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何か予感めいたものを感じさせる、そんな日だった。
風は凪ぎ、花々の薫りは強く立ちこめ、ユーノの鼻腔を満たしている。深く澄んだ立風琴の音が、高く低く、暮れかけて朧に霞んだ空へと流れてゆく。
剣士としてだけではなく、楽師としても名の知れたアシャが、レアナ達の求めに従って無聊を慰めるために立風琴を奏でているのだ。
(柔らかい音色…)
ユーノはスティルの幹にもたれて膝を抱き、目を閉じながら考える。
(立風琴は奏でる者の声に似るって、本当だな)
音が聴こえて来たとき、廊下を歩いていたユーノはすぐさま広間に向かった。余りにも見事な立風琴の音色、それだけではない、それがアシャの音、しかも恋歌だと気づいたせいだ。
(何て甘やかな、切なげな音)
通りすがりに聴くだけでもこれほど心をかき乱す、そんな音を一体どんな顔で奏でているのやら。興味半分、残り半分は『そういう顔』を見たいと思う欲望、自分で気づいていささか熱くなった頬を持て余しつつ、広間に踏み込みかけてぎくりと立ち止まる。
広間の中央にミダス公、その側に妃、そして、二人から一段下がった所に、アシャが立風琴を抱えて腰を降ろしている。そして、その回りを囲むように、レアナ、リディノ、レスファートが顔を揃えていた。色気より食い気のイルファは、どこかでつまみ食いでもしているのか姿はなかった。
穏やかで明るくて柔らかな光景、声をかければ、皆笑顔で振り向いてくれそうな、優しい気配。
だが、ユーノは、次の一歩が踏み込めなくなった。
セレドでも、そっくり同じ光景を見た。旅の楽師を取り囲む、父と母、姉に妹、くるりとまとまったその輪が、余りにも見事に整っていて、そこに入れる余地を見いだせなかった。
自分が居ても居なくても、あの輪は変わることはないのだろう。ユーノの存在が無いからと言って、何が欠けることもないのだろう。
それは凍てつくような確信、今目の前にしている光景にも、それと同じような竦むような感覚があった。リディノの付き人のジノでさえ、やや端に身を縮めて座っている。あれほどリディノに近しい彼女のことを、リディノは気にする様子さえない。
この、たとえようもなく穏やかできれいな世界を、自分が踏み込むことで台無しにしてしまう、きっと何かを壊してしまう。たった一歩のこと、何をためらう、何を馬鹿なことを考えている、そう思いながらも足が動かなかった。
そろりと後じさりすれば、嘘のように軽々と足は動いて、ユーノは音もなく素早く庭へ抜け出た。いつか登ったスティルの樹、ジノの衣を染める深草色の染料がとれる樹の根元にもたれて、1人密かに音色に耳を澄まし続ける。
(甘い音……甘い声……まるで、耳元で囁くような…)
聴いているだけで、胸が切なく締め付けられる。耐えようとして眉を潜めて息を詰める。
(でも、あなたの遠さは嫌というほど知っている…)
「おまえの国へ
旅をしよう
遠い夜の国から来たのだから
おまえは俺を迎えてくれ
疲れ切った俺の体を
そっと抱き締めて囁いてくれ
待っていた、と……
愛していた、と……
すべての呪文を解くことばは
いつもおまえの胸の裡にある
光を捜し求めてきたのだから
おまえは俺を迎えてくれ
かぼそいその腕で
そっと抱き締めて囁いてくれ
待っていた、と……
愛している、と……」
(待っていた……愛している…)
心の中で、詩の繰り返しをなぞる。そっと膝を抱き締め、頭をもたせかける。
(私の旅はきっと終らないんだろうな)
なぜなら、帰れる唯一つの胸には、すでにレアナの白い手の封印があるから。ユーノにできるのは、その前で立ちすくむだけ。
(魂が……痛い…)
「っ!」
心の中で呟いた瞬間、ふいに間近に人の気配を感じて身を起こした。咄嗟に滑らせた右手は剣にかかる。片膝立ちになってそちらを見据えたユーノの頭からは、アシャのこともレアナのことも消え失せている。あるのはただ、敵ならば一刀両断、斬り捨ててくれようという殺気だけだ。
『ほ……ほほ…』
「何者!」
(宙道!)
すぐ近くの空中に黄金の輪が浮かび、その中に黒々と星一つない深い夜を満たしている。いや夜ならばまだしも、一歩足を踏み入れれば、底なしの闇に落ちて行きそうな無窮の空間だ。
唐突に響いた笑い声は、決して快いものとは言えず、どちらかと言えば、死の使いが獲物を前にたてる喜びの嘲りとも聞こえた。
『さすがは我らが聖女王……戦士としても、一流と見える』
「シグ……ラトル…?」
聞き慣れないことばを耳にして訝しく眉を顰めたユーノは、次の瞬間ぬめりと暗黒から湧きいでるように現れた相手にぎょっとした。
それは何と不可思議な姿だっただろう。
一見しては人間の女性だ。白く滑らかな肌に薄水色の衣をまとい、わずかに波打つ黒髪を艶やかになびかせている。ただ、彼女が人ではあるまいと思わせてしまうのはその顔、どうことばを繕っても、肉が全て溶け落ちたとしか言いようのない白骨の顔だ。
虚ろな眼窩は覗き込むほどに暗く得体の知れぬ闇をたたえ、剥き出された歯は真珠のように美しく傷一つなく磨かれているが、根本は干涸びた上下の顎に埋まり込んでいるばかり、明るい色の頬がある部分は武骨に突き出た頬骨に変わられ、鼻はかさかさに乾いた2つの空洞になっている。
(敵か、味方か)
前者ならば数瞬後には屠られているだろう、後者であるなら何を代償に求められるのかわからない。
緊張に体を張るユーノに、相手はどこから響くのかわからない声で告げた。
『我が名はセール……我らが長…ラフィンニの使いとして……「泉の狩人」(オーミノ)がそなたを迎えに参った』
「っ」
ユーノは思わず息を呑んだ。
(これが、『泉の狩人』(オーミノ))。
狩人の山に踏み込み、謁見を願い出ようとして果たせなかった一族が、今目の前に居る。
(ここまで、人と離れた存在だったのか)
お伽噺や昔語りの中にいる太古生物とどれほど違うのか。むしろ、こんな存在が人語を解するということの方が信じられない。
(アシャは、こんな相手と交渉しにでかけたって…?)
それは既に豪胆とか勇猛とかの範疇ではなく、無謀とか命知らずとか、そういう類のものではないのか。
茫然としてことばもなく相手を見つめるユーノに、セールは苛立ったように急き立てた。
『来るがいい……ユーノ・セレディス…』
「……、」
ふらりと立ち上がった自分にどきりとする。何だろう、妙に無防備になってしまい、唯々諾々と相手のことばに従ってしまいそうになる。この陰鬱な独特の声の響きのせいか、それとも、余りにもユーノの知っている世界とかけ離れた存在だからか。
『こちらだ』
「……」
だが、拒否しようとは思わなかった。促すセールに頷いて、ユーノは宙道の闇の中へ足を踏み入れていった。