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「ふ…」
かなり長い間、宙道の中を歩いたと思っていたが、それが途切れ、再び外界に出た時、陽はまだ蒼穹の端にあった。
不意に開けた白銀の視界、真正面に蒼みがかった乳白色の神殿が聳えたっている。『氷の双宮』に似た造り、表には8本の支柱が立ち並んでテラスを形作り、右手には渡り廊下が雪に埋もれた中を続いて小さな四阿につながり、神殿同様の8本の支柱の間からは、繊細巧妙な図を散らせた水晶の扉を垣間見ることができる。渡り廊下の蒼色が、白く輝く雪に残忍なほど厳しい色を映えさせている。
生命の動きはどこにもない。
全てが静止している。
「あれが『沈黙の扉』だ、聖女王」
その光景を言い表すかのように、セールが告げた。
(『沈黙の扉』)
ユーノの頭に、アシャの話が甦る。
(あの中で死んでいくところだった私)
たった1人で、他の誰にも看取られることなく。
それは覚悟の上だった。1人で生きて1人で死ぬ、そんなことを怖がってはいなかった。
ユーノが生きている世界では、死ぬことは一つの終わりだ。生きている間の喜びが断ち切られるが、生きている間の苦痛も断ち切られるように思える。
だがしかし、この静止した世界では、全てがそのままに留め置かれてしまうような気がする。傷みも悩みも苦しみも、新たに加わる喜びや哀しみで紛らわせられることもなく癒されることもなく、さながら『沈黙の扉』の中で傷を負ったまま横たわっているように、じくじくと重苦しい傷を感じたまま眠り続けるだけの『死』。
(死の向こう側で、二度と戻ることもできずに、永遠に傷み続けるだけの『死』)
ふと、隣のセールの横顔を見やる。
『泉の狩人』(オーミノ)に『死』はあるのだろうか。
それはどんなものなのだろう。
白骨の顔を晒して、いつかの二つの塔で敵を屠る修羅の様相は、ひょっとすると『泉の狩人』(オーミノ)にとっての『死』そのものなのだろうか。
(アシャが救ってくれた私)
ふ、と無意識に唇が綻んだ。アシャのことを思うと、胸の中に柔らかな灯がともるような気がする。痛み続けていた傷が、僅かずつ少しずつ、薄皮を張り肉芽を盛り上げ、自らの力で治っていくような気がする。
(何を嘆く)
セールは身を切るような空気の中、雪の上を裸足で歩み進んでいく。その背後に付き従いながら、ぽかりと澄み渡った感覚で感じる。
(それで十分じゃないか)
風が吹きつけ、雪が動いた。風の方向に顔を上げると、いつの間にか正面の神殿のテラスに、セールと同じような不気味な姿の女性達が立ち並んでいた。誰もが青みがかったドレスを寒風に舞わせている。しなやかな立ち姿、艶やかな髪が弱い陽射しにも光っている。
だが、彼女らの腰に剣がなく武具一つも備えずとも、その中に1人として戦士の気配を持たぬ者はなく、白骨の虚ろな眼窩に紅瞳は輝かずとも、『運命』を越える禍々しさを放たぬ者は一人もいない。
『泉の狩人』(オーミノ)は沈黙の中に、近づくユーノを待っている。
何を望んでいるのか。
何を求められるのか。
まだ一切がわからない。
次の一歩を踏み出したとたんに、眼に見えぬ刃が飛び交って首を切り落とされるのかも知れない。次の一瞥を投げた瞬間に、避けようのない斬撃がこの身を貫くのかも知れない。
それでも、ユーノはまっすぐ顔を上げて進んだ。
(アシャがあれほどの怪我を押して、こんな場所へ来てくれた、それで十分じゃないか)
セールは雪の上に小さな足跡を残して神殿に近づき、中央の、長い髪を風に舞わせた1人の『泉の狩人』(オーミノ)の前に立ち止まった。
ユーノも一呼吸遅れて立ち止まり、きっと相手を睨み据える。
(たとえ、『仲間として』でしかなく、永久にその位置から逃れられなくとも)
アシャの尽くしてくれた誠意を忘れるまい、無にするまい。それにふさわしい者であるよう、努力しよう。
それが命を救われた者の本分だろう?
す、と影が落ちるようにセールが体を落として膝をついた。その上でなお深々と頭を垂れながら、
「長、ラフィンニ。我らが聖女王をお連れしました」
「うむ」
頷きに周囲の空気が息を呑むような殺気があった。
ラフィンニと呼ばれた女性がゆっくりとテラスから降りてくる。一歩、また一歩と、乳白色でありながら青ざめた気配を漂わせる階段に、透き通るほど白い素足を置いていく。
風が止んだ。
そよとも吹かぬ凪の世界、全ての動きが絶えた世界の中を、ラフィンニだけが動き続け、セールの側を通り抜け、ユーノの方へ歩み寄ってくる。
すらりと高い長身から、地の底を抉り取るような深く陰鬱な声が降り落ちる。
「セレド皇女、ラズーンの『銀の王族』、ユーノ・セレディス」
「…」
声の保つ巨大な圧力に押し潰されそうな気がした。ユーナの名ではなくユーノと呼ばれた、それが全てを物語っている気がする。無言で見つめ返したユーノは、彼女をまっすぐ見下ろす闇の眼窩と対峙する。
(なんという、無)
夜ではない。灯がないのではない。何もないのではない。そこにぎっちりと詰め込まれているのは、全てを呑み込み全てを抱えても満たされぬ餓え。
「我ら『泉の狩人』(オーミノ)は、長い間……ただ1人の女王を待っていた」
声は一転、囁くように微かなものになった。胸に溢れる想いを口にしてしまえば、その望みの全てが潰えてしまうと思っているかのように。
願いが響く、聞こえないことばで、その眼から。
我が餓えを、満たせ。
「……よい…瞳を……されておる……我らが聖女王よ…」
懐かしげな、愛おしげな、そして、それらを突き崩す、果てしのない絶望。
そんなことはあり得ない、ありはしないのだ。
そう形にならないことばが言い切ったように、ラフィンニは唐突に身を翻した。
「こちらへ。そなたに渡すものがあります。合わせて、我らが運命を語りましょうぞ」