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三月三日 丁丑 午三刻
「……チュウや、喉、詰まるえ」
福々しい面の眉根を寄せて、延然はなかば呆れ気味にそう呟いた。
「飢えて、死ぬるくらい、やったら……そっちのほうが、なんぼか、マシどす。ゲホ」
「あほ、ここで死にでもされたら念仏あげるのんは誰や」
「ほうら、仕様のない子ォや」と、小さな子供の食事のめんどうを見るようなかいがいしさで、延然は銚子の水を季満の椀に注いだ。当の季満は口いっぱいに飯を含み、体をよじって咳き込んでいる。
季満の咀嚼音のほかには、東市の喧騒が届くのであろうか、かすかに遠く人声がするのみである。といっても、それも気に障るほどの音ではなく、むしろこの界隈の静けさを強調する一助ともなっていた。
鴻臚館にほど近いこの屋敷で、季満は延然に食事を馳走されていた。
「……あ、茗荷や」
鯉の熱汁の中に好物を見いだして、季満は白木の箸でそれを摘み上げた。
「そこのな、庭で採れたんや。買うてきたモンやのうて悪いけどな」
笑うと、実に人の善さげな皺が目尻に寄った。齢五十ほどの延然であったが、そうしていると一回りほども老けて見える。座っていても季満を見下ろすほどに背が高く、ひょろりと痩せてはいたが、その体に不釣り合いなほど顔が大きい。異形ではあるが、それゆえの愛嬌であるとも言えた。
「仕事……おへんのどすか」
季満がぽつりと呟いた。顔は上げずに、飯に混ぜて炊き込まれた野良豆を箸で退けている。
薑の漬物に手を添えて、今し口に運ぼうとしていた延然の動きが止まった。ふたたび眉根を寄せたその貌には、先刻の呆れにくわえて、ある種の申し訳なさが刷かれている。
「おへん。――あのな、なにも意地悪しとる訳やないんえ。チュウだけやない、食うに困ってるもんはようけおる。こないだは阿坊が来たし、実丸も来た、平法師も来よった――」
「……平法師は大水で流されたやおへんどすか、去年」
「ん、そら一昨年やろ? 流されたんは二条法師や、こないだ枕元に立ったし」
「その二条が平法師どす。いつやったか平氏の某に『勝手に氏を名乗った』言われて、郎党に家潰されて、それから名前変えたんやったろか」
季満も含めて、在所の定かでない陰陽法師たちはみな、親から貰った名前を名乗ることはなかった。
無論、その多くは京の生まれではない。故郷では食べてゆけず、居場所もなく、たつきの道も見いだせぬ、そういった者たちが、なんら信憑性のない「平安京」の噂を信じて洛内に押し寄せていく。
噂は噂である。黄金で葺かれた屋根を夢見た彼らのほとんどは、より貧しい夜盗かなにかに刺されるか、八方手に詰まって羅城門の下で末期を迎えた。生き残るのは、藝あってどこかの屋敷に雇ってもらえる者。弁が立ち、他を騙すこと、掠めること、襲うことに良心のためらいを感じない者。法の網をかいくぐって生きてゆける小狡い者。よそから流れ込んだ悪で、京の治安は日毎に悪くなってゆくのだが、それに比例して、地方に流れる噂が華麗を極めるのはなんとも妙な話であった。
二人はしばらくのあいだ、お互いが見知っている法師の所在について確かめ合っていた。彼らの名前はいずれも至極適当につけられており、ころころと頻繁に変わった。「呪い師」などというものは、たとえどれほど需要があろうとも、なかばは詐欺とほとんど変わりはしない。人を騙して恬として恥じない彼らも、そのたつきの賤しきに本名を名乗る不孝だけは忌避するのである。
いきおい、だれそれがどこそこでああなっただのと話し合っているうちに、二人は次第に口をつぐみがちになっていった。知り合いのうちのほとんどはなんらかの、それも恐らくは二条法師のような理由で名前が変わり――もう半分はすでに鬼籍の者となっていたのである。
季満は無言で、膳に取り残されていた焼大根をつつき出し、延然は板のような両手をすり合わせながら「澆季末世やな。若いモンが食うてゆかれへん、生きてゆかれへん。どこもかしこも真っ暗や」などと呟いた。
「……拙僧にできることゆうたらな、こうやってたまに御飯食べさしてやるくらいや。かんにんえ」
延然の志に偽りはあるまい。もともと仕事をもらいに訪れて断られ、ちょうど食事どきということで馳走になっていたのだが、僧である延然が食べるはずもない鯉が膳に出てきたことからも、あらかじめ季満のような者たちに食べさせてやる用意をしていたことは明らかであった。
「……御馳走はんどした。――澆季ねえ。地べたが暗いんは、お日様の出とらへんからや思うけど」
「なかなか穿ったことゆうやないか、チュウ」延然が興味深げに小首を傾いだ。眉根に寄ったしわが少し緩んでいる。「そうやなあ、地ィの明かならんのは、天の晴れへんからっちゅうことか。まあ一理あるわな、朝廷は確かに晴れてへん」
身にまとう僧衣こそ質素なものだが、延然は東寺の律師であった。律師とは僧官――僧侶のなかの官人であり、五位の者とひとしなみに殿上に伺候できる、法橋上人位という高位を持つ。
殿上とは、また天上の意味をも含む。内裏という名の天に昇り、その内実に接する機会のある延然には、けだし皇風を覆う暗雲こそ目に明かなのであろう。京戸を持たぬ季満ですら、公卿たちの生産性とは無縁の、奢侈に満ちた暮らしの噂くらいは聞き及んでいるのである。
「去年はなんとかお凌ぎやしたようやが……今度ばかりは聖上の御悩も思わしゅうないようや。こんなとこで口に出すのも畏れ多いことやけど、こら近いうち御崩御なり御譲位なり、あそばすかもわからんな。――もっとも、どなたはんが万乗の君におなりでも、すわ地ィの明うなるなんてことはあらへんやろが……」
話すほどに、巨僧の貌は刻々と曇っていった。
今年五十六の宝算をかぞえる今上は、短い期間に二度、篤い病を得ている。去年の秋に時疫をわずらった折は、大比叡の座主である円珍上人の平癒祈祷によって事なきを得ていたが、今年に入ってすぐに再び病み、その後の容態は詳らかになってない。
よい噂が流れないということは、おそらくは延然の言うとおり「思わしゅうない」のであろう。どちらにせよ、雲上のできごとである。季満にはいまひとつピンとこない話ではあった。
「天台密教を悪しゅう言うわけやないけど、こればっかりは人知の及ぶとこやないんやな。お上人は今回も気張らはっとるようやが、たぶん駄目やろ。むろん拙僧ら真言密教がやっても同しや。――天命ゆうやつや」
ひとつ溜息をつくと、延然は懐を探って麻袋を取り出した。「お食べな」と言って季満に手渡したのは、一掴みの干した杏子だった。
「あ、おおきありがとうございます。――甘い」
「……せんだっての羅城門のあれはな、それでちゃらやで」
(……ちょう感心したったらすぐこれや。しっかりしとるなあ、この坊主)
加持祈祷の仕事を斡旋するこの律師を、世間では売僧とののしる人も多かったが、そうして得た私財を残らず悲田院や施薬院に寄進していることを、季満は知っていた。吝で食えぬ強かな僧だが、その性は決して卑しいものではない。
「チュウや、いつやったか話してた、佑ゆう学生はんはどうなんや。なんやソッチの仕事したはるんやろ?」
自らも菓子をかじりつつ、延然は大幣を振る仕草をしてみせた。「チュウ」は延然が季満につけたあだ名で、彼のいわくところでは「雀みたいに細くて、チュウチュウよく鳴くから」なのだそうな。
「学生やからこそ、お足なんか取れへんのどす。あいつもたぶん、そんなに持ってへんやろし」
一応、学生にも菜料などと称して給料が出たが、まさに雀のなみだであった。貴族の子弟であるならまだしも、他人に仕事を頼むほどの余録など残りようがない。
「ついこないだまではな、この斡旋事業にお足出してくらはる偉いお人も、何人か居やはってな。今よりはお互いやり易うなってたんやが、そうゆう有徳のお人はみいんな洛外へ飛ばされてしもた。何々のカミやら何々のスケやら、適当なお役こうむってな、『はい、もう帰ってこんでええよ』とこうや。――澆季やな、ほんま」
延然は結局、ふたたび溜息に落ち着いてしまった。
(澆季え、ほんま。これからどうして乗り切ったらええにゃろ。お足ないし……)
まがりなりにも、延然は殿上人である。息を溜めるだけで済みもしようが、万年貧乏で身寄りもない季満にとっては、冗談ぬきで息の絶えかねない事態であった。この延然の借り屋へたびたび押しかける、というのも気が引けるし、どだい彼が常にここにいるということもない。
(もうなりふり構っとれん、たまこちゃんに頭下げるか……あ、あの大男!)
季満の頭の中にたちまち、菅原道説の仁王然とした肖像が結ばれた。
(あいつや。あいつお人好しやし、泣いて頼めば恵んでくれるかもわからん――)
「そうそう、有徳のお人で思い出した。近々にな、讃岐守さまが帰京されるそうや」
延然の喜色を帯びたひと言が、季満の貌から感情のいろを削ぎ落としていった。彼は言い終わるとすぐ顔を逸らし、「おおい、誰ぞ膳下げてえな!」などと奥に声をかけていたために、この同座人の表情の変化には気付かなかった。
「まだ任期も半端やから、お帰りも一時のことやろけどな。あのお方にもひとかたならん援助をいただいたもんやが……なんやチュウ、けったいな顔して。具合悪いんか」
「……けったいな顔は生まれつきどす。おれ、ああゆう金持ちで学があって、ほどこし好きな貴族はんは大嫌いや。おれらみたいな人間を見下しとる」
そのひと言が彼の癇に障ったのを、季満ははっきりと感じ取った。延然の眉がこころもち聳ゆき、しかしまばたきするひと間にも、それは平らかになった。
「なんや、会うたことでもあるんかいな」
常と変わらぬ平静の声は、なまじ癇声を出されるよりも、よほど延然の心のうちを明らかにした。彼の讃岐守に対する、その並々ならぬ尊敬心を。延然は彼の名誉のために怒り、彼の名誉のために怒りを堪えた。
「おへん。絹のべべ着て、牛車のって、遊び暮らして、貧乏人の血ィ吸うて生きとる。長袖者ゆうんはみいんなそうや。――おれはよう好かん」
激しかけながらも一方で、季満は食事の礼にこんな言葉しか返せない、おのれの貧しい性を呪った。延然はなにか言おうとして口を開いたが、ややあって三度目の溜息をつくにとどまる。
「……拙僧もな、ひとかどの地位をいただいとる長袖者のひとりや。明日も知れんチュウが、食うに困らん拙僧らのことを、憎らしゅう思うのんも無理からんことや。そやかてチュウや、他ならんお前らの為に、勘定もできひんほどの援助をしてくらはった讃岐守さまのことだけは、悪う言わんでほしい。――拙僧は売僧や、死ぬればきっと地獄に落つるやろ。憎むんならな、地獄行きの拙僧を憎んでほしい。なあチュウや、お前らの身上を心底から憂えてくらはったお人のことを、悪うゆうたらバチ当たるえ」
貧しさのゆえに、その貧しさを救わんとした富貴を悪く言ってはいけない、と延然は説いた。長い説諭の果てに、季満はお互いに論争の的を外し合っていることに気付き、急速に頭が冷えていくのを感じた。延然の推察は誤解であった。
「……すんまへん、言い過ぎました。――やあなに、最近は話し相手もおへんで、坊さんの説教が恋しゅうなったんやろな。本心やあらへんよって、かんにんしとくれやす」
季満はもう一度「御馳走はんどした」と言うと、杏子の残りを懐にしまって立ち上がった。
「ぼちぼち去にます。もしかしたら家に仕事きてるかもわからんし」
言い終わってしまってから、皮肉に取られまいかと気を揉んだのだが、季満のささやかな改心に気を良くした延然は笑顔のままだった。
「うん、来てるとええな。――帰りしなに庫裡に寄ってな、お米があるさかいに、そこらのもんにゆうてちょう都合してもろたらええ」
思わず快哉を叫びそうになった。
「そうそう、今日は上巳やったな。いっちょ粢でもこしらえてやな、神さんに手ェのひとつも叩きいな。仕事のほうもあんじょういくかもわからんえ」
坊主に「神様に柏手しろ」と言われるのは初めてだったが、ここでつまらぬ横槍を入れて気でも変わられたら目も当てられないので、季満はとりあえず目の前の坊主に向かって手を叩いてみた。
「神様仏様延然様、おおきありがとうございます。お足ができたらお供え物も奮発しますさかい。ナムアミダボツ」
「あほ、仏僧に向こうてええ加減な経文たれよってからに」そう言う延然の顔は笑ったままであった。「――困ったらな、いつでも来るのんえ。お足以外ならなんでも相談に乗るよって」
(お足以外ときた。ほんまにしっかりしとる)
「ほなら、おやかまっさんどした。――讃岐はんはどうか知らんけどな、坊さんは極楽行けるえ。おれが保証します」
延然の言葉が返ってこないうちに、季満は逃げるように部屋を飛び出していった。