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「……そして……」
「ジノ」
「はい?」
ミダス公邸の一隅、花苑に面したベランダで、詩を紡いでいたジノ・スティルは、敬愛する主人リディノに唐突に遮られた。嫌な顔一つせず、立風琴を弾く手を止める。黒髪の頭に巻いて片端を垂れ下がらせている深緑の布をふわりと舞わせて振り返り、自分の詩のどこがリディノに不興をもたらせたのかと訝るように主人を見つめ返した。
「ごめんなさい、詩を途中で切らせて」
リディノはジノの視線に申し訳なさそうに詫びた。
詩人は、詩を自分の命の発露と考える。自分の生き様の証であれと願う。その詩を理由もなしに遮った非礼をまず詫びる、そこにリディノの育ちの良さが伺える。
「構いませんよ、姫さま」
にこりと笑って、強く舞い上がり満たされようとした気持ちを緩め、その吐息がわりにぽろりと立風琴に指を滑らせる。
「アシャ様のことがご心配なのですね」
「……ええ」
一瞬ためらって答えたリディノは長い睫毛を伏せた。その頬が見る見る薄紅を帯びていくのは誠に美しい眺めだったが、なぜだろう、いつもならば、その後に続くアシャへの恋慕を、今日の主は口にしない。それどころか、ふいとジノに背中を向け、花苑に向き直ってしまった。
「ごめんなさい……1人になりたいの」
珍しくきっぱりと口にされた拒否に少し驚いたものの、ジノは静かに頷いた。
「はい」
微笑みを浮かべて主の想いを大事にしていると知らせようとしたが、リディノはジノを振り返りもしない。ことさら顔を背ける横顔は、いつもより鋭いように思える。
だが、ジノはそれ以上の詮索をせず、深く一礼し、無言で立ち上がった。こちらの動きに意識さえ向けないようなリディノに、気配を殺してその場を立ち去る。
(姫さま…)
廊下まで戻ったジノは、完全に離れる前にちらりとリディノを見やった。
淡い紅のドレス、腰に締めた幅広の凝った織の帯、風に舞うプラチナブロンドの巻き毛にはキャサランの金細工と紅金糸石の髪飾り。
艶やかで華やかな、小さな花園のように見える愛らしい出で立ちなのに、背中を向けて花苑に向き合う姿は、どことなく寂しげで苦しげで、何かを想い悩んでいるような様子だ。
「……」
ジノは主に聞こえぬように、そっと溜め息をついて歩き出した。自室の方へまっすぐに向かう、主が再びジノを求めた時に、彼女の所在を探させることなどないように。
けれど思わず知らず、眉を寄せて考え込んでいた。
リディノの心配が、アシャの安全、ユーノの無事に向けられているのは、まぎれもない事実だ。ラズーンの裏切り者かも知れないアギャン公、その領地へたった2人で、碌な武器も携えずに乗り込んでいった無謀さに胸を痛めているのは、リディノばかりではない。
(アシャさま……ユーノさま…)
ご無事であれ、と願う脳裏に、鮮やかなアシャの笑い顔、怯みさえ見せずに堂々と歩き去るユーノの後ろ姿が浮かぶ。
(お2人ならば大丈夫だ、きっと姫さまも、そう信じたいはず)
もう一度、ジノは肩越しに、遠ざかった主を振り返る。
ならばなぜ、ジノはリディノの元に残り、不安に震える主を慰めなかったのか。自分の抱いているアシャの腕やユーノの度量への信頼を伝え、あのお2人ならば、きっと如何なる窮地も乗り越えて戻って来られます、そう伝えなかったのか。
(私は)
ジノはゆっくりと立ち止まり、自分の胸の内を覗き込むように目を凝らした。
(何を不安がっている?)
ジノはアシャとユーノの力量に不安は抱いていない。アシャは百戦錬磨の剣士で類稀なる参謀だし、ユーノの度胸や胆力と来たら、下手な男どもよりよほど優れている。2人がどうしても突破するべしと決めたなら、アギャン如きの策謀に負けるとは思えない。なのに。
(気になるのは……)
姫さまだ。
心の声は容赦なく秘密を暴いた。
(あれは、何だろう?)
詩人は観衆の気持ちの動きに細やかであれと教えられる。聴き手は詩の何に喜び、何を受け止め、何を望んで待っているのかを常に意識していなくてはならない。同時に、己の心の動きにも注意深くあれと諭される。観衆に影響を受けて、語らなくてはならぬ本質を見失い、激情に弄ばれてしまわぬように。
今ジノは、さきほど詩を聴いていたリディノの心の奥に広がったものを凝視していた。
それはどす黒い澱みのようなものだ。たゆたゆと微かな音をたてながら、休むことなくリディノの心の岸辺に押し寄せ打ち寄せ続け、一波一波の力は弱くとも、確実に着実に岸辺を侵蝕していっている。
何よりジノが気がかりなのは、その侵蝕にリディノが抗しようともせず、手をつかねて、昏い波に侵されていく自分をただ見守っているという事実だ。
(何を考えておられる……姫さま?)
それはジノの知っているリディノの姿ではなかった。何かもっとねっとりした、もっと生々しい、別の『女』のような……。
「ジノ!」「っ!」
ふいに部屋の影から飛びつかれて、ジノは危うく立風琴を取り落としそうになった。鼻先にリディノとはまた違った色合いのプラチナブロンドの直毛が乱れ、どこか懐かしい甘い匂いが漂う。
「どこに行ってたの?」
明るい声が続けた。
「ぼく、さがしたんだよ」
「…すみません、レスファート様」
立風琴を抱えたとは別の腕で抱きついた少年を受け止め、ジノはくすりと笑った。
「何か御用でしたか?」
アシャに同行してきた少年は、辺境の地の王族だと言う。王族ならではの物怖じのなさと、ただの王族の少年とは違ったしたたかさを兼ね備えたレスファートは、ジノにとっても好ましい相手だ。
「詩を教えてほしいんだ」
「またですか?」
ジノは顔を反らせて見上げてくるレスファートを覗き込んだ。




