Returning arrow III
三月三日 丁丑 未四刻
遠く東市の賑わいを背に、ほうほうの態で西洞院大路を駆けわたる二人の人間がいる。
「いやはや、市ってのァ、あんなに込むのかよ。人混みに酔ってしもうたわ。――ええ腰いてえ」
二人のうちの老いたほうが、伝法にそう言って後ろ手に腰を叩いた。が、言うほど痛そうにも、酔っているようにも見えない。
「……クソじじい、いつまで持たせやがる。ほら、あとはてめえで担げ」
片割れの若い方は、前をゆく老人の背に唾を飛ばしながら、肩に食い込んだ荒縄と格闘している。こころもち落とされたその肩には、振り分けに荷われた瓶が二つ、持ち主の歩調に合わせて揺れていた。
「おれも同じものを担いどろうが。こんなじじいに前を歩かれて、あげくに荷ィ担いでくれろなんぞとよう言えたものだわい。――そら吟師、歩け歩け」
(こいつについてきたのがそもそもの間違いだった……!)
二つ合わせれば、重さは五貫ほどにもなろうか。結び目をほどく作業はちっともはかが行かず、粗い繊維が数条、吟師の爪の中に入るのみであった。
「クソじじい……これは一体なんだ。なんでこんなに重てえ」
吟師は西洞院川を渡りきってしまうと、止めていた息を大きく吐き出した。連日の陽気はもちろん不快なものではなかったのだが、市も川も、こういった晴天の下ではことさらに臭った。前者は有象無象の人いきれが、後者は北の一条からこの七条まで、はるばる流されてきた塵芥が、である。
吟師が呼師について屋敷を出たのは、まったくの偶然にすぎない。彼には彼の用事があったのだが、呼師が「市は初めてでのう」などと心細げにしていたので、つい親切心が鎌首をもたげたのであるが、
(あれは演技だったにちがいない。おれはいいように踊らされている……)
このような仇で返されるとは思ってもみなかった。
「耳を当ててみい」
呼師が立ち止まったので、吟師は瓶を平行に保ちながら言われたとおりにしてみた。冷たい陶の肌の向こうから、さかんになにか細いもので引っ掻くような音がしている。
「……わからねえ。生き物か?」
「おお、活きのいいやつだ。たっぷり入っとる」
「夕餉の菜かね」
「おれは食わぬがね、蜘蛛なんぞ」
呼師のひと言を聞くやいなや、吟師は川へ駆け戻ると、それを勢いよく川面へ投げつけた。好天のために水量が減って、うっすらと汚泥のあらわになった川にそれは落ち、ごぼんと粘着質の音を立てる。
「ああ、ああ、勿体ねえ。ありゃ陸奥にしかおらんでたいそう値が――」
「やかましい! クソッじじい……てめえなんてモン持たせやがる!」
吟師は声をひっくり返してわめいた。輪になって広がる波紋を恐々と見やる間にも、汀の草叢を縫って無数の蜘蛛が殺到してくるような気がする。瓶の触れていた肩を狂ったように手で払い、合間あいまに両手の匂いを嗅ぎ、なにかが這い上ってくるのを振り払うように足をばたつかせるさまは、折しも繁華たけなわたる東市のはずれにあってはたいそう悪目立ちした。
「なんだそりゃあ、新手の走舞か、吟師や」
「…………!」
道行く人々の好奇の目にさらされて、吟師は恥で真っ赤になった。呼師はまこと信じがたいことに、彼を遠巻くの衆人の一人になって無邪気に笑い転げている。
「やあ、お前も多芸だのう、笑かしてくれるわい。――そら、そこな娘さんも遠慮のう笑うてよいぞ」
たまたま近くで遠慮がちに手を叩いていた壺装束に、呼師が老人特有の無遠慮さでからみだした。地面に届かんばかりの虫垂衣を透かし見るように顔を寄せ、「んん、かわゆい女子だのう」などと鼻を伸ばしている。
「はあ、あのう、とても妙味があって、面白うございました」
辺りにいた人々はじき往来に散っていったのだが、その娘だけはまったく取り残されたように、道の隅で所在なくもじもじしているのだった。苧麻の紗の向こうの小顔には、八分のありがたさと二分の迷惑とが見て取れる。
(声をかけられるのを待っていたな)
と吟師は思った。
「連れの無礼は平にお許しください。すっかり耄碌しておりまして、他人とおのれの孫の区別もつかぬのです」
言葉遣いを一転あらためると、呼師へのささやかな復讐もかねて、吟師は娘の望むとおりに声をかけてやった。
「おうおう、おれと喋るときとは全然違うのだのう……」
「無礼ついでに言うのですが……ひょっとしてお困りではないですか?」
娘はそう言われるのを待っていたかのように、まったく素直に驚きの表情を浮かべた。あんまり予想通りの反応だったので、
(この娘、おれを引っかけるために演技しているのではないか)
吟師は条件反射で、つい邪推をたくましくした。
「まあ、どうしましょう。そんな顔をしていましたか」
はたして、娘の弱り顔はいっそう濃くなった。その面立ちも佇まいも、いかにも柔弱といった感じで、こんなところにこんな格好で立っていること自体、なんだかひどく場違いな印象すら受ける。よくよく見れば、とても策の立ちそうな様子には見えない。
痛まぬ腹を探った猜疑心を、吟師はたちまち恥じた。こういうところは呼師の見立て通りの人の善さで、彼の中では邪推の詫びのしるしに、できるだけこの娘の力になってやらねばならないという、義務感めいた考えが浮かびだした。
「私にできることがあれば、力になりますが」
「まあ、これはご親切に。はい……あのう、少しものをお尋ねしたいのですが」
怯える小動物が、えさの乗せられた手のひらに恐るおそる近づくように、壺装束はおずおずと切り出した。
「あのう、季満どのという方のお住まいを探しているのです……お祓いのお仕事をされていて、氏は失念してしまったのですが……」
折も折、ちょうど尋ねようと思っていた者の名前が出てきた。
(季満って、あの季満のことだろうか)
彼の知っている季満と、目の前の身分卑しからぬ娘がどうしても結びつかない。仕事の関係であろうかと、吟師は腹の中で暫時いぶかしんだ。
「……氏は土師ではありませんか? 陰陽法師の真似事をしている、こう、小柄で、女のような顔をした」
「そう、そうでございます! まあ、あの方もたいそう有名ですのねえ。かように袖の摺り合った行きずりの方でさえ、お名前をご存じなのですもの」
とたんに明るくなった娘の声には、皮肉めいたものなど毛ほども感ぜられなかった。どうもとんでもない誤解をしているらしい。
「九条まで足を伸ばしてみたのですが、それらしきお宅は見つかりませんで、弱り切っておりましたところでございます。――季満どののお知り合いの方でございましょうか」
「ええ、まあ。――それでは西京からこちらへお帰りになったところですか。さぞお疲れになったことでしょう」
身につけた卯花いろの袿からかすかに香るのは、白檀であろうか。身なりのよい娘であった。お使いに出されるにしては、少々幼すぎるような気もするのだが。
娘がどこから来たのかはさておき、普段あまり歩くことのないであろう少女の足で、あんな遠くまで行って帰ってきたのだから、見てくれの印象を裏切る程度には根性があるようだ。
吟師の労いに、しかし娘はうろたえたような声を出した。
「あら……西京? ええと、いえ、そんなはずは……」
娘は、首から提げたお守り袋からいびつな紙片を取り出し、しばしにらめっこしたのち、「いいえ、やっぱり東で間違いございません」と薄い胸を張った。
「それは?」
「その季満どのの書付です。なにかあったらここを尋ねよと」
「……ちょっと拝見」
娘の手から紙片を摘み上げて、日の光の下に晒す。しわくちゃになった紙片には、
『左きょう ほり川小じむこう あやめ小じ左 九じょう下る はり小じすぎて左』
吟師は眉根を揉んだ。
(季満のやつ……左と右を間違えて書いたな)
左右の間違いを措くとしても、ひどい文章であった。道を知っている吟師でさえ、読解するのがいささか困難なほどである。これで案内になると思っている季満も季満だったが、こんな書付ひとつで目的地を探そうとした娘も、そうとうぼんやりしていると言わざるを得ない。
「……私もちょうど、季満に用事がありましたので、もしよろしければ――」
「吟師や、今日のところは止めにしとこうや。――なんだかひと雨来そうでな」
それまで黙っていた呼師が、足下に下ろした瓶をつま先で小突きながら、やんわりと吟師の提案を遮った。それはまるで娘がいるのを意に介さないような、無礼な声であった。
言われるまま空を仰いでみても、見晴るかす蒼穹には雲ひとつ見いだせない。
「雨なんか降りようが――」
「いやあ、降るさ。矢も降るかもなあ」
(……そうか、別当が来る日だった。忘れていた)
今日が特別な日であったことを思い出して、吟師ははたと口をつぐんだ。別当いわく、今宵は「巨悪の墜つる吉日」である。あまり遠出をしてはまたぞろ心証を損ねかねない。
「あのう……」
「……すみません、急用ができてしまいまして。簡単な絵図を書いてさしあげましょう。――呼師。矢立、あるか」
「そら。――お前、優しいのう」
季満の書付の裏に筆をすべらせ、できるだけ安全な道のりを絵図にしたためると、吟師はそれに懐から出した小袋を添えて娘に渡した。
「あのう、これは?」
「絵図を書いた代わりに、と言ってはなんですが、季満を尋ねるついでに、それを彼に渡してほしいのです。渡せば向こうはわかりますので」
「ええ……そのくらいなら喜んで」
やや困惑げに請け合うと、娘は袋の中身を警戒したものか、細い手指でそれを揉み出した。
「中身は銀です。それと――」娘がお守り袋に小袋をしまうのを見計らってから、吟師はひとつ咳払いをした。「――明るいうちに用事をお済ませになって、お早くお帰りなさい。暗くなってしまえば、わけても西京は六条以南など特に危ない。――おわかりですか、貴方がこれからゆくところのことですよ」
吟師がふいに、娘に向かって弾指した。娘は笠から下ろした紗をはためかせて「きゃっ」と飛び上がる。
「そこは鬼魅が跳梁し、匪賊の跋扈する、四維八徳の忘れ去られた人外化生の世界です。貴方は見たところお金持ちそうだし、脚が遅そうだし、ちょっと食いでがなさそうだけど、とても食べやすそうな大きさだ。単衣の一枚だって残らず剥ぎ取られて、そのあとは骨の一片だって残らないでしょう」
おどろおどろしい科白に、娘はあわれにも真っ青になってがたがた震えだした。
(よし、懸かりがいい。もう一押し)
「よろしいですか。急いで行って、急いで帰ること。もし向こうで暗くなるようなら、季満に言って泊めてもらうか、一緒についてきてもらいなさい。貴方の命をつなぐ瀬戸際ですよ。よく聞いておいでですか」
「はい、はい、お言いつけのとおりにいたします……」
小さな背を縮こまらせてお辞儀をすると、娘は逃げるように市のほうへ走って行ってしまった。
「……ふうん、ここまでするかね。――あの娘はどこまで行くんだえ」
黙って娘の背を見送った呼師が、ややあってぽつりと呟いた。小袖の中に諸腕を引っ込めて、なにか懐でごそごそしている。
「西京のどん詰まりさ。死人か貧乏人か、さもなきゃならず者しかいねえ」
「まだ日も高かろうがい。白昼堂々追いはぎに遭うこともなかろうしよ、呪にかける必要があったのかの」
「すぐ行って帰ってこれりゃあ、それに超したことはねえよ。ただあの娘ァ……なんていうか、どんくさそうだ。多分いいとこの嬢ちゃんだろうし、絵図を見ながらでも道に迷うかもしれねえ。急がせるに如くはねえのさ」
吟師の言葉こそ、すぐに伝法なものに戻ったのだが、気遣わしげな眼はいまだに、娘の消えていった路の向こうへ向けられていた。
「そら、吟師や。優しいお前にクソじじいが駄賃をやろうじゃあねえか」
なんとなく人を小馬鹿にしたような笑いと共に、呼師が若者に投げてよこしたのは、ひとの懐にあったとは思えぬほどに冷えた、ひとつの大きな桃であった。
「……ちょいと季節はずれじゃねえかい、よく市に売ってたな」
思わず礼を言いかけたものの、またぞろ小馬鹿にされるやもと思いとどまり、吟師はそれだけ言うと桃をかじった。
「そう言やあ、今日は上巳だったかの。このまま鴨川にでも足を伸ばして、祓いごとのひとつもしたいところだがなあ」
この日、三月三日は上巳の節日であった。人々は殿上、地下を問わずみな河へ向かい、身についた穢れを人形に移し込めて、水に流すのがならわしとなっている。
こんな行事がひとつでもあると、正しい作法やより効果的な手順を求めて、陰陽法師への仕事の依頼はとたんに増えた。庶人からの依頼ならまだしも、過去になにかよからぬことをしでかしたものか、こういったお祓いの機会に大枚をはたいて御利益にあやかろうとする、奇特な公卿もちらほらと出てくる。
(季満も今頃は、なにがしかの仕事にありつけているだろう。――余計な心配だっただろうか)
「こんな汚え川に、瓶いっぱいの蜘蛛を流したんじゃあ、御利益なんぞあるわけもねえかのう。せめて意富加牟豆美命によ、今宵の大事成就を願うておこうかい」
桃に歯をたてて咥え、地面に下ろしていた瓶を担ぎ直すと、呼師はふたたび歩き出した。意富加牟豆美命とは桃の謂であり、黄泉平坂において伊邪那岐命に賜った神名のことである。
(そうとも、今宵は『巨悪の墜つる吉日』。それにしても……)
空は依然として雲ひとつ出る気配もなく、往来の激しい七条大路には、土埃がもうもうと立ちこめている。桃のタネを堀川に投げ込もうとして思いとどまり、やむなくそれを飲み下すと、吟師は今し砂煙に隠れんとする、呼師の小柄な背中を追った。
(巨悪って、なんだ?)