裕介の始まり
「本日、人身事故により列車の到着が遅れております。現在、各列車30分程おくれております。皆様には大変ご迷惑をお掛け致しますが、今しばらくお待ちくださいませ」
ホームにアナウンスが木霊した。
「うわっ、マジか……。だから、こんなに人が多いのか」
いつも通勤で使う電車のホームに到着した裕介は、思わず独り言ちた。
これは間に合いそうにない……。遅刻になるだろうと、会社に連絡するためにスマホを手に取る。
「……出ないか」
いつも乗る扉の位置まで移動しながら、スマホを耳に当て続ける……が、誰も出ない。
きっと誰かはいるんだろうが、我が社の暗黙のルールで、違う部署の外線は、わざわざ出ることはない。裕介の部署の人間は、この時間、いつもまだ誰も出勤していない。
もう少し後に、掛け直すか……。
スマホをビジネスバッグに戻そうと立ち止まった瞬間、足の踵に何かがぶつかった……、と同時に、後ろから小さく人がぶつかってきた。
「わっ」「あっ」
相手がすぐに立ち止まったため、押し倒されることはなかったが、思わずムッと振り返る。
「すみませんっ! 大丈夫でしたか?」
慌てた様子で、申し訳なさそうに謝る女性がそこに立っていた。
「……いえ、こっちが急に止まったから」
裕介はすぐに自分の足元を確認し、一歩横に移動した。
「どうぞ」
「ありがとうござます」
その女性は、裕介の横を通り抜け、ゆっくりと歩きだした。コツコツと、独特の音を立てながら……。
彼女は、白杖を手にした視覚障害者だった。裕介は、点字ブロックの上を歩いていたのだ。
彼女のことは、この駅でよく見かける。出勤の際、週に何度か一緒になる。
初めて気が付いたのは、この春だ。最初は、相手が見えていないことをいいことに、ついジロジロと見た。まぁ、男が若い女の子を見る時の、ごく自然な反応だと思うが、相手の視線がない事が、こちらの気持ちを更に無防備にしたのは間違いない。
「いつものおばさんは、どうしたんだろう」
彼女には、いつも介助する中年の女性が横にいる。どうも親御さんではないっぽいので、ボランティアの人か、同行介助の人なのかと想像していたが、こんな日に限って隣にいない。
あのまま、1人で電車に乗れるのか……。今日のホームは、人が溢れている。
「間もなく列車が到着します。白線まで下がってお待ち下さい」
電車が入ってきてドアが開いた途端、多くの人がジリジリと動き出した。やはり、既にいつもより車内は混んでいる。
裕介も何とか乗り込もうと、後ろから押されるままの力で前を押し、これ以上は入れないと思われても尚、前に進み続けた。
ギリギリ扉の際に、背中から乗り込む。裕介を含む3人が外に向かって立ち、扉が閉まるのを、今か今かと待つ。目の前のホームに残っている人達は、次の電車にすると判断した人々だ。見送る覚悟を決めた顔で、その場に留まっている。
「あのっ、乗りますっ!」
さっきの彼女が、扉の横からひょっこり出てきて、電車の入り口を白杖でコツコツと確認している。いやっ、無理だろう! 俺達でも必死に踏ん張ってるんだ!
「無理なご乗車は、お止めください。白線まで下がって下さい!」
ホームのスピーカーから、間違いなく彼女のことを指しているだろう注意の声が飛ぶ。離れた場所にいた駅員も、笛を吹きながら「下がって!」と叫び、走って来る。が、当の彼女は、それが自分のことだとは、分かっていない。危ないって!
「プルプルプル~」
発車のベルが、鳴り響く。発車メロディではなく、乗務員が手動で鳴らしているベルだ。最後通告である。
彼女が、必死の形相で叫ぶ。
「乗りますっ! どなたか、手伝っていただけ……」
「あっ……」
グッと左の腕を掴まれ、引き上げられた。
「もっと、中へっ!」
抱え込まれるように、腰をガッシリと引き寄せられた。と同時に、「プシュ―」とドアが閉まる音がした。
俺の日常が、この時変わったことを、まだ俺は知らない。
人の体が、前も左右も、ぎっしりと密着している。凛乃は驚いた。こんなに、混んでたの!?
「あの……、ありがとうございました」
お礼を言いつつ、目の前の人の体から離れようとするが、身動きが取れない。腰にあった腕はすぐに離されたが、そのまま伸ばしてドアに突っ張っている気配がする。
「ごめん。悪いけど、これ以上離れられない」
どこか踏ん張っている様な声で、目の前の人が小さく謝ってきた。
「いえ、すみません。こんなに混んでいると思わなくて……」
「ちょっと……、待って……。ン゛~、すいまっ……せんっ……」
その人が唸ったかと思うと、体の前にほんの少し空間ができた。どうやら、自分の体を使って、人の塊を奥に動かしたらしい。
「ほんとに……、ごめんなさい……」
凛乃は肩から掛けていたバッグを胸に抱え込んで、もう一度謝る。
「これで、少しは大丈夫?」
「あっ、はい。ありがとうございます。十分です……」
凛乃は、この電車ではあまり感じたことのない、人いきれでムッとした空気に押しつぶされそうだった。
今日は、やっぱりタクシーにすればよかった。電車が遅れてるのに、文子さんいないんだから、無理なんかしなきゃよかった……。
凛乃は自分でも気が付かないうちに、小さく溜息をついていた。俯いてギュゥゥとカバンと白杖を押し抱きながら、まるで自分がそのカバンになったかの様に、体全体を縮こませた。
「今日は、いつもの女性は一緒じゃないんですか?」
おでこの辺りに小さく息が掛かり、そんな言葉が降ってきた。凛乃にだけ聞こえるくらいの、小さな声だった。凛乃は、慌てて顔を上げた。
「えっ……」
「いつも、50代位の女性が一緒ですよね」
「あっ、はい。今朝、娘さんが産気づいたって連絡があって……」
「あぁ、だから……」
「はい。今日は1人でも大丈夫だって返事したんですけど……。まさか、こんなに混んでるなんて……」
「人身事故があったみたいですよ」
「そうですよね……。いつもより人が多いのは分かってたんですが、ここまでとは思わなくて……」
確かに、健常者からすれば彼女の様な障害者がいれば、避けて歩く。だから、本人はどれほどの混雑ぶりか、体感として分からないかもしれない。目からの情報は、我々が自覚している以上に、世界を支配している。
「でも、さっきのは危なかった。駅員さんの声、聞こえませんでした?」
「……あれ、私だったんだ。……ごめんなさい」
「いや、責めてるわけでは……」
あの時、目の前のホームに残っている誰かが、1人でも彼女に声を掛ければ、回避できたはずだ。けれど、誰も動かなかった。
俺達はどこまでも、彼女を「健常者と同じ他人」として放っておいた。
責めたつもりはないが、まるで叱られたかのように小さくなった彼女を見て、逆にこちらが悪いことをした様で落ち着かない。
「確か、降りる駅って……」
裕介は普段彼女が降りている駅を確認する。彼女は驚いたように、裕介の顔を見上げた。
「俺も同じ駅で降りるので、手伝いましょうか?」
「いいんですか? 急いでらっしゃいませんか?」
「ええ。どちらにしろ、今日は遅刻ですから」
彼女は一瞬、不思議そうな顔をしたが、電車が遅れていることを思い出したのだろう。「よろしくお願いします」と、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。ここまでこれば、大丈夫です」
到着した駅を出たところで、点字ブロックを足裏で確認しつつ、凛乃は掴んでいた彼の右ひじを離した。
「いつもより歩道も混んでいるので、気を付けて下さいね」
「はい、分かりました。あの、本当に助かりました」
「いいえ。じゃ」
進んで来た方向と反対側に歩いて行く足音を確認しながら、凛乃は自然と頬が緩んだ。
「ふーっ。失敗しちゃったな……。でも、優しい人いて、よかった」
凛乃は、あの時掴まれた左腕をそっと確認する様に、擦った。
凛乃は杖を動かす。会社の前までは、点字ブロックがある道を選んであるから、大抵問題なく行ける。まぁ、たまに点字ブロックの上に自転車が止めてあったり、人が立ち話してたりして、避け切れずにぶつかったりはするが、そんなことは、もう慣れた。
この春から、念願の1人暮らしを始めて、仕事場への通勤経路が変わった。
文子はそんな凛乃に、あの駅を使い始めて1週間目で声を掛けてくれた女性である。
「何か、お手伝いしましょうか?」
正面に立ち、しっかりした声で話し掛けてくれた。まだまだ不安な思いでいた凛乃の心が、フワッと軽くなるのが、しっかりと自覚できた程だ。
「私ね、毎日この駅使うから、お手伝いしますね」
初日にそう言われた時は、逆に少し不安になった。
目が見えなくても、1人でいたい時はあるし、もしかしたら、気が合わないかもしれない。国の同行援護サービスと違い、「もう必要ありません」と断ることも難しい。
けれど、そんな心配は文子には必要なかった。
最初こそ、生まれつきの「先天性障害」なのか、途中から見えなくなった「中途障害」なのかの確認と、「全盲」なのか「弱視」なのかの確認をされたが、後は余分な会話はほとんどなかった。
そんな状態がしばらく続いた後、凛乃の方から質問したのだ。
「文子さんは、お子さんがいらっしゃるんですか?」
手の触れ方とか、声の賭け方とか、少ないやり取りでも、「お母さん」の匂いがしたから、思い切って聞いてみた。
「うん、2人いるよ。今年ね、上の子に子供が生まれるの。初孫」
「わぁ、おめでとうございます」
「ありがとう。凛乃さんは、ご兄弟は?」
「はい。姉が1人」
「ご結婚されてる?」
「……いいえ」
「そう、お幾つ?」
「姉は3つ上ですので、今年28ですね」
「あら、まだまだ遊び盛りねぇ。ふふっ」
姉は、凛乃の1人暮らしに、最後まで反対した。
「無理だって! 火も使うことになるし、何もかも、全部自分でやらなきゃいけないのよ。家にいればいいじゃない。お父さんもお母さんも、口ではああ言ってるけど、本当は反対なんだよ」
両親は「お前のやりたいように、やってみなさい。責任は、私達が取るから」と言ってくれたが、内心では反対していることくらい、重々分かっていた。けれど、けれど……。
「お父さんだってお母さんだって、お姉ちゃんだって、私より長生きするとは限らないでしょ!」
凛乃のこの言葉に、姉は折れた。
「何かあったら、すぐに連絡して」
姉が毎日の様にLINEしてくるので、家事での失敗や、小さなケガなどは、知られない様に心掛けている。これで姉も、私の事ばかりに時間と心を費やすのではなく、自分の結婚について真面目に考えてくれれば、私としても、多少呵責の念が薄れるのではないかと、切に願っている。
私が、誰かの人生を妨げる要因に、決してなってはならない。