Hello Miyako V
一月十五日 戊子 午三刻
「泰佑と申す方がお見えですが」
「入って頂け」
下僕は肩をすぼめて、もと来た道を戻っていった。その背の見えなくなってから、ふと自分の声音に当たり散らすような響きを見出した気がして、道説は仏頂面をさらに深くした。
手には分厚い文が広げられている。
「佑も食べるやろか、もいっこ焼こか」
道説の向かいに、火桶を抱えるようにして座っていた季満が、水干の懐から丸餅をひとつ取り出した。
「……火桶は貸してやるから、家へ帰って食え。季満」
「あかんあかん、ちゃあんと読み終わるんを見届けた上で、お返事もろてこい言われてんにゃ。そうはいかんえ」
小袴で餅をごしごしと拭き、火桶の上の網に乗せる。見届ける云々と言っても、季満の視線は最前から焼き餅に釘付けだった。
立烏帽子の頭をうつむけて、道説はふかい溜息をついた。
(かような成り行きになろうとは)
弱りきった視線を膝の上に落とす。みっしりと書き込まれた細文字ははぜる火花のごとく、膝の上に乗っている紙の束は、季満の餅をふくらませている火桶に劣らぬほどに熱い。道説は文字通り、珠子の文を持てあましていた。
「この寒いにお熱うてうらやましいこっちゃなあ、道説。なんて書いてあんにゃ?」
殺人的な一瞥とともに、道説は季満に読んでいた文を突きつけた。
「お、おい、ええのんか、無関係のおれなんかに……」
「無関係が聞いてあきれるわい、これを持ってきたのはどこのどいつだ」
「おおこわ……ああっ、おれの餅ォ!」
道説は文と引き替えに、火桶の上でふくらんでいた餅をさらっていった。
「なんなんや……おれは巻き込まれただけやで……もいっこ焼こ」
そっぽうを向いて餅を食らう道説を尻目に、季満は手渡された文に眼を落とした。薄い斐紙にしたためられたそれは、ざっと十枚ほどはあろうか。
流麗な筆致で、まるでなにかの文様のように細く小さく隙間なく書き込まれており、なるほどこれをすべて口に出したとしたら、さぞや大変な内容になるだろう。渡された方が面食らうのもうなずける。
『――白昼の太陽も夜ごとの月もさだかには認められず、眼をつむっても見開いていても、見えるのは道説さまのお顔だけ。この苦しみだけは神仏も頼みにはなりません。経を誦しようにも声が詰まって口には出せず、草木を慰みにしようとも涙で眼は見えず、貴方さまに見捨てられたこの身を儚んで、時雨る袖をただただ絞るだけの日々。闇を照らす炎をうしなった蝶の、その胸を焦がす燃え残った冷たい青い炭に、かくも苦しめられましょうとは。貴方さまの指にはじかれた蝶は、彼岸の汀にたゆとうて、救いの一枝の浮かべられるのを待って、ただ震えているのみでございます。永き三冬の底で、陽をおおう雲の切れるのを待つ枯椿を、どうか哀れと思し召し下さいませ。なにとぞいま一度だけ、珠子に貴方さまのお顔をお見せ下さいませ。貴方さまがひと言、そうせよと仰ってくれたなら、珠子は貴方さまのお気に染まぬところを変える為の、どのような努力もいといません。貴方さまにひと言、そうせよと言われたなら、珠子はたとえ鳳であろうと龍であろうと、道説さまの御意に叶うどのような姿にでも変じましょう――』
最初から最後までこんな調子である。
「こ、この子、ほんまに十四なんか……?」
「…………橘広相さまの御息女だ、才媛ぞ。歌ひとつ作れぬおれごとき無学は言うに及ばず、そのあたりの地下女風情などと、ゆめひとしなみに考えぬことだ」
「橘広相って、あの文章博士の橘かいな」
直接国政に携わる参議であり、ほかに左大弁、勘解由長官を兼ねる橘広相は、京ではつとに名高い碩学であった。位階も殿上人たる従四位上で、朝廷では中納言に次ぐ重職にある。正七位上の道説などでは及びもつかない、文字通り身分は天と地ほどの差があった。
「ほならお前、出世する絶好の機会やないか。このたまこちゃんとよろしゅうやって、四位様に後ろ盾になってもろたらええにゃわ」
「出世する」のくだりから、道説はきつい軽蔑の視線を季満に送っている。
「位と契れとぬかすか、季満」
「いや……そやかて、あんなに可愛らしいのんに勿体ないやんか。なんでつれなくすんにゃ」
「嫌いだからだ」
「……お前、嘘つくのへったくそやなあ。はっきり顔に書いてんで」
季満の脚にはさんだ火桶が、ぱちぱちと拍手のような音をたてた。あたかも主人の愚直を指摘した、季満の言をそうして肯定しているかのように。
「……嫌いなはずがない。どうして嫌える、あの人にはまだ一度しか会うておらぬのだぞ。嫌いになるなどと、好きになるのと同じくらい、それは難しいことだ」
道説はあっさり折れた。が、軽蔑の色こそ失せても、つがえられた鏃のような視線は力を失ってはいない。両者ともそれきり、その場に相応しい言葉も浮かんでは来ず、餅が焦げるのにも取り合わずに睨み合っていた。
「泰佑どの、参りましたが」
下僕の声に、二人は同時に視線を切った。
「道説さま、お取り込み中でしたら、日を改めますが」
下僕になにごとか言いつけて下がらせると、佑は折り目ただしくそう言った。
貌の起伏に乏しい、細目がちな彼の容色。取り立てて特筆すべき徴のない、佑の面立ちは良くも悪くも凡庸なものである。が、美形というわけではないにしろ、なにをするでもなくただ立っているだけでも、その姿には不思議な華があった。まるで何年も前からそこに植わっていた樹木のような、いつどこにいても不自然や不快を感じさせない、天性の存在感とでも言えようか。季満のように垂首に着崩さない、かっちりとした縹色の水干に、その色のよく映える白い小袴をつけている。
動もすると冷たい人間に映る彼の、その人柄の良さに満ちた穏和な声を聞くにつけ、季満はいつも、
(見たことあらへんけど、帝の侍従って、きっとこんなふうなんやろな)
などと思ってしまうのだった。
「いよう、佑。むさくろしいとこやけど辛抱してな」
「やかましい、誰の家だと思っている。――佑どの、ご足労をかける、よういらした。ま、ま、座られよ」
道説は立ち上がって中腰になると、下にも置かぬ丁重な口で円座をすすめた。無位の者と対するにしては、その物腰はばかに丁寧で、すっかり恐縮した佑としばしのあいだ、彼は円座をめぐってぺこぺこと頭を下げ合っていた。
「へえへえ、結構なおもてなしどすなあ。おれは床に直座りやゆうのになあ、尻が寒うてかなんわ」
「うるさい、寒いのならその火桶のうえに座っておれ」
季満の茶々はすげなく一蹴された。佑は道説のすすめにようやく折れ、やや居心地悪げに円座のうえであぐらをかいた。
「季満がいるとは思いませんでしたが……その後、これはお役に立ちましたでしょうか」
「うむ、まあ、なんだ」板の間に放られた紙の束に視線をおよがせて、道説は言葉を濁した。「それより佑どの、羅城門の件だ」
「なんの話や?」
道説が言葉を切って季満を睨まえた。
「な、なんや」
「……そら、どこかの三流呪い師があと少しで仕留めそこねたとかいう、あの鬼の話だ」
「…………」
(なんちゅう陰湿な……佑から話聞いとったんか)
あの深更の闘いの顛末を、道説はとうに佑から聞いていたのだった。佑は庭に目を向けて、烏帽子の中に手をいれて頭を掻いている。
「佑、なあんのお話やろなあ。おれも囓ったんや、聞く権利あるよなあ」
「……季満、外してほしい。そもそもお前には関係のない話だったんだ。聞かせたくないことなんだ」
きっぱりとした拒絶の言葉はしかし、言おうようのない謝罪の藍で染め抜かれていた。いったいに彼はこんなふうに、自分の伝えたいことと聞き手に与える感情を、切り離して操ることができた。ある種の詐術と言っていい。彼の性は誠実ではあったが、道説のような人間とは違い、つねに実の前に誠の来ることのない、変種の誠実なのであった。
「佑どの、とくに不都合がおありでないのなら、おれはこれにも協力を仰ごうと思うておったのだが」
季満を指さして、道説は困った顔をした。この男の困った顔というのは実のところ、怒っている顔とたいして変わらなかったりする。仁王が「阿」と言っているのと「吽」と言っているのとで、その面にたいした違いがないように。
「痩せても枯れても貧しておっても、これも呪い師のはしくれ。相手が鬼なら一応まがりなりにも専門であろう。万が一にも有益な話が聞けるやもしれぬ」
「……おっそろしいカオしてなにほざいとんにゃ、この生不動。誰がはしくれや」
「あ、わかりました。わかりましたからお平らに、道説さま」
「吽」から「阿」へと変わりつつあった道説を、佑はそう言っていさめた。
「……まあ、いい。しかし生不動などと……」
「お不動はんをお不動はんゆうてなにが悪いんや。羅城門の楼上にお前みたいなのが住もうとったら、そもそも鬼なんか出やへんにゃわ」
「季満! 道説さまも抑えて!」
道説が猛然と腰を浮かせ、季満は板の間を這ってきゃっきゃと逃げ回った。まさに主客転倒で、屋敷に招じ入れられて早々、佑は二人のあいだに立って仲裁をするはめになった。
「まったく……何事です、道説さま。せんにも言いましたが、お取り込み中なれば日を改めます」
道説は巨体を縮こまらせて腰を下ろした。「申し訳ない、お恥ずかしい」としょげる。
「季満、おれは道説さまに話があってここに来た。道説さまがお前にも聞かせろと言われるなら蔑するつもりもないけれど、うるさくするようなら外に出てやってもらうぞ」
季満は火桶の傍らまで這ってくると、口をとがらせてそっぽうを向いた。「なんや佑まで、ただの冗談やろ……」とすねる。
佑は一度せき払いをすると、道説と季満のあいだの空間に向かって軽く頭を下げ、それをしおに本題を切りだした。
「羅城門の件ですが、道説さまの言われるとおり、あれは死んでからかなり時間の経った……それも別々の死体を切ってつなげたものでした。外法です。おぞましい所行ですが」
「そうか。いや、生きておらぬとは思っていた」左耳に手をやり、囲炉裏の熾に目を落としながら、道説は呟いた。耳垂を千切られていびつになった耳が、武骨な指のあいだに見え隠れしている。「斬ってもほとんど血が出なんだ、死身が動こうとは到底信じられぬが」
「人為的に死体を切り刻んでいることから、いずれにせよなんらかの呪によるものと思われます。なぜ羅城門なのかはちょっと見当は……」言葉を濁したあと、佑の貌は官僚のそれへと変化した。「このことはすでに四部へ報告してありますので、今後の対策は陰陽寮でいたします。検非違使庁は今後とも、構えて動かれぬように、とのことです」
(高札に使庁の名を出したはまずかったか……)
「佑、こいつ鬼退治したゆうて、高札立てよってん。おかげで延然坊主がお足くれへなんだわ」
道説が、あとでこっそり高札を始末しに行こうと思った矢先、それを見透かしたように季満が言いつのった。言い終わってから大男の渋面にむかって舌を出す。
「あ、それは……お名前など書かれてはおられぬでしょうか」
「いや、名前は書いてない……と思うのだが、相すまぬ、実はおれも見てはいないのだ。あとで人を遣って始末させる」
「わかりました。あ、いや、わたしが帰りに様子を見て参りましょう。大事なかろうとは思いますが、呪を仕掛けた者がそれを見て、よからぬことを企てるやもしれませんので」
「お任せする。うむ、おれはどうにもこういう話には疎くてな、あの一件のあと、佑どのが来てくれたのは幸いであった。おれと淑野だけであったらそのあたりに埋けてしまっていた」
あの日の明けた朝、佑は羅城門前で道説たちが放置していった亡骸を見つけている。死体に刺さった征矢の矢柄に道説の名を見てとり、建春門は左衛門府の仗舎へ詰めていた道説に声をかけたのが、二人のなれそめになった。
「いえ、元はといえばわたしの失態です。あの化物を洛中に逃がしたとあっては、どんな二次的な事件の火種になったやもしれません。わたしも頭も、こたびの一件では痛感しております。畢竟、肉体の力に勝る術などないのだと。――菅原道説さま、陰陽寮とすべての洛人に成り代わりまして、泰佑がお礼申し上げます」
佑は居住まいを正すと、烏帽子をふかぶかと傾けた。道説は円座のうえで飛び上がると、佑の烏帽子に押さえつけられたかのように、慌てて頭を下げ返した。
「そのようなことをなさる、止められよ! ……や、これは面映ゆい、戯れ言もたいがいになされよ。無学の徒を持ち上げるものではない」
盛大に照れる道説。彼がなぜ無位の佑に敬意を払うのか、季満はなんとなく合点がいったような気がした。要するに、知識人ふうの、頭のよさそうな人間に彼は弱いのだろう。見ている限り、季満はそのように見られていないことは明かであったが。
「お、これ季満、なにか心当たりはないのか。死体が動くのだぞ、なにかあろうが」
照れ隠しのつもりか、道説は季満に話を振ってきた。
「なんもあらへんわ。優等生にわからへんもん、落第生のおれにわかるわけあらへん」
「ん、落第生?」
「あ、お話ししていませんでしたが」ようよう頭を上げた佑が、季満のほうを見やって苦笑した。「この季満は、わたしと同じ学生でした。陰陽寮を出て行って二年ほどになりますが」
道説の面にふたたび「吽」のいろが兆した。
「へえへえ、そのように見えませいで悪うございました。どうせおれは木っ端法師どす、佑はんとは違おすさかい」
焦げた餅を囲炉裏に放ると、新しい餅を火桶に乗せながら、季満は捨て鉢な声をあげた。季満は職業柄、自分は見てくれでだいぶ損をしていると考えていた。仕事の内容ではなく、見た目が頼りないという理由で、門前払いを食うこともままあるのだ。
「あ、これ、怒るな、季満。おれは褒めようと思うたのだ」
「褒めてもろても腹はくちくならへんわ。あ、そうや、道説お酒あらへん? お前のお世辞よりそっちのほうがなんぼかええわ」
「……あるわけなかろう。あってもだれがお前になど呑ませるものか」
道説がムッとした口調でやり返した。さらに応酬しようとした季満の言葉をさえぎって、佑が大きく二度、柏手を打つように手を鳴らした。
「い、いかがした、佑どの」
首をすくめる道説に、佑は黙って廊下を指し示す。さきほど佑の下がらせた下僕が、瓶子と素焼きの杯をのせた折敷を持ってやって来るところだった。
「……お礼を兼ねて、お土産に酒甕を持ってきたのですが」あきれたような微苦笑をうかべて、佑は道説を見る。季満を見る。「道説さまは先客の方と、ご歓談に夢中であられる様子。このうえはわたしひとり濡れ縁をお借りして、雪見酒としゃれこみましょうかな」
季満がごくりと喉を鳴らした。
「ほ、ほんまに呑めるんか。おれ、冗談でゆうたのに……」
「あっ……佑どの! お志はありがたいが」穴の空くほどに瓶子を見詰めていた道説が、ややあって我に返ったようにわめいた。「こたびの騒動は命じられたことではないとはいえ、道説が検非違使尉として成したること。ここで陰陽寮から酒など貰うては、賄のそしりを免れぬ。このような手回しは無用に願いたい」
検非違使佐の干柿のような顔が、道説の脳裏に浮かんだ。職務上不可欠な京識とのつきあいにさえ、彼はくどくどと文句をたれるのである。この件が知れたら又候なにを言われるかわかったものではなかった。
「なに堅いことゆうてんにゃ、もろとけもろとけ。佑はええ奴やなあ」
下僕が床に折敷を置く前に、季満は瓶子に手を伸ばしていた。もはや自分のものとしてなんの疑いも持っていない様子である。
「失礼ですが、道説さまがそう言われると思って、ご家中の方にお渡ししました。陰陽寮からの付届け、という名目が不都合であられるのなら、それでは一洛人からの寸志としてお納め下さいますよう」
「こら、季満! ――ご芳志、痛み入る。しかし佑どの、甕酒などさだめし値も張ろう。学生の貧しい懐を食い破ったとあっては、碩学を以て鳴る菅家が名折れ。だが、躾の行き届かぬ愚僕がぬけぬけと受け取ったものを、突き返すなどは非礼の上塗りにもなる。お恥ずかしきかぎりだが、ではせめて酒の代を立て替えるくらいのことは、させていただけような」
季満の手をひっぱたくと、道説は背筋を伸ばして四角四面にそう言った。円座のうえの巨体が石の柱にでも変じたかのようで、一度こうなってしまえばもうこの男が折れることはない。鑿を当てればきっと石片が散ることだろう。
「いった……なんやごてくさぬかしよって、なんで人の好意を素直に受けとれへんにゃ」
「……頭の言われるとおりのお人ですね、硬骨の士だ」妙に満足げにひとつ頷くと、佑は折敷のうえの杯に瓶子を傾けた。庭の残雪を映し込んだような、雪白の液体が満ちる杯は二つ。「これを用意したのはわたしではなく、陰陽頭弓削是雄です。非礼と言われるのなら、殿上人の懐具合を、七位の地下人風情が窺うということにまさる非礼がありましょうや」
はたして道説はぐっと詰まった。熟練の石工が石を切るための絶好の急所に通じているように、道説のような男の、どこを押してどこを引っ張れば意のままに動くか、佑は熟知しているのだった。
「道説さま、季満の言うとおりです」佑は間髪おかずに言葉を和らげた。瓶子を持ち上げて振ってみせる。「これに入っているのは純粋な好意です。思うさま呑んで喜んで下されば、わたしも面目が立ちます。頭もまた喜びましょう。それこそが一番礼に適ったやりかたというものですよ」
「佑、ええことゆうた! ほならおれもご相伴に……」
季満がそろそろと手を伸ばした杯を、道説がすばやく攫っていった。
「……思い違いをしておったようだ。佑どの、杯を取られよ」正座を崩してあぐらをかくと、道説はいかにも人好きのする、開けっ広げな笑顔を浮かべた。「贈り物ひとつ素直に受け取れぬ愚かな武弁に、今日はひとつゆっくりと時間をかけて、ましな頭の使い方のひとつなりと教えていただこう。――もしよろしければ、今宵は泊まっていって頂けまいか」
「喜んで、道説さま」残った杯を取って目の前でかるく上げると、佑は最前から物欲しげにしていた季満にそれを手渡した。「季満にもお裾分けをしてあげて下さい、滅多に酒など口にできない貧乏人です」
貧乏人よばわりされても、季満はいささかも気を害する気配がなかった。杯の中に自分の顔をうつして、お預けを食った犬のようにそわそわしている。道説は小さく溜息をついた。
「……これ、季満。あの破れ屋では寒かろうが。お前も泊まってゆくか」
「……ええんか?」
「酔いつぶれたお前を担いでゆくよりは、泊めたほうが楽だ。文は明日書くから、今日はゆっくりしてゆけ。――佑どの、いま杯を用意させる」
「あ、いえ、わたしは結構です。酒はあまり……」
「なんや、呑めへんのんか。――甘い! ほんまに酒なんか、これ!」
季満はにこにこしながら、いかにも勿体なさそうに杯をついばんでいる。
「それが本当の酒らしいよ。よかったな季満、おれの分も呑んでいいよ」
「佑どのは呑めなんだか、それは気の利かぬ……申し出であった……甘い」
口では申し訳なさそうにしていても、道説もまた杯を傾けるのに忙しい。佑は膝を崩して斜に構えると、薄い笑みを浮かべながら庭を眺めていた。
ときおり思い出し笑いのように、その微笑は大きくなってはじき絶える。彼の表情からなにかを読むことのできる者は、部屋の中にはいなかった。大柄と小柄は甜酒に酔い、残るひとりは飽かず残雪を眺めながら、彼にしかわからない某かに酔い、忍びやかに笑っている。
「ほんまに今日はなんの日やろ。餅もある、酒もある。幸せやなあ、正月みたいやなあ!」
真実幸せそうな季満の声が、佑の背を押した。