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「……以前に、ガズラの湖で、1人の少女を助けただろう?」
『ああ……そなたの想い人だったな』
一瞬からかうような声になったミネルバは、すぐに訝しげに尋ねてくる。
『それがどうかしたのか?』
「あのことをラフィンニに話せば、おそらく追放令は取り消されるだろう」
アシャがイルファやレスファートの元に戻るように、ミネルバもまた、再び『泉の狩人』(オーミノ)に戻ることでユーノの側に居ることができる。
『何…?』
アシャのことばに考え込んだように沈黙したミネルバは、やがて死の世界を思わせる声で呟いた。
『それでは……そうなのか。あの娘が…』
「そうだ、聖女王だ」
『…剣を継ぐものだ…』
どこか朧な声で応じたミネルバは、ふいにくつくつと低い声で嗤った。
『そなたは昔から頭が良い』
「ん?」
『追放令のことは悔いてはおらぬと言ったはず。が、それを知って持ちかけた情報の交換に、何を渡せというのか?』
アシャは無言でにやりと笑った。自分の顔がふてぶてしいものになっているのは想像がつく。ユーノを想って純情一途な青年を演じ続けるには、アシャは自分の人の悪さを知り過ぎている。
『ほ…ほほっ……』
窓の外でミネルバは楽しげに笑った。
『良かろう。聖女王に『剣を継ぐ者』(シグラトル)と応じたのは、私が甘かった。そなたが知りたいのは、あの娘が名実ともに聖女王になる時であろう?』
アシャは応えない。
『3日後、ラフィンニが迎えに来よう』
ミネルバは静かな声で続けた。
『剣もその時には、あの娘のものとなる。……アシャよ』
「うむ?」
『重い定めの娘に惚れたものだ』
「俺も今そう考えていた」
『泉の狩人』(オーミノ)の運命を引き受けることを示す剣の継承。彼らの望む破滅を確かに導いてやってこその聖女王。
(そんなことを、あいつは望まない)
だが、その願いを容れなければ、『泉の狩人』(オーミノ)は自らの破滅を導くために世界を滅ぼすことになる。
(どうすれば、あいつが少しでも楽になる?)
ラズーンの未来を、『泉の狩人』(オーミノ)の希望を、その2つを背負うだけでも十分に厳しいのに、彼女の最も近しい人々が暮らすセレドの安寧を、ユーノは強く深く願っている。
(守るだけでは、難しい)
ユーノが無事であるだけでは、彼女はいつか重圧に潰されるだろう。
(どうすればいい)
あれ以上はもう傷つかせたくない。
(何をすればいい)
あれ以上苦しませたくない。
(俺の手をいつも払いのけるあいつに、俺は何ができる)
両手を伸ばし抱え込もうとしても、ユーノは『死の女神』(イラークトル)のお気に入り、一瞬の遅れであっという間に置き去られる。
『護る気か?』
「…っ」
深い声で問いかけられて我に返る。
護る。
「…ああ」
そうか、ただそれだけのことか。
『楽ではないぞ。そなたは沈黙を誓っている』
「…そうだな」
俺が俺がと考えるから身動きできなくなるのだ。アシャが守ることに拘るから、ユーノの動きを見逃し見過ごし、一歩が遅れるのだ。
「けれど、護りようが、あるはずだ」
もっと視野を広げ、視点を変え、ユーノを取り囲む全ての因子を頭に叩き込んでいけば、或いは見つかるかも知れない、ユーノが傷つかず苦しまず哀しまず、ただのびのびと幸せに生きていける道が。
『…捜すのか、その方法を』
「捜す、捜して、見つけて、やり遂げる……アシャ・ラズーンの名にかけて」
その瞬間、脳裏に閃いたユーノの笑顔に体が震えるような喜びが広がった。
『ふ…ふふ。ようやく、名にかけて誓いおったか』
ミネルバが珍しく柔らかな含み笑いを響かせた。
『報われぬかも知れぬな、あの娘がそなたの保護を必要とするとは思えぬ』
「そう、だろうな」
はっきり言い切られて忘れていた胸の疼きが戻る。
「それでも」
ユーノは笑うかも知れない、幸福そうに、明るく。
「…それなら、いい、か」
『…これは当てられたものだ』
ミネルバがなおも笑った。
アシャが言い放った『護る』ということが、この先の戦乱を生き抜いていくことと同義、その修羅を思ったのだろう、ミネルバは厳かな声音になった。
『幸運を祈るには筋違い、そなたの武運を祈ってやろう』
声が消え去ると同時に気配も消える。しばらく、その後も緊張を解かずに身構えていたアシャは、一つ大きな息をつくとごろりと寝転んだ。
「護る、か」
あいつの側に居るためだけでも命が一体幾つ要るんだろうな。
「いっそ、もっと化物だったらよかったか」
両手を差し上げ、闇の中で握り、また開いてみる。
闇の草原、朽ちた遺跡、真に命を貪る魔性であれば、『運命』(リマイン)の血をも含んでいたならば、アシャはユーノを死ぬまで護り通せたのだろうか。やがてはミネルバと同じく、ユーノに狩られることになったとしても?
甦った記憶にアシャはくしゃりと顔を歪ませた。
両手で顔を覆う。
「……聞いてはいたが、初恋は、辛いな」
皮肉な口調で呟き、歯を食いしばる。
「ユーノ…」
俺を、俺の命を、欲してくれ。
それは、遠い過去から響く傷みの声だった。