しくなった。




