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仁和三年 三月三日 丁丑 巳四刻
大内裏は内裏の西、縁の松原と呼び慣わされる松林の中に、二十個ほどの烏帽子がにょきにょきと林立している。
「――ここへ来たからというて、次にまた来なければならぬ、ということはない。なにか代料を取ることもない。ああ、これは特に気をつけられたい。前に幾度か例があって――」
お辞儀のような格好をした、丈の低い黒松に尻を預けて、菅原道説はよくとおる低い声を張り上げていた。
大男をやや遠巻きにして囲んでいる烏帽子の群、その下の顔はいずれも卅を数えまい。ほとんどは六衛府の衛士であったが、多くを占める麻の衣の中には、陽光をはねかえす練絹の光沢もちらほらとうかがえた。まさか五位とはいわぬにしろ、おそらくは道説のような七位や六位の下官が、興味本位に顔を出しているのだろう。
「――場所はこの松原を使わせて頂いておる。武徳殿を使うてもよいとのお達しがあるにはあるが、もしどなたかにそう言われたとしても、特に固辞するように。これは道説が一存であるが、これを守らずんば魚腸の席に加うることあたわぬ。主催者の我儘とあきらめてもらいたい」
(淑野め、返すがえすもろくでもないことをしてくれたわい)
道説が羅城門の鬼を退治したという噂がたってより、一月と半ほど。もともと数人の同好の士だけで内々にやっていた剣術のつどいには、うわべだけの名声を求めて来るものか、いまだに十、廿の志願者が絶えない。大勢の前で話すことが好きではなく、大人数に効率よくものを教えるこつも知らない道説にとっては、降ってわいた員数増加は迷惑きわまりない災難であった。
「本日は挨拶まで。各々お役目に障らぬ程度に、ほどほどを心がけて努まれよ」慣れぬ微笑を彫りのふかい顔に貼り付けて、道説は早々に話を切り上げにかかった。背後の黒松を後ろ手にしめし、「この妙なかたちをした松、みなは辞儀松などと呼んでおるが、大抵はこれの近くで適当にやっておる。この道説がおらぬこともままあろうが、仲間内で相助け合うてやるもよし。虚空に向こうて太刀を振るっても力はつく。そのあたりは各々の裁量にまかせるが、松を損ずることだけは避けるように。――各々方、なにか質問はあろうか」
「管少尉どの、ひとつお聞きしたいことがある」
声と共に手が上がり、てらてらした絹の長袖が、周囲の烏帽子をかすめてひらめいた。ややあって人垣から押し出されるように、若い男が道説の目の前まで歩いてくる。
「じつを言えば今日この場で、前の鬼退治の腕を見せていただけようと思っておった。残念なことに、本日は挨拶まで、とのことだが」隠そうとしても隠しきれぬ軽蔑の色が、男の貌をつかのまよぎった。「そこもとの腕を信用して集った我らに、せめて剣の極意のひとつなりとご講義ねがえまいか。お話如何によっては、辞儀松を目指す人足もさだめて繁くなろうほどに」
言葉の内容とは裏腹に、男の顔には敬意のかけらも見いだせない。まわりの者より格段に様子の良いところをみれば、まず官人であることは疑いない。絹の狩衣に金柄の細太刀などを吊った態は、ひょっとすると五位以上の殿上人であろうか。
いずれにせよ、彼は武官には見えなかった。
「ご説、ごもっとも。うむ、剣の極意と申されるか」微笑の裏から浮かんできた本物の笑みを抑えきれず、道説はえくぼを隠すようにして傍らの男に顔を向けた。「長恭どの、魚腸の説くところの奥義、必勝の極意をこの方に」
長恭と呼ばれた青年が、道説の含みに薄い唇の端をあげる。ひとつ頷くと、帝の寵姫もかくやという白い麗貌を人垣に向けた。
「お答えしましょう。魚腸剣における必勝の極意とは――常に弓を手放さぬこと、これに尽きます」
高らかな声に、はたして二十数個の口腔がむなしく半開きになる。中天にかからんとする太陽の下で、どこからかカラスの間抜けた声が響いた。
「あの間抜け面ときたら! 金柄どのもざまを見ましたね、妙法先生を虚仮にするからばちが当たったのです」
美貌の青年、藤原長恭がさもおかしげにそう言った。
数日前から雲ひとつない快晴が続いている。近頃では珍しいほどの陽気で、晩春にしてようやく衣内のぬくまる心地よい季節が巡ってきた。早々に魚腸を解散したあと、尻に根が生えてしまったようで、道説は辞儀松にもたれかかったまま長恭と長話に興じていた。
(あの金柄どののような方が、たびたび来てくれればよいのだがなあ)
松葉を透かす、千々に切れた陽光に目を細めながら、道説は肺のしぼむほどに太い溜息をついた。剣術のつどい――魚腸に集まる人間は、少なければ少ないほどいいと彼は思っている。といっても別段、修練の質が下がるからとか、いさかいが増えるから、などといったたいそうな理由はなく、
(めんどうだ。どだい人にものを教えるようにはできていないのだ、おれは)
つまるところはこれであった。
「あのような軟弱者は、木陰で弓弦を鳴らしているのが関の山です。――剣は弓箭に如かず、妙法先生も奥の深いことをおっしゃる。なるほど、敵わぬものを常に念頭に置いておく、その謙譲の心を持って修練に当たらねば、よろず驕りが生まれるのも当然。これは他のどのようなことにも言えますよ。まあ、黄金の太刀を吊っているような輩には、額面通りにしか受け取れぬでしょうがね」
長恭の好都合な解釈にはいつも感心させられる。これもまた特に深遠な意味などなく、道説はごく単純に「剣は弓箭に如かず」を地で行っていた。撃剣よりも飛矢のほうが優れているなどということは、子供でもわかる簡単な理屈である。
前の金柄公卿のような輩は、志願者の中にたいてい一人はいた。ありていにいえば冷やかしである。
武官文官を問わず、武芸において重視されるのは、ふつう「騎」と「射」であり、太刀は護身用、ないしはちょっと重い装飾品くらいにしか認識されていなかった。
剣の先生まがいのことをやっている道説ですら、こと考え方においてはその例に漏れないのだが、常に斬新でめずらしい催しを探している若い公卿たちは、どうもそのように考えないらしい。ちょこちょこと顔を出しては、やっかみ半分に難癖をつけ、溜飲を下げに来た。
道説としては、頼みもしないのに露払いをしてくれるので大歓迎なのだが、十人来れば九人去る、廿人来れば三人残る、といった具合に、結局魚腸はじりじりとその構成員を増やしつつあった。
「妙法先生、今宵は宿直ですか」
太刀を抜いてえいやあと素振りをしていた長恭が、ややあって薄く汗の光る白面を振り向けてきた。
(いまさら言うても詮ないが……面映ゆきかぎりよ、このおれがよりにもよって妙法先生などと)
この呼称にも辟易していた。いくらやめろと言っても長恭だけは聞き入れないのである。いわく「弟子が師を先生と呼び習わすのはけだし自然」なのだそうな。
「……なぜ『魚腸』なのだろうな、なあ、蘭夕郎」
「いきなりなんです、蘭夕郎はおやめ下さいと――」
道説に苦手な呼称があるように、長恭にもそれはあった。夕郎とは彼の役職たる蔵人の謂である。
「なぜ『さかなのはらわた』なのだろうな。それほどに生臭いかね」
「……さて、わたしにはなんとも判じかねます。と言っても、おおかた物珍しい名前をつけてみたかったとか、そのようなところでしょう。それはだれもつけませぬでしょうよ、『はらわた』だなどと」
「魚腸」の名は、道説がつけたものではない。始めた当初は、もっぱら隠語の意味合いで「剣ノ妙法」とか、単に「妙法」と呼んでいたのが、とある人の鶴の一声で「さかなのはらわた」という珍妙な呼称になってしまったのである。
(てっきり「御朝」だとばかり思っておったな。もっとも、おれの剣にさよう雅やかな名など似合おうはずもないが)
「それで、おれが宿直だとどうかするのか」
長恭の細い眉が困惑げに寄り、一拍おいて開いた。どうやら自分で振った話題を忘れていたようである。
「あ、はい。少し相談事が」
「そなたに解決できないことが、おれなどに解決できようかな、籐蔵人どのよ」
欠伸まじりに呻いた。道説の体は徐々に松の根元からずり落ち、ほとんど地べたに寝ころんでいるような態になっている。
歳こそ廿そこそこではあるが、父親が高位であるを以て、藤原長恭は道説よりも位の高い従六位上を授かる身であった。毛色の違いは氏素性だけでなく官職にも及び、内裏は校書殿にあって帝に近侍する、蔵人を任じている。衛門検非違使尉などと比べてどちらが見栄えがするかは、誰の目にも明らかであろう。
そのうえ容姿端麗、詩歌を吟じては達者、舞楽に非凡な才覚をみせ、興ずれば今様まで謡って女どもの熱視線を一身にあつめた。ちなみに長恭の名は、彼の父が息子の麗質をことのほか喜んでつけたもので、唐は北斉の美貌の名将、蘭陵王高長恭に由来する。
腕っ節しか誇れるもののない道説にとっては、はっきり言って完璧人間である。そんな彼が、似つかわしくもない剣術に熱を上げ、「妙法先生」を敬して格下にあらたまることが、道説にはしごく不可解に思えてならない。
「妙法先生には、懇意の陰陽師がおられるとか」
道説の頭の中にたちまち、泰佑の知者然とした肖像が結ばれた。
「まあ、おるが」
「……話が前後して申し訳ありませぬが、わたしの相談事を聞いてもらえましょうや」
握っていた抜身を鞘に納めて、長恭は辞儀松に語りかけるようにして語り出した。
二、三日前、彼の父良世が朝議の果てたころ、太政大臣と左大臣がある話をしているのを耳に挟んだ。
朝議とは、八座の参議、および納言、大臣などの公卿が、大内裏は東の外記庁において日毎に執り行う閣議のことである。長恭の父である藤原良世は、正三位大納言という雲上の位をもって、国政に参与する資格を有していた。
「いわく、太政大臣が最近、立て続けに奇妙な夢をごらんになられるそうで」
夜ごと、枕中に弓弦の音を聞くという。弓鳴りは邪をはらうと謂われており、当初は大臣も吉祥のしるしかなどと楽観していたのだったが、日を追うごとにその音には、風を切るような鋭いものが混じるようになっていく。
それがどうやら矢音であるらしいことに気付いたのが、二、三日前、左大臣に話をした日のことである。
「どうも陰陽寮にことをお諮りになられたようなのですが、よりにもよってただの一人も手を空けられぬとのこと。大臣はそれきり夢解きなどなさるでもなく、あまりお気に留めておられぬご様子で、左大臣にお話をされたときも、なかばは冗談まじりであられたそうです」
話を聞いた左大臣が、せめてもと身につけていたお守りを大臣に渡したところで、良世は図々しく割り込んでこう切り出した。
「太政の君におかれましては、御憂悩ありのご様子。ここはひとつ、それがしめにお任せ下さりませぬか。いやなに、二、三の策もござりますゆえ」
実はそんなものはどこにもなかったのだが、こういった出世の糸口を逃さずに掴まえてきたからこその正三位なのだった。ほどなく良世にも陰陽寮の手を借りられぬことがわかり、はたして蹌踉と家路についた彼のかんばせは、
「真っ青でした。まったく、左大臣におかれては、さだめしご不快であられたことでしょう。父はいつもそれなのです。外では調子のよいことばかり吹聴して、自宅に一歩踏み入ればたちまち、ああどうしたものか、とか、成らねばお咎めぞ、とかわめいてうろうろまごまご。ちっとも学習しないのです。わたしもああはなりたく――」
「……長恭どの、話がずれてきた」
「あ、申し訳も……」
これほどに父親をこきおろしておきながら、つまるところ長恭の相談の要とは、父親の吹いたほらを実現させることであった。
(口ほどにもなく、父御を好いておるようだ。しかし……)
泰佑も、陰陽寮に属することに違いはない。官師ではないにしろ、道説としては安請け合いはできなかった。
「聞くことは聞いてみようが、実を言えば、その懇意の法師も陰陽寮のひとでな。しかとは請け合えぬのだ」
いちど立ち上がって尻を払い、邪魔な太刀を外して立てかけると、道説はふたたび辞儀松にもたれかかって眼をつむった。
「わたしも当たれるかぎりの伝を当たってはみたのですが……正直、八方手詰まりです。どうにも陰陽師という輩は融通が利かない、理屈ばかりこねるし……」
融通が利かない、という意見には、道説も賛成であった。
陰陽師の位はごく低い。七位がせいぜいの下官であるのだが、怪力乱心を語るものの常として、彼らはあまねく長袖者に受けが良かった。その人数の少なさも相まって、近年の僭上のふるまいにはやや眼に余るものがある。
「で、急いだほうがよいのかな。明日あさってにでも――」
「相すみませんが……上巳が約定の日です」
「上……今日ではないか、それは!」
「まことに申し訳も……わたしも話を聞いたのが一昨日で、なにもかも父が――!」
道説は耳を塞いで長恭の繰り言をさえぎった。
(ええ参った。今日いきなり尋ねて、そうそう都合よく引き受けてもらえようか)
「致し方ないが、事情が事情だ、そなたにも来てもらったほうがよかろうな――しかし、それほどの緊急事であるのに、陰陽師どもはなにを考えておるのだ。畏くも太政大臣の御懇請を無下にするとは、まさか多忙など理由にはなるまい」
「ええ、わたしも――」
長恭が何か言いかけて、ふと口をつぐんだ。すばやく道説の傍らに滑りより、だらしなくくつろげていた肩を指で突く。
「なんだ――」
「陽も昇りきらぬうちに昼寝かっ、菅家判官!」
黒松の幹に寄りかかっていた大男の体が、ひとたまりもなく地面に転がった。松林の梢が一斉に傾ぐかのような、耳を聾する大音声が松原をなぎ払っていった。
「やかましいのが来ました……」
長恭がうんざりと耳打ちをする。
土を踏む足音も聞こえぬほどの遠い位置から、大小二つの人影がこちらに向かって歩んでくるのが見える。前の怒声は大きなほうから放たれたもので、傍らの小さなほうは片耳を押さえて苦笑していた。
大きなほう――文室巻雄が大股で道説たちに近づいていく。齢八十に垂んとする老翁は、まったく老いを感じさせない機敏さで、まず長恭の烏帽子頭を平手で張った。
「こざかしや蘭籐め、悪口は儂の聞こえぬところでせい!」
声や眼のよさに加えて、まことおそろしきは地獄耳であった。
鶴のごとくに痩せてはいるが、道説に迫らんとする長身には、往年の筋骨の遺構がいまだに息づいている。高齢から役職を返上したために散位ではあるが、位階は従四位上の高位。やはり道説などとは比べものにならない地位にいる。
「道説、もう終わったのか」
「おおそれよ、これ菅家判官、近頃は老松に尻を預けて太刀を振りおるか」
小さなほう――源定省の苦笑まじりの問いかけに、巻雄の塩辛声が和した。
「あ、いえ、本日は新たな志願――」
「だまらっしゃい。忙しきにかまけて顔を出さなんだら、たちまち怠けおる。若人が悪しき慣よ、主催者たる汝がそれでどうする」
巻雄は「忙しき」と言うが、彼は役職のない「散位」であった。ありていに言ってヒマである。ついでに言えば、彼はつい二日前にも辞儀松を訪なってわめき散らし、彼の言う「若人」たちから盛大に煙たがられていた。
「まあ巻雄どの、かように道説も長恭も反省しております。続きは明日以降、剣においてなされればよろしいではありませぬか。けだし若人というものは、言葉で説諭されても反感ばかりを生ずるものにございますれば」
そう言って取りなす定省は、しかし長恭と同世代、立派な「若人」であった。
「いかんいかん。甘うするとすぐつけ上がるも若人が慣ぞ、ここで厳しゅうしてやるのがこやつらの――」
「ご説、逐一ごもっとも。わたくしも、これなる二人も、いまだ巻雄どののご指導が不可欠にございます。我ら三人、師にはいささかの含みも持ちとうはありませぬゆえ、さよう申し上げました。――あ、お言葉をお止めいたしまして失礼を。さ、どうぞ続きを」
「うむ、まあ、よいわえ……」
はたして、定省の穏和なうりざね顔に気を呑まれた巻雄は、皺顔をゆるめて言葉を濁した。こと言葉においては、定省のほうが一枚も二枚も上手であった。
(鮮やかなものだ。巻雄さまのごとき一刻者を、弁舌のみでああも軽くあしらうとは)
叱られて縮こまったふりをしながら、道説は胸中で唸っていた。傍らを見やれば、長恭のうつむいた横顔は、小さく舌を突きだしている。
「道説、長恭、魚腸は盛況のようだな」
定省が大男を振り仰いでにっと笑った。
「は、いえ、大概は一瞥するのみにて――」
「いまだ十名を数える程度ではございますが」道説をさえぎって、長恭が水を得たようにまくしたてた。「それも真に気骨ある士を選りすぐるがゆえ。みな妙法先生に心酔し、文弱を憂う好漢どもにて、一朝ことあらばただちに――」
「あ、長恭どのハエが」
道説のたくましい腕が振り上げられ、長恭の華奢な背に叩き下ろされた。彼の頭ではほかに、長恭の長広舌を止める手立ては思いつかなかった。
(よけいなことをぺらぺら喋りおって……!)
悶絶する長恭の抗議の視線に、「黙っておれ」と無言の一瞥を返す。
二、三の知人となんとなく始めた剣術のつどいを、周囲の人々がよってたかって大事にしようとするのを、道説はかねてから苦々しく思っていた。魚腸の名も、武徳殿の使用御免も、彼にとっては重荷以外の何物でもなかったのだが、
(かと言うて、高貴な方々のお骨折りを無下にするわけにもゆかぬ……頭の痛いことだ)
「おお、十人か。まだまだ少ないが、以前の四人に比ぶれば躍進と言うてもよいな」
巻雄は我がことのように喜んでいる。日々時間を持て余しているこの老人にとってみれば、剣術のつどいなどまさに格好のヒマつぶしのタネであろう。
「巻雄どのもお忙しゅうなられますな、ご自慢の御佩刀も面目を躍如いたしましょう」
定省が朗らかに笑いながら、まこと無責任に調子を合わせた。真偽のほどは定かではないが、なんでも巻雄の佩刀はかの蝦夷の梟雄、阿弖流為の愛用した太刀であるのだそうな。――もっとも、そのように吹聴しているのは当の持ち主だけなのだが。
「うむ、ゆくゆくは衛士どもを片端からひっぱってきてだな、弓馬に剣に、宮仕えの心得なども教えてやれればと思うておるのよ。――かつては何殿の甍に妖狐を追い、その忠勇比類なきを謳われたこの儂だ。齢七十八を数え、お役目を返上したとは申せ、まだまだ後進に申し送らねばならぬことは山とあるでな」
ちょっと持ち上げると、たいていはこんな調子であった。かつて彼が左近衛少将であったとき、東宮の屋根に飛び上がり、御殿を尻に敷いた不敬の狐を斬り殺したという話は、ひろく人口に膾炙している。――もっとも、それも廿年以上も前のことなのだが。
「……妙法先生、付き合ってはおれませぬ。参りましょう」
道説のほうへ頭を差し向け、長恭は聞こえよがしに囁いた。その白い顔はあからさまな険に翳っている。彼と巻雄の不仲もまた、道説の頭痛のタネのひとつであった。
「蘭籐め、聞こえておらぬと――」
「巻雄さま! 長恭どのには道説がよう言うて聞かせまする。ここはなにとぞお平らかに――」
道説のつたない弁解をさえぎって、長恭冷淡にいわく、
「我らは小用につき、これにて失礼させていただく。――巻雄さま、続きは老松同士、そこな辞儀松とでもごゆるりとなされませ」
はたして、巻雄の皺だらけの額にツノが飛び出た。
「長恭どの! いや巻雄さま、若人が妄言にございます」
「道説、行け、ここはわたしがお執り成ししよう」定省がすばやく、抜き放たれようとしていた巻雄の太刀の柄頭を押さえつける。「……お前とはおちおち話もできぬ、巡り合わせが悪いのかの」
「ええ退け、定省! 僭越ぞ! ――小童め、今日という今日は許さぬ!」
「はやく行かぬか、道説。――巻雄どの、豎子が戯れかかっただけにござりますぞ、度量をお見せなされませ」
暴れる老人をいなし、押さえつける挙作が、妙に板についているように見える。どうやら巻雄の癇癪には慣れているようである。
「失礼を……」道説はきっちり二回、もみ合う定省たちへ頭を下げると、傍らでふてくされていた長恭の首根っこを掴んで引きずり出した。「そなたのおかげで気苦労ばかり絶えぬ! あいだに立つおれの身にもなってほしい!」
「申し訳ありません……道説さま」
(この青年は……やはり理解できぬ……)
されるがままになりながら、美貌の青年が熱視線を送ってくる。それを痛いほど頬に感じながら、道説は朱雀門を目指して小走りに駆け出した。
大男の長大息に、遠ざかりつつある巻雄の癇声が和した。