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砂の踊り

作者: 葉月 雨緒

水の種はとても高価で繊細だが決して死ぬことはなく、一度蒔かれればやがて必ず清澄な泉となる。、

 ある時、水の種が蒔かれた。

 場所は、地平線まで続く砂漠の一角、命じたのはその国の王だった。

 海と山の幸に恵まれ、百万の勤勉な民の労働に支えられたその国は、千年を超える繁栄を謳歌していた。

 砂漠は、王宮がある主都から歩いて半日の場所から始まり、その涯を知るものはなかった。

 砂漠のもたらす災いも、冬の夜風に運ばれた砂粒が一晩中窓を叩くほかは特になく、王がなぜ水の種を蒔かせたのかその真意を推し量ることは誰にもできなかった。

 水の種はとても高価で、そしてひどく繊細な代物だった。

 一度蒔かれた種は決して死ぬことがなく、いつか必ず泉となることは古くから知られていた。ただ、そのためにはいくつか条件が必要で、条件が揃っても場所によって発芽の時期は大きく違った。

 早ければ半年、長ければ百年以上の歳月を要する。

 しかし、種はいつか芽吹き、必ず清澄な水をたたえる泉に成長する。

 それは紛れもない事実だった。

 水の種は、人が手間を惜しまず面倒を見る必要がある。

 手間と言っても決して難しいことはない。必要なのはただ種を見守ること。

 芽吹くことを決して疑わず、愛情を持って見つめること。ときに話しかけ、ときにその周りで踊り、種が埋まる地表を優しく撫でること。あたかも、赤子を愛おしむ母親のように。

 その命を受けたのは、初老の夫婦とその息子夫婦の四人だった。

 一家は、王の任命を非常な名誉と喜び、砂漠へと旅立つ前夜まで盛大な宴会で隣人や友人たちをもてなし、留守のあいだ屋敷と土地を管理してもらう管財人に手付を払って生まれ故郷を後にした。

 一家は、与えられた地図と方位磁石を頼りに幾日もかけて目的地を目指した。

 眼前に広がるのは、涯知れぬ褐色の平野と藍色に沈む雲一つない空。

 時おり、砂の中から名も知らぬ虫が頭を擡げ、砂に足をとられながら進む四人を眺めるほかに、すれ違う人とていない。やがて旅立ちの興奮は冷め、遂行すべき君命を頼りとする厳粛な面持ちを宿し、四人は幾十の昼と夜を歩き続けた。

 辿り着いた場所は、周囲よりほんの少しだけ窪んだ盆地の中央で、そこが目的の場所であることを示す小さな立札が一本、少し傾いて四人を迎えた。

 立札以外は何もない。住まいとなる小屋も、日々の連絡のための電線も。

 四人は、仕方なく何もない砂漠の真ん中で「種を見守る」仕事に就いた。

 仕事と言っても特別なことは何もしない。四人は太陽の照り付ける地面に並んで座り、額に汗を浮かべて立札の根元を眺め続けた。その単調とすら言えぬ作業に不平を言う者はなかった。それは王の命令であり、一家にとってその使命はこの上ない名誉に他ならなかった。

 勤勉な一家は、まだ陽が上らない早朝に起き出し、身なりを整えて任務に就く。仕事中は無駄な会話を慎み一心に対象に視線を集中する。時おり、妻が立ち上がり両手を空に上げて踊るような足取りで輪を描くように種の周囲を歩いた。またある時は、息子の嫁が膝をついて愛おしむように砂の面を撫でつけた。夕暮れになると、四人はゆっくり立ち上がり互いに一日の労をねぎらい、王宮のある方角にむかって一礼し、続いて天を仰ぎ一日の無事を感謝する祈りを神に捧げた。

 幾日も幾日も仕事は繰り返され、いつしか過ぎ去った日を数えることも忘れ去られた。

 息子夫婦には男女二人の子どもが生まれ、やがて一緒に仕事に就いたが、その頃には父親の足腰が弱り立ち上がることが叶わなくなった。

 幼子の背丈が、母親の腰に届くころ、父は息を引き取った。息子は父の亡骸を背負って丸一日西を目指して歩き、日が暮れた場所に埋めて翌日戻った。子どもたちが、何故そんな遠くに埋めたのか訊ねると、父は水の種が「死」を嫌うからだと答えた。子どもたちは「死」を忌むべきものと心得た。

 勤勉な五人の家族は、また元の労働に戻った。そして、子どもたちの背丈が母親に並んだころ、祖母が亡くなった。父はその亡骸を背負い再び丸一日西を目指して歩き、日が暮れた場所に埋めて翌日戻った。子どもたちはもうその理由を訊ねることはしなかった。

 一家はまた四人になった。家族の人数のほかは変わったことはなかった。早朝に起き、一日を種の見守りに費やし、日暮れに王と神に祈りを捧げる。その繰り返しに疑念が生じることはなかった。彼らは与えられた任務を誇りに思い、いつかこの労が報われることを信じて疑わなかった。

 幼かった子どもたちは成長するにつれ父母の仕事を引き継いでいった。娘は母に教わった歌を口ずさみながら砂の上で踊り、息子は沈みゆく太陽に向かって祈りの言葉を唱えるようになった。

 幾百の昼と夜が繰り返し、夜ごと仰ぎ見る星の並びはゆっくりと巡り、吹き付ける風が少しずつ大地の模様を描き変えた。

 息子が母の背を追い越したとき、父が死んだ。息子は、かつて父がそうしたように亡骸を背負って西に向かい陽が落ちた場所に埋めた。死は忌むべきものと信じてきたが、父を愛おしむ気持ちがこみ上げて息子は天を仰ぎ声を上げて泣いた。

 それから間を置かずに母が死んだ。今度は兄と妹が肩を抱き合って一日泣き通した。

 兄は、母の亡骸を遠くに運ぶことを躊躇ったが、水の種がある以上近くに埋めることは叶わなかった。母の亡骸は兄妹二人で埋めに行った。

 兄と妹二人が、砂漠に取り残された。

 二人は、翌日からまた仕事に就いた。それが彼らに与えられた務めである以上、水の種を待たせるわけにはいかなかった。

 やがて二人の間に、子供が二人生まれた。一人は男でもう一人は女だった。母となった娘は、我が子らをただ愛おしく掻き抱いたが、父となった兄は、務めを引き継ぐものを得たことを喜んだ。

 見守りは続いた。家族に使命が下されたときの記憶はなかったが、続けることの正当を疑うことはなかった。

 子どもらは日々成長し、父母はやがて年老いて死んで行った。

 成長した兄妹は、やがて子供を儲け親となった。

 空の彼方を星が巡るように、家族の営みは続いた。

 母は娘に歌と踊りを教え、父は息子に祈りの言葉と作法を伝えた。

 教えはかたちとなり、意味は曖昧になったが、古くより伝わる営みを疑う余地はなかった。

 務めることは喜びであり、続けることは誇りであったが、その誇りと喜びが何に由来するのか父母は知らず、子らは訊ねることを知らなかった。

 子らが育ち、父母が年老い、子が父母となり、やがて老いて死んで行った。

 いまそこにいるのは、兄と妹二人だけだった。

 二人は、夜が明けると同時に起き、空を仰いで一日の息災を祈り、真昼の太陽の下黙って砂の大地の一点を見詰める。やがて妹は立ち上がり前に進み出て細い手足をしなやかに揺らしながら軽やかに舞い始める。その動きは母がその母から習い娘に伝えたものだが、妹の踊りは母の教えをなぞるように見えて微妙に違っている。

 その舞には、幾千もの月の満ち欠けを経て伝えられた祈りの所作を離れた喜びが見え隠れする。妹は踊ることが楽しいと言い体をひねらせ高く舞い上がる。しなやかな肢体は、軽やかに回りながら地上に降り立ちわずかに砂を舞い上げる。妹は喜々としてそれを繰り返し、やがて力尽きて地面に倒れ込む。手と足を大きく投げ出し、背中に砂の柔らかさと硬さを同時に感じながら兄の顔を見あげて夢見るように微笑む。兄は、横たわる無邪気な妹を慈愛の眼差しで眺め、やがて訪れる夕暮れに感謝の祈りをささげる準備をする。

 夜には二人手を取り肌を寄せ合って眠りについた。

 夜は静かに動いて行く。

 父母がいたときはそんなことはなかったが、妹と二人きりになってから兄はしばしば暗闇の中で目を覚ました。

 目を開けると、丸い大地を覆う漆黒の丸屋根に白々と冴えわたる無数の星が小さく張り付いている。

 満天に散らばる星々を見あげて、兄は寂しさに襲われる。

 振り返れば妹は膝を抱えて小さな寝息を立てる。

 愛おしいその寝顔を眺めながら、また寂しさがこみ上げ兄は顔を背ける。

 寝返りを打つ先には、星明りを映して銀色に浮かぶ砂の大地が広がり夜と溶け合う。空に張り付く星々は大地から巻き上がる砂粒なのだと兄は思う。同じ砂粒なのに、星々は悠々と天空を巡り地平の向こうに姿を隠したり再び現れたりを繰り返す。重く地上に縛り付けられる砂粒とどうしてこうも違うのか。砂は地上の重さに縛られ、自分は砂の重さに縛られていると思う。自分が星のように空高く舞い上がり大地を覆う天蓋に張り付けぬことを恨めしく思う。

 やがて夜は遠のき星々は沈黙し次々霞んで消えて行く。夜の闇は藍に溶けやがて青に薄まり、そして地平の彼方を薄紅に明らめて太陽が昇る。

 変わらぬ朝を迎え、兄妹は日差しに目を細めて立ち上がり一日の始まりを確かめ合う。妹は昨日と同じく大地に立ち、一心に踊り始める。

 それを見つめる兄の眼に幽かに疑念が宿る。楽し気に舞う妹の姿が、本来の務めから剥がれ落ちて行くのではと思う。喜びに満ちたその顔はあるべき殻を破り捨てようと藻掻くかに映る。

 幾つもの眠れぬ夜を過ごした兄の顔には憂いの色が浮かぶ。

 だが兄は自らの憂いの原因を知らぬ。ただ黙して座り続けることを苦痛に感じる気持ちが胸の底で弾け、次第に膨れつつあるのを思う。その場から動けぬことを嘆く。そして、その理由を知らぬことを嘆く。

 兄は、砂の上で踊る妹を眺める。しなやかに成長した妹を眩しく思う。その姿はいま憂いから程遠く命に満ち溢れ、ここにいる理由を疑おうとはしない。

 妹の姿を眺めながら、兄はしばしば父母と妹と四人で暮らしたころを思い出す。亡き父母は穏やかに日々の務めに向かい、一日の無事を誰にともなく感謝し、自分たちの前で不満を口にすることは一度としてなかった。それが偽りのない言動なのか知ることは叶わない。だが、父母に自分に似た感情があったとは思えない。それを不満に思う筋合いもない。が、兄は遣る瀬無い不満を父母に擦り付けて刹那をやり過ごし、その度苦い思いを噛み締める。父の面影を砂の上になぞっては苛立ち、妹を抱く母を思い描いては胸を疼かせる。母の乳房を吸う赤子の妹は、自分が生まれた理由を思うはずもなく全身に命を漲らせていた。やがて、自分の足で立ち母の後追いながら見様見真似で務めに加わり、いつでも屈託なく笑い、感情を隠さず喜びと悲しみを体で現した。

 なぜそれほどまでに素直なのか、兄には分からない。自分に分からない以上ほかに分かるものはいない。この地上には自分のほか誰もいないのだから。

 兄は狂おしいほど妹を愛しく思う。もし妹が自分より先にここからいなくなれば、生きていくことはできないと思う。かといって、妹を残して自分が先に亡くなるわけにはいかない。決して妹を悲しませてはならない。父母を亡くしたときの妹の嘆きは今でも兄の胸に強く焼き付いている。

 妹の泣き顔を思いだしながら、いつしか自分が泣いていたことに気がつく。

 愛おしいものを嘆きから遠ざけるために、父母やその父母たちは子どもを作り、育て、家族を営み、繋いできたのであろうと思う。その務めがいま自分に回ってきたことを知る。そう遠くないうちに自分たちは交わり、子どもを産み、父母がそうしたように育てていくのだろう。務めは、自分の子どもからその子どもに繋がり繰り返されていく。その果てしない連鎖を思うと、心細くなり悲しくなる。自分の小ささを思い知り、自分がある意味を疑い、父母を憐れみ、まだ生まれぬ自分の子どもを憐れんで、兄は静かに泣き続ける。

 それはかつて、妹に訊ねた疑問だった。

 ここで自分たちは何をしているのか、と訊ねた。

 妹は、兄の意図が理解できない顔で答えた。

 ここにいることが自分たちのすることだと言った。

 妹の言葉を噛み締めて兄は砂の上に蹲る。

 膝のあいだに抱え込む口元から嗚咽が漏れる。

 もともと意味などないのだと、自分に言い聞かせて、それでも耐え切れずに切なさは声になり涙となって体の外に溢れ出す。

 いつも身を寄せ合って生きてきたのに、その指の柔らかさも肌のぬくもりも、頬の滑らかさも知っているのにどうしてこんなに寂しいのだと泣き続ける。

 この砂の中深く埋もれて、じっと身動きせず眠りたいと願う。そうすれば、妹が自分を蘇らせるために砂の上で舞ってくれるだろうと思う。妹が踏む砂の音が、閉ざされた自分の心を叩き自分を目覚めさせ、やがて砂を押し分けて立ち上がり再会の喜びに胸躍らせて抱き合えるだろう。その時はきっと互いの気持ちは溶け合い、ここにいる意味も理解できるに違いない。


 砂の上で妹は舞い続ける。

 膝を揃えて爪先立ち、両腕で弧を描いて天を仰ぎ、軽やかに飛び上がる。

 妹の体は高く中空を舞いゆっくりと回転して着地する。

 その爪先から小さく砂が舞い上がる。

 妹は、身を屈め大地をひと撫でし、立ち上がって再び空に向かって胸を張る。

 そして、腕を広げ再び暗く晴れわたる空を押し上げるように飛び上がる。その体はさっきよりわずかに高く舞い上がり、わずかに多く回転しながら下りてくる。

 さっきより少しだけ大きく砂が舞い、妹に応える。

 妹の体が宙を舞うたびに砂は高さを増し、妹の体を包むように旋回する。

 妹と砂は手を取り合うように次第に高く舞い上がって行く。

 それは、兄妹がこれまで見たことがない光景だった。

 兄は息を殺してそれを見つめ、妹は驚きの顔を見せながらも喜々として舞い続ける。

 兄は、地の底で何かが目覚めようとしていることを感じる。

 何が動き出そうとするのかは知らない。

 既に水の種の存在は忘れ去られている。

 しかし何かが目覚めようとしていることは感じる。

 兄は妹から目を離すことができない。手を伸ばせば捕まえられそうな場所にいながら、その姿は次第に遠くなる。

 何かが生まれ、何かが失われる時が来たと兄は思う。 

 小さな二人が取り残された果てしのない世界が、音もなく身動きし始める。



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