5
夜闇は深く、人は寝静まっている。
その中で、アシャは1人、眠れぬ夜に転々と寝返りを打つ。
(緑の葉を乱して落ちて来て)
ベッドの上に仰向けになって、両腕を頭の後ろに組みながら、闇の視界に光景を思い浮かべる。
(腕の中に飛び込んで来た)
「…」
疼く痛み、微かに唇を噛む。いや、違う、きっともっと。
そろそろと右手を抜き、指先で唇に触れ、やがておずおずと左胸へと指を伸ばした。
心臓より僅かに上、そこは昼間樹上から落ちて来たユーノがしがみついた場所、とっさの無意識で服を掴まれただけなのに、その一瞬にまるで心を引きずり出されたような気がして、呼吸さえできなかった。
傷はほとんど完治しているのに、ユーノの手が触れたところだけが切なく熱く疼いている。不快なものではない、どこか甘くやるせなく、男なら誰でも知っている挑もうと息を呑む瞬間の熱。
(触れたのが初めてというわけじゃない)
(抱きかかえたのも初めてじゃない)
(それどころか、肌にも)
視野に立ち上がりかけた陽炎を、目を閉じながら遠ざける。眉根を寄せて波を堪える、何度も打ち寄せる揺らぎ、鎖をかけられた熱を解き放てと荒々しく叫ぶ声、抵抗しても無駄なのは知っている。だが、そういう自分をうまく宥められるほどにはアシャも歳を重ねている。
加えてもう一つ、ひやりと冷たい凝縮された結論。
(そして、永久に、俺のものには、ならない)
ゆっくりと瞼を持ち上げた。
そのまましばらく暗闇を凝視していたが、ふと窓の外を過った気配に目を見開く。苦しげに歪めていた唇を開く。零れる自分の声は意外そうで楽しげに響く。
「こんな所まで、珍しいな、ミネルバ」
『気づいておったのか』
僅かな沈黙を追い払うように、陰鬱な声が応じた。
「気づいていたが、疑ってもいた。『泉の狩人』(オーミノ)から追放された狩人が、ラズーンまで入り込んでくるとは如何ほどの用があるのか、と」
声は消えた。
しばらくは静かな夜気のみの気配、やがて、陰々と声が戻ってくる。
『……聖女王が現れたそうだな』
ためらうような間を置いて、
『何者か、知っているのか』
「…ああ」
くす、と思わずアシャは笑みを零した。
(全くどいつもこいつも)
探し求める姿は一つか、と苦く顔を歪める。
「知りたいのか、ミネルバ」
手に入らないと思い知らされるために。
『…知ってもどうということはあるまい』
ミネルバは物憂げに応じた。
『ラズーンの「氷の双宮」より精気を分けられるのに飽き足らず、掟を破ってラズーン支配下で「狩り」をしてきたことに悔いはない。人間からも仲間からも、愚かな堕ち果てた魂、魔、と誹られようとも仕方あるまい』
さやさやと風が鳴る、ことばを全て霞ませるかのように。
『だが、聖女王を迎え、我らが運命に終止符を打つのは「狩人」全ての悲願、放浪者として放逐されておろうとも、滅ぶ時には共に消えていくのが良かろう………我らは長く生き過ぎた』
「ミネルバ…」
少し前なら、ミネルバの悲愴を理解はしても共感などしなかっただろう。
だが、今ミネルバの口調に含まれた孤独は、アシャの胸によく響いた。
繰り返し願って望んだ世界を、自ら破滅させた。かけがえなく命にかえて守ろうとした存在を、自らの手で縊り殺した。
この罪を、誰か激しく打ち据えよ。
愚かなり、と嘲笑え。
(信じてくれ、決して傷つけるつもりなどなかったのだ、と)
だが、過ちはいつもそういうものではないのか。
絶対に起こすまいと決意した、その指先で引き起こしてしまう災厄ではないのか。
(ユーノ)
守れなかった、これほど長い旅路の果てに、あれほどの傷を、抱えた腕の中で受けさせた。
(俺は、お前を守れなかった)
だからこれは当然の代償なのだ、ユーノが心からその身を委ねられる男が現れるまで、ユーノが心から安心して生きられる世界が見つかるまで、アシャはユーノの守りに徹する、全ての想いを封じたままで。
『気づいておるのだろう、アシャ。ラズーンに関わったものは、遠からぬ先に滅びを迎える。我らのみ生き残ったところで、何を生み出せよう…?』
アシャはむくりと体を起こした。窓の外の闇、白馬に跨がった薄水色のドレスを身につけた女は、頼りなげに立ち竦んでいる。
それはまるで自らの姿にも見えて。
アシャもまた、ラズーンに強く縛られている存在、新しい世界が満たされるならば消し去られるべき魔性の命。
(俺達は共に、この世界には不要なもの)
アシャはそれをユーノに関わる事で思い知らされている。
だからこそ、ミネルバがその自分を抱えても、聖女王の存在を確かめに来た気持ちが、今は痛いほどわかる。
(それでも、俺達は)
ユーノと共に生きていたい。