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三月三日 丁丑 酉一刻
(なんなんやろ、この取り合わせ)
「妙法先生、このような若輩で足りるのでしょうか」
「しっ、本命がおらぬのだから仕方あるまい。これはこれでちゃんとやるのだ、憂うまいぞ」
右京は九条四坊、菖蒲小路に面した季満の破れ屋に二人の男が訪れたのは、四半刻ほど前のことであった。各々の膝元には、出されたままぬるくなりつつある椀が、弱々しい湯気を立ち迷わせている。
一見するだに、いささか不謹慎な興味の湧いてくる取り合わせであった。かたや凛然たる偉丈夫、こなた絶世の佳人。着座してよりこのかた、二人ともぼそぼそと内緒話などに興じており、一向に本題を切り出す気配はうかがえない。
(えらい別嬪やけど、格好が格好やし、あら男やよなあ。ほなら道説のやつ、アッチのひとやったんやろか。ひょっとすると、たまこちゃんになびかへんのも……)
このように季満もまた、おのれの妄想をたくましくするのに忙しく、いきおい場の空気は最前から変わっていない。季満のかたわらで火箸を弄っていた尾筒丸が、退屈そうに欠伸をした。
「……これ、季満。そのだな、実は折り入って相談があってだな」
幾度か声をかけるのをためらったのち、道説がまこと似つかわしからぬ小声で、対面の季満に声をかけた。首から上だけは決意に充ち満ちているのに、その下は全く別の生き物のようにまごまごと逡巡しているさまは、滑稽を通り越してある種のもの悲しさすら漂っている。
よほど言いにくいことなのだ。はたして季満はピンときた。
(あー、こら間違いあらへん。へえ、この大男がねえ……)
「あのな、道説。ええとな……アレや、力になってやりとうても、そのなんや、やり方がわからんゆうか」
「ん、やり方がわからぬと? そんなはずはなかろう、それで糊口を凌いでおるのではないか。――いつも軽口を叩いてはおるがな、おれはお前のことをそれなりに買っておるのだ。なんと言っても学がある。佑が留守で進退きわまっておった次第だが、もはやこうなってはお前だけが頼りだ」
道説が改まって烏帽子頭を下げる。隣の青年がそれを見て、不承ぶしょうといった感じでそれに倣った。
(佑やて、いつの間に呼び捨てにする仲になったんや……あっ、まさか佑まで……)
季満がひとり赤くなったり青くなったりしているのを、極度の緊張のためと勝手に解釈したものか、道説は道説のほうで、
(おれのただならぬ様子を見て、この依頼が重大なものであることを察したに違いない。普段はおちゃらけておっても、そこは勉学を積んだもののことよ。――さすがだ、土師季満)
などと思ったりしていた。
「うむ、お前の察するとおりだ。これは容易ならざることでな」いちど咳払いし、すっかり冷めた湯をひとくち含み、かたわらの青年を示して、「この藤原長恭どのが御父君、籐大納言さまの御依頼だ。ことは公辺の安否に関わる大事ぞ。さよう怖じけるのも無理からぬことだが、曲げて断ってくれるな。このとおりだ」
道説はもう一度頭を下げた。ちなみに彼の頭の中には、長恭の父の尻ぬぐいなどという些事はすでにない。自らに課した「大臣を禍事から救う」という、やや誇張された使命の重さが、彼をして緊張の極みに陥らせしめているのであった。
(と、トウノダイナゴン? コウヘンのアンピ? なんやわけわからんけど、この二人の間にゃそれだけの障害があるゆうことなんやろか。わあ、おれ自信ないえ、どうしよ……)
とても喜捨を請えるような雰囲気ではない。季満は困りはててしまった。
「土師法師とやら、妙……道説さまがかように申されておるのだ、返事はどうした」
それまで瞑して腕を組んでいた長恭が、その双の花瞼をひらいた。
「長恭どの、そのように申すものではない。これはあくまで、この土師季満に対する仕事の依頼なのだ。受けるも断るも、この男次第ぞ。その選択肢だけは奪ってはならぬ」
「妙法先生……」
二人は見つめ合っている。季満は両手で顔を覆っている。
(うへえ、こんなとこで雰囲気ださへんで欲しいなあもう)
やや頭に血の上った季満には、二人のまなこの中に星すら見えるようであった。尾筒丸は三者のこころの機微など一向に解さず、火箸を握ったまま船を漕いでいた。
「もうし、季満どのお、ご在宅でしょうかあ」
室内の一種異様な空気を断ち割ったのは、細く、やや間延びした女の声であった。
「あ、はいはあい! お客さんどすかあ」
渡りに船とばかりに、季満はぱっと立ち上がり、お熱い二人を尻目に玄関へ走った。廊下の向こうからは相変わらず「もうし、もうし」と細い声が続いている。
(間がもたへん。ええとこにお客はんがきてくらはったな、仕事の依頼やったらとりあえず――)
あの二人には帰ってもらおう、と季満は断じた。
救いの主は階の前に立って、破れ屋の中を興味深そうに眺め回していた。笠からおろした垂衣の丈が長すぎるせいで、遠目には円筒が直立しているようにも見える。
「たっ……!」
来客の顔を一瞥するなり、季満は凍りついた。
「ああ、疲れた。やっと着きました、もう歩けません」
垂衣を割って出てきた顔は、うら寂れた九条界隈にはまことそぐわない、白く華やかな貴顕のそれである。
「もう、季満どのの書いてくだすった書付は間違っておりましてよ。これがわたしでなかったら、路に迷って泣いていたかもしれませんわ。――ああ疲れた」
珠子はやれ「足がいたい」だの「のどがかわいた」だのとぶうぶう文句をたれながら、湿った簀子縁に腰を下ろすと、首にさげたお守り袋をかき回し始めた。
「ま、まあ、お姫はん、ようお越しやした。――で、なんかあったんどすか?」
季満は及び腰で聞いた。珠子のような貴人が牛車にも乗らず、舎人のひとりも連れず、まして治安の悪い右京九条を一人歩きするなど、尋常のことではない。カモがネギとナベを背負って「今が旬でござい」と叫んで回るような妄挙である。
「もう、季満どのが文を取りにきてくださらないものだから、わたしがこうしてやってきたのではないですか。ほうら、もう六通も滞っていましてよ、もう」
小さい子供みたいに足をぶらぶらさせながら、珠子は牛のごとくに「もうもう」とわめいた。ぱんぱんに膨れ上がったお守り袋から出てきたのは、飛矢も防げようかという紙の束である。
「あ、へえ、こら申し訳も……。そやかて、わざわざおみ足をお運びにならへんでも、お家のひとにお使いを頼まらはるなりなんなり……」
「まあ、このような文をほかの誰の手に委ねられるものですか、恥ずかしい。もう!」
珠子はふたたび牛になった。
(あかん……奥に入れたら修羅場や。ここはひとまずお家まで送って――)
淋漓たる汗を迸らせながら、季満が懸命に頭をまわしていた矢先、
「季満、相すまぬが客なら引き取ってもろうてくれ! こちらが先だ」
という声とともに、床板の軋る悲鳴じみた騒音が近づいてくる。とっさのことでほかに手段もなく、季満は窮余のうちにやむを得ず、ちょうど角から姿を現した大男に飛び掛かった。
「おン前っ! お前って奴はっ! なんでこうも空気が読めへんにゃこのデカブツ!」
捨て身の突撃は、ハエでも退けるかのように苦もなく打ち払われる。季満はもんどりうって廊下にまろび、あえなく黒ずんだ床板に接吻した。
「これ、何事だ。ひとをデカブツ呼ばわりしおって――」
「えっ……道説さま!」
「たっ……!」
少女の顔を一瞥するなり、道説は凍りついた。
「――謝礼もさだめて大きなものとなろう。どうだ」
「ふうん」
「……先程のやつは謝るわい。だいたい妙な想像をするお前もだな」
「ふうん」
「…………それ、そのなんだ、お前には苦況にある友を助けようとか、そういった気高い心持ちは――」
「あらへん」
「…………」
日が傾きつつあった。薄暮の仄朱い夕陽がすでに、簀子縁から室内のなかばまで忍び入ってきており、ためにそれを背に受けるかたちとなった道説の目鼻立ちは、その彫りの深さと相まって闇に沈んだような態となっている。
季満はこころなしへこんだ烏帽子頭を撫でさすっていた。
珠子の到着よりほどなく、季満の不謹慎な誤解は解けていたのだが、その代償に道説より落石のごとき拳骨をお見舞いされていた。季満にしてみれば勝手に家に上がり込まれ、廊下を舐めさせられたあげく、家主たるおのれのおつむりを一撃されるという、まるでのら犬にでも噛まれたようななりゆきである。弱りきった大男を仏頂面で眺めるのも存外に楽しく、
(ええ気味や、もうちょいそうして縮こまっとれ)
などと、季満は心中ほくそ笑んでいた。
「土師法師、あまり妙……道説さまをなぶらぬことだ。後々ためにならぬぞ」
長恭が脅しめいた科白を吐いたが、そのあからさまな威嚇をこめた麗貌は、道説をはさんで反対側、季満から見て左手にちょこんと座った珠子に向けられている。
最前から、両者は道説を巡って牽制し合っていた。目下、季満など眼中にないらしい。
「道説さまがお困りになられているのですよ。季満どのがお力を貸して差し上げるのは、ご朋輩としてのつとめというものです」
檜扇で口元を覆いながら、珠子はまるで親が子供に言って聞かせるような口調でそう言った。が、その眼はやはり向かいの法師ではなく、二つ隣の美貌を睨み返している。かたわらの道説にぴったりとくっついて、彼の衣の袖をほそい指で弄っているさまは、なにかの大樹の根元に寄り添って生える、小さな茸を思わせた。
二人ともやはり、道説の言う「友の苦況」の意味が解っていないようである。彼は依頼の説明のあいだ中、しきりに吃り、ずれてもいない烏帽子に手をやり、その隙ひまを縫って長恭の補足や珠子の疑問が入ってくるたびに、まるでおのれが責められているかのようにおどおどするのであった。
(自分が悪いことしたわけやあらへんのんに、つくづく単純な奴ゃなあ)
拳骨の痛みと共に、道説に対する怒りはじき雲散していった。もともとそれほど執念深い性格でもないうえに、相隣る美形の無言の対立に困りはて、虐げられた駄馬のように悄然としているさまは、笑いと同じくらい哀れを誘う。仕事がなくて困っていたのは事実であったので、季満はようよう仏心を出して、
「まあ、お姫はんもこう言わはってることや。おれもそんなにヒマやあらへなんだけどなあ、ええわ、特別に引き受けたる」
などと大威張りに言った。
はたして秣を鼻面に近づけられた馬よろしく、道説は俯けていた顔を上げた。
「よう言うた! うむ、お前ならそう言ってくれるものと確信しておった。――どうだ長恭どの、これでお父君の面目も立とうが」
まさに喜色満面といった顔で、道説はこの仕事の成功をいささかも疑っていないように見える。このあたりは季満の思った通り、かなり単純で、彼はおのれに無いものを持つものは、おのれにできないことを必ずやってのけると頭から信じていたのである。
(なんや、見たこともないくせにえらい自信やな。ひょっとして皮肉ゆうてるんか)
などと、季満が邪推するのも無理からぬことであった。
道説に肩を叩かれた長恭は、「ええ、助かりました」などとあいまいに微笑んでいる。が、その面を季満に振り向けたときには、すでに感情らしいものは吹き消えてしまっていた。
「土師法師、妙……道説さまがかように仰せなら、ひとまずはお前を用いてみようが」そう言う長恭の目が、一見の法師に対する尽きせぬ不信感を物語っている。「失敗は許されぬものと思え。わたしが許しても、大臣の家中が許さぬであろうゆえに。――自身の命もかかるのだ、全身全霊でことに当たれ」
冷たく言った。いかに好意的に受けとろうと試みても、それはとても激励の言葉には聞こえなかった。
(なあんやこいつ、鼻持ちならんなあ。顔がええ分、性格が悪うなったんやろか)
さすがにムッとした季満が、なにか失礼に当たらぬ範囲で言い返してやろうかと言葉を選んでいると、ふいに珠子がいわく、
「お頼みするほうがそれでは、半身半霊がせいぜいでしょうね」
ぎりぎり長恭の耳までとどく程度の、それはまことに絶妙な声量であった。それでいてその小声にもかかわらず、隣の道説がさっと緊張を露わにするほどの毒が、しっかりと配合されていたりする。
「……そういえば妙法先生、そちらのお子はいったいどこから入ってきたのでしょう。異なることです、誰も呼びもしない女子が、こうして我らの密談に膝を合わせるとは」
最後のほうには、冷笑と苦笑と嘲笑を混和したような、ひとの神経を逆なでするのにこれ以上はないとでも言えようほどの、権高な嗤いが加わった。
珠子の白い顔にたちまち血が上る。道説の袖がかわいた音をたてて裂けた。
「まあ、なんて憎たらしいひとなの! わたしは季満どのに――」
「ええ止め、止め!」それまで苦虫をかみ潰したような顔をしていた道説が、裂けて又になった袖を振り回しながら、いよいよ堪えかねたようにわめいた。「長恭どのも珠子どのも、いい加減にされたい!――長恭どの、おれは他ならぬそなたのため、ひいてはお父君のため、お上のためを思えばこそ、呪い師捜しに骨を折ったのだ。気に入らぬのならそう言わっしゃい、もはやおれは指一本動かさぬゆえ!」
破れ屋を吹き飛ばしかねない大声に尾筒丸が飛び起き、長恭は真っ青になり、珠子はいかにも子供っぽく、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。そちらをぎろりと一瞥して、道説つづけていわく、
「珠子どの。ここで会うたは偶然ゆえ、あえて咎め立ていたすものではないが、我らはいま大事を図っておる真っ最中なのだ。黙って聞いておられるのならまだしも、横槍を入れるおつもりなら即刻出て行っていただく。――そもそもやんごとなき身にありながら、供も連れずにかような京の終を一人歩きするなど、識者の声たかき橘家が娘にあるまじき不見識。御父君が聞かれたらなんと嘆かれよう」
厳父がいたずらをした小児を叱ってみせるような怒声に、珠子の目からみるみるうちに涙が溢れ出した。
(……今日はめんどうな客がようけ来よるわ、ほんま)
季満は欠伸を手で隠すと、かたわらの尾筒丸を膝に抱き寄せて溜息をついた。刻一刻と暗くなってゆく部屋のなか、しばし珠子のすすり泣く声だけが重苦しく響く。
ややあって、大男が音を上げたように長大息を吐いた。みたび頭を下げながら、
「……季満や、騒がしくしてすまぬ。この長恭どのもな、今こそお父君の身を案じて尖ってはいるが、本当は性根のよい男なのだ。さきの発言が気に障ったなら詫びるゆえ、この依頼だけは蹴ってくれるまいぞ。頼む」
(ほんまにこいつって男は……)
返すがえすもよほどのお人好しである。話を聞いたかぎりでは、この仕事の依頼の出所は道説ではなく、隣の藤原長恭親子であることに疑いはない。にもかかわらずその仲介をしただけの道説が、佑の代役さがしに奔走し、進んで事態の説明を買って出、無位のものに三顧の礼を取っているのだ。それに比べれば、当事者たるかたわらの青年など、まるで他人事のような態度と言わざるをえない。
依頼されるほうとしてはいささか忿懣もある。が、思うに長恭の態度は不遜ではあるが、単に道説の接しかたが別して誠実に過ぎるだけなのであろう。位あるものが下々に対して取る態度としては、なるほどたしかに、長恭のやりかたはおしなべて「普通」であった。
(要はあれやな、ええ奴なんや、道説ゆう男は)
初めて季満のうちに、なんとはないやる気が湧いて出てきた。もし依頼をしくじっても、きっとこの男が体を張って庇ってくれるであろうし――たぶん喜捨にも快く応じてくれることだろう。
「ええって、おれにまかしとき。――ほうら、たまこちゃんもいつまで泣いとんにゃ。道説はもう怒ってへんえ」
「……たまこちゃん?」
(しもた、口すべった――!)
お守り袋から取り出した斐紙でちんと鼻をかむと、珠子は赤く潤んだ瞳を季満に向けた。そのかたちのよい眉根が訝しげに寄せられている。
「あっ、ええと、あ、道説がそうゆうとりまして、お姫はんの居やはらへんとこで。つい移ってしもて……」
「すっ……!」
向かいの道説が瞠目して腰を浮かせる。とっさの失言を取り繕う言葉が、新たな失言となってしまった。どうやらもう二、三発の拳骨は覚悟しなければならなくなったようであった。
「まあ……たまこちゃん、ですか。それでしたら、面と向かって言ってくだすってもよろしいくらいですわ。あ、そうですわ、それならばわたしも道説さまのことを、「道説さん」とお呼びしてもよろしゅうございましょうか」
「う……こっ……季満……!」
先程までの泣き顔はどこへやら、珠子はたちまち真っ赤にのぼせ上がった。長恭のまるで別人を見やるような猜疑の目を横面に受けて、道説は腰を浮かせたり沈めたりしながら、こちらもやはり真っ赤になっている。
周章狼狽しながらも、道説は季満の虚言を訂正することはしなかった。これも彼一流の人の善さのなせる業か、こんな状況に甘んじているのも、さきほど珠子を泣かせてしまったことに対して、おそらくは小さからぬ罪悪感を抱いていたためであろう。火を噴きそうな顔をしていても、結局、彼は彼らしさから逃れられないようであった。
「あ、たま……お姫はん、もう外も暗おすやろ、お家までお送りしまっさかい」
なるべく道説のほうを見ないようにして、季満は珠子を促して立ち上がった。そろそろ同座人の目鼻立ちの判別がつきづらくなる時刻になりつつある。
「あ、はい、季満どの、よろしくお願いいたします。わたしの命の瀬戸際ですので」
「はあ、瀬戸際って――」
「それではごめんくださりませ、文のお返事、お待ちしております――み、道説さん」
扇を袿の袖にしまうと、珠子は笠で顔を覆いながら「きゃっ」と赤くなった。季満の顔の青さとはまこと対照的であった。
「……これ、季満や、た、たまこちゃんをお送りしたら」薄闇のなかで、道説の白目の勝った瞳が不穏な光をはなつ。「必ずここへ戻ってくるのだぞ。具体的な話もあるゆえな……!」
季満は返事もせずに廊下へ飛び出していった。