Hello Miyako IV
一月九日 癸未 戌四刻
「なぜ素直に失敗したと言えぬのだ、吟師。別当の心証もさだめし悪しかろうぞ」
「てめえの仕事はちゃんとやったって言ってるだろう」
吟師と呼ばれた青年が中っ腹になって言い返した。「いちいちついてくるんじゃねえ、クソじじい」と言いながら、簀子縁に腰をおろす。
(よりにもよってあんな時間にうろつくとは、邪魔が入りさえしなければ……)
吟師の視線は未練がましく羅城門の方角へ向かう。彼はほかの四人の仲間と共に、四条は錦小路に面した屋敷に住まっていた。
あの日、五人に大事をはかった冠男――別当は、吟師たちを野放しにするつもりはなかったらしく、大袈裟とも思えるほどの見張りを餞別に、左京のとある屋敷に彼らを引率したのだった。気味のわるいくらいに行き届いた屋敷で、生活の質はすべて保証され、無口な年増女どもがなにくれとなく世話を焼いてくれる。が、別して夜間の自由は制限された。
「……吟師、呑むか」
「失せろ」
皆から呼師と呼ばれている、白髪初老の男が、最前からなにかしら用事を見つけては話しかけてくる。いいかげん耐え難くなって放った言葉は、吟師自身も驚くほどの剣呑な響きをともなった。はたして呼師は黙って去っていく。
吟師はここ二日ほどのあいだ、眠っていなかった。
はやく皆に、あの男に自分の能力を認めさせなければ、という思いが、吟師には特に強かった。呼師には再三にわたってそれを指摘されている。若者は熱血を抑えよ、行動する前に考えつくせ。老人の繰り言も、彼にとってはまったく余計なお世話だった。
(頼まれもしないのに勝手に代表を気取って、年寄りは仕切りたがりだから困る。おまけにひとの名前まで勝手に……)
名前を隠す必要がある、と提案したのは呼師だった。彼は自分たちの上司となる冠男を別当と称し、自らをふくむ五人に、それぞれ呼師、言師、歌師、哭師、吟師と便宜上の名前をつけており、皆もとくに異論をはさんでいない。が、思えば彼に命名をまかせてしまった時点で、すでに主導権を握られていたのだろう。別当が決めるでもなく、誰が言うでもなく、最年長の呼師はごく自然に皆の意見をまとめる代表となっていた。
「吟師、ほれ、呑め」
舌打ちして首だけ振り向けると、ちょうど吟師の背後に呼師が座るところだった。手には瓶子と須恵物の杯がふたつ。
「じじいは及びじゃなくとも、こいつは歓迎だろうが。そら」
吟師は黙って瓶子をふんだくると、中身を直接あおった。ややあって激しく咽せ、それを眺めていた呼師は、あらかじめそれがわかっていたかのように、しゃがれた声で笑った。
「それは本物の酒ぞ、飲み慣れぬ喉にそうやすやすと入ってゆくものか」
呼師は瓶子を奪い返すと、あらためて二つの杯に酒を満たした。白木の簀子と酒の白が、夜気に浮かびあがってよく映える。
「……この寒中に、風雅なものだのう」
呼師の言葉に、とくに目立った感情はこもっていない。が、吟師はおのれの訝りを看破されたような気がして、うそ寒い心持ちになった。
簀子縁の前にひろがる庭には築地塀を背景に、立ち枯れたように花を散らした梅にまじって寒椿が植わっており、根本に置かれた岩の足下には、これまた寒咲きの牡丹が淡紅色の顔をのぞかせている。
屋敷の広さといい、地下人風情にはおいそれと真似できないような贅沢である。自分が住むわけでもない屋敷にこれほどの金をかけられる、というのは、とても尋常のことではない。
「なんでおれにつきまとう。ほかの連中は好き勝手にやってるじゃねえか」
呼師が向けた杯を手に取り、吟師はおそるおそる口をつけた。
別当の「五人が一つの生き物のように」という言葉は、初日を除いて守られることはなかった。吟師のしくじりに危機感を抱いたものか、めいめい好き勝手に飲み食いしたあとは、独断独力で策を練っている。
「才能というものはな、ぜんぶ外側に向いてなけりゃならねえのよ。お前さんは若いから、それがどうもわかっておらぬ。お前さんの口に出したことのうち、半分はお前さん自身を追い詰めておる。おれにはそれがもったいなく思えてなあ」
「繰り言もたいがいにしろ、じじい。要はおれもてめえも官人になれりゃあ済む話だろうが」
「……やっぱりお前さん、かたぎだな。わざと悪しざまに装っておるだろう。せんから思っておったが、考え方が甘っちょろい」
かん、と簀子が鳴った。吟師の叩きつけた杯が四つに割れ、ちょうど酒のおかわりを持って部屋にはいってきた女が、阻まれたように立ち止まる。
「酒は置いてな、あたらしい杯を持ってきておくれ。これも片付けてもらおうかね」
呼師がいかにも人畜無害そうな、穏やかな声をあげた。
かがみこんで割れた杯を拾い集めながら、女が咎めるような視線をついと吟師に向けた。吟師は反射的に眼を逸らし、次の瞬間には噛みつかんばかりに睨まえる。こんな反射的な威嚇は実のところ、杯を割ってしまったことへの恥を裏返したものに過ぎない。
忿懣を怯えの紗に隠して女が立ち上がるころには、なるほど呼師の素っ破ぬいたとおりの、装った悪し気のすっかり落ちた、人の善さそうな青年がしゅんとしているのだった。
女が足早に部屋を去っていくまで、呼師はその様子を興味深げに眺めていた。自分の杯に酒を注ぎ、それを吟師に手渡すと、
「別当はのう、本当のところ、五人も必要としてはおらぬのよ」
寒椿を眺めながら呟いた。吟師の貌に取り繕ったような険が浮かんだ。
「なんでてめえがそんなことを知ってる」
「なんでだろうなあ。まあ、それはよいのさ。お前さんが気にしなけりゃならねえのはな、この先おれと仲ようやってゆけるかどうか、ということさ」
「なにをぬかしやがる……」
杯をあおり、庭に振り向けた頭は、妙に重い慣性をともなって揺れた。吟師の頭の中にある整然とした規矩準縄が、にわかにその鋭利な角を丸め、その直線をゆがめる。節を曲げられぬ一本気な、ともすれば狭量とも受けとられがちなその性格から、往々にして他人の意見を容れ難い吟師であるのに、
(本物の酒とやらに当てられたのか、頭が……)
「おう、酔っておるな、若者。どうだ、本物は覿面に効こうが」
「酔ってなんかいねえ」
「人も苦手、酒も苦手では、世の中つまるまいよ。思うさま呑める機会などそうはないのだ、酔え酔え、吟師」
もう一枚割ってやろうかとも思ったのだが、すぐにばからしくなって止めた。火照った頬に夜気が心地よい。白髪の老人に酌をさせながら、吟師は二つの瓶子が空になるまで、機械的に杯をあおった。
「おお、おれの分まで呑んでしもうたわい。よう呑んだのう、ただでよかったのう」
呼師の笑う顔も、目鼻立ちがはっきりしない。庭の牡丹が巨大に膨れあがったり縮んだりしている。雲のうえに座っているかのように、体の平衝を取りかねた。
「じじい、酒菜は――」
ふいに簀子が迫ってきたあと、やけに近いところで鈍い音がし、吟師の意識はそこで途絶えた。
一月十三日 丙戌 子二刻
(まさか佑の紹介やったとはなあ)
左京は五条大路、季満は両腕を抱きかかえるようにしてこごまりながら、路脇の側溝に沿って東へ向かっていた。
ここのところ天気は小康を保っており、雪はあらかた溶けてなくなっている。去年の末にはまとまった量の雪が降っており、季満の破れ屋を押し潰さんばかりであったのだが、今年は幸先がよさそうだ。
(でもまだ降るんやろな)
春の頭とはいえ、所詮はひとのつくった暦の区切りにすぎない。見上げれば、楕円形の十三夜月はときどき不規則に翳った。白い色が薄まったり瞬いたりしているのは、雲が出ているということだろう。いっとき止んでいた雪も、近いうちにまた降り出す。
季満は堀川を超えたあたりで立ち止まると、癸の方角――やや北よりの東の空を仰ぎ見た。檜皮の甍越しに、低く北斗が見える。
(あれは止んだら終わり。もう二度と降ってきいひん)
季満の眼の先には、柄杓の柄から数えて三つ目、廉貞星が強く瞬いている。
思えば、今年に入ってからは奇妙な予感がしていた。奇しくも先日、菅原の人間が尋ねてきたことも関係があるのかもしれない。
(菅家判官ねえ、菅原の武官なんて聞いたことあらへんな)
大路から室町小路を左へ折れる。あたりには人影の一つもなく、家を出てから牛車に一度すれ違ったくらいだった。
貴族の夜は長いが、庶人は陽が落ちればすぐに床へ入ってしまう。明かりのない時間に起きているということは、灯油代がかかるということだ。季満も仕事のない日は、こんな時間まで起きていることはない。
(依頼は参議の娘はんか。初めての上客やないか、こら気張っていかんと)
宣風坊をつらぬき、四条大路にさしかかったところで、前方にぼんやりと篝が焚かれているのを見つけた。錦小路の辻あたりに、袖のほそい水干に太刀を吊った舎人が二人立っている。
(あれやな。しっかし、なんでお家で話さへんにゃろ)
道説の話では、詳しい話は参議の自宅ではなく、別の場所においてということである。成功したあとの報酬にばかり気を取られていた季満は、いまさらのように依頼の内容に考えを巡らせた。
(ええと、たしか父親だか親戚だかがけったいな病気になったとかゆうてたか)
依頼がその通りであるなら、誰はばかることなく自宅で話せば済むことである。ということは、本当は別の話があり、自宅では障りのある内容だということなのか。
(あかん、全然考えてへんかったなあ。だれぞ呪い殺せなんて言われたらどうしよ)
途端に怪しさがむくむくと鎌首をもたげたが、すでに引き受けてしまった以上は、まさにいまさらであった。急に歩みの遅くなった季満に、そうと知ってのことか舎人の一人が近づいてくる。
「土師季満どの?」
「え、あ、そうどす」
反射的にそう答えてしまった。もう引き返すこともできない。いっそう夜気が身に滲み入るようで、季満は肩を抱いて身震いした。
「見たところ、武器の類は持っておらんようだが、一応ことわっておくぞ」季満を誰何した舎人の片割れが近づいてくる。「おれたちは次の間で控えている。妙な禍言を呟きでもしたら、いいか、明日にはお前は鴨川に浮いていることになるからな」
「……へえ」
道説ほどではないが、がっしりとした体つきの舎人である。こんな男に掴みかかられたら、ひよわな季満などひとたまりもないだろう。
(こいつ、呪いの類がきらいなんやろか。誤解されへんようにせな、ほんまにぶちこまれかねへんな)
「それくらいにしとけ。――季満どの、案内する。ついて参られよ」
そう言って舎人は西門をくぐる。前後を帯刀した男に挟まれて、季満はようやく軽々しく仕事を引き受けたことを後悔し始めた。
門をくぐってすぐのところには牛車が駐まっており、たいそう狭苦しかった。牛飼いの態をした少年が、軛を背負ったままの牛の背を梳っている。
(牛車があるゆうことは……ひょっとして、本人が来てるのんか)
舎人の緊張も頷ける。季満はお付きの女房かなにかが話をしてくれるものとばかり思っていたのだった。
(そういや参議って、四位以上の殿上人やあらへんか。なんで地下人の道説が取り次ぐんや?)
先導する舎人に従って、階で足駄を脱いで中門に上がり、渡殿をのしのしと軋ませて北側へ向かった。屋敷自体はそれほど大きなものではないようだ。夜目にはなにとも知れぬ、葉を落とした樹が庭に窺えたが、池は見当たらない。
やがて屋敷の北東あたりの殿にはいり、厳重な土塀を巡らせた一室の前で、舎人は歩みを止めた。あごで「中へ入れ」という仕草をする。
「へえ、お邪魔します……」
入口は開け放ってあったが、入ってすぐのところに几帳が置いてあり、部屋の中が見えないようになっている。もう一度声をかけてから、季満は几帳を避けてそろそろと室内に踏み込んだ。
「土師季満どの?」
いかにもお蚕ぐるみの子女といったふうな、細く可憐な声がした。
一丈四方ほどの部屋の中に、板の間を隠すようにして薄縁が敷かれていた。奥の一角だけ厚畳が置かれて一段高くなっており、その上に薄紅と緑の重ね衵をまとった少女がちょこんと飾られている。かたわらに置かれた、二台の高灯台に照らし出されたその顔は、
(せいぜい十代のなかば、てとこやろか)
檜扇に隠れて眼から下はうかがえないが、やや垂れ目ぎみの大きな瞳がなんとも愛くるしい。見える範囲で言えば十分美形と言えようが、
(こういう目元美人にかぎって、下は案外歪んでたりするもんや)
と、ちょっと底意地の悪い感想を季満は抱いていた。
「はい、お初にお目にかかります。土師季満ゆう者どす」
「ご丁寧にどうも、わたしは橘珠子といいます。――お若いのですね、おいくつですか?」
妙にゆっくりとした口調で、珠子は歌うように言った。
「はあ、ええと、十八どす」
「まあお若い」
(若いのを術の未熟やゆうふうに考えてくれれば、この話はご破算になるかもしれへん)
「やあ、若いのんは自慢にゃならへんのどす。呪いや祈祷やゆうもんは、はっきりゆうて歳食うててなんぼゆう世界なんどすさかい、私なんてまだまだ未熟で全然――」
「道説さまはたしか御歳廿七、十歳も離れていらしているのですか。忘年の交わりというものですわねえ。あら、まあいけない、十じゃなくて九だわ、わたしったら」
珠子は季満の話をそっちのけで、ひとくさりしゃべったあと檜扇の向こうで笑った。彼女の話す速度は異様に遅く、季満のざっと三倍くらいの時間はかけている。
「わたしは十四です。季満どのより歳下ではありますが、もう子供ではないのですから、季満どのもわたしを小さい子供のようにあつかってはいけませんことよ。季満どのは道説さまのご朋輩ですか?」
「はあ、まあ、そうどす」
「まあ、本当に忘年の交わりなのですねえ。道説さまはあんなに大きくていらっしゃるのに、季満さまはたいそうお小さいのですねえ。お顔も全然ちがうわ。わたしも小さいのだけれど、季満どのと同じくらいかしら」
(……なんなんや、この子ォは。本題に入る前に灯油が尽きてまうわ)
お愛想で浮かべていた笑みが、しだいに引き攣ってくるのを感じる。正座で畏まっているのが馬鹿らしくなってきて、季満は珠子が檜扇で顔を隠してくすくす笑っている隙に、足を崩して立ち膝をついた。
「あのう、お姫はん。道説から聞いた話では、お父上さまがなんやよろしゅうない病にかからはったとか」
檜扇のうえの双眸が、いっとき眩しげに細められた。十四という歳に若干そぐわないような光を放っている。
「季満どの、近くに」
檜扇を手早く閉じると、珠子はささやくような小声で季満を呼んだ。
季満は一瞬、気を呑まれた。貴族の女が意図的に素顔を見せるという行為は、たとえば結婚を承諾するとか、相手の男に体を許すといったふうに、相応の理由があるときにだけにしか成されないものであった。意味がわかってやっているのか、無知のなせるわざなのか、季満には判じかねたが。
「ごめんなさいね、几帳の向こうに家人がいたので、話せませんでした」
白粉と紅でうすく粧われた珠子の顔は、ぞっとするほどに美しかった。顔を構成する部位の全てが、おのおの奇跡的と言えるほどに整っている。
やや小づくりのすらりとした鼻梁、桜桃の唇、ほっそりとした顎の姿形などは、もはや芸術と言ってもよい水準にある。歳若いせいか、その神々しい美貌にはいまだ若干の幼さが刷かれているが、あと二、三年もすれば、彼女の本宅に牛車の群が列をなすことになるだろう。
「季満どのは、道説さまからどのようなお話をお聞きになったでしょうか」
かすかに白檀の香が薫る。季満は不覚にも動悸を抑えることができなかった。
「え、ええと、さる知り合いの女性が、親類の病で困ったはって、呪いの類かもわからんからお助けしたってくれゆうて」
「……申し訳ございません。すべてわたしの謀事です」
「はあ……は?」
季満の間の抜けた声に、珠子はふかぶかと頭を下げた。ぬばたまのような瑞々しい黒髪が、薄縁の上に落ちてわだかまった。
「道説さまがお会いになってくれませんもので……」
珠子は几帳のほうをちらちらと見ながら、訥々と語り出した。
ことの発端は、道説の甲斐性のなさにあったようだ。
道説の兄と珠子の父はかねてより、位階こそ違えどたいそう仲がよかった。歳も両者の交流をさまたげるほどには離れておらず、折にふれてお互いの家を訪問することも繁くあったという。
たまたま道説の兄が参議の家を訪なったとき、酒の席で道説の話題が出た。廿を大きく超えた歳で艶聞のひとつも聞こえてこぬのは、いささか朴念仁に過ぎる。どこかに良縁のひとつも転がってはおらぬものかと問わずがたりに語り出した。始めこそ、身内の甲斐性のなさに苦笑する話のタネに過ぎなかったのが、杯を重ねるうちに、それが解決しなければならない重大ごとのように思えてくる。
「それで後日、なかば冗談まじりにわたしのところへ話がきたのです。歌のひとつも交わしてはみぬか、と」
珠子ならまだ幼く、どう転んでも笑い話で済まされるだろうという目算も、あるいはあったかもしれない。あまりこういったたぐいの話に免疫のない珠子には、はたして父が本気であったのか否か、しかとは判じかねた。
「不謹慎ですが……本当のことを言うと、少しおかしくも思っていたのです。廿を大きく超えて独り身であらせられる殿方というのは、ちょっと聞いたことがありませんでしたので」
普通ならまず、男の方から便りがあってしかるべきなのだが、しかし数日待ってもそれらしい歌は届かない。父のお膳立てを袖にすることもできず、とにもかくにも珠子は座興のつもりで歌をしたため、道説宛に送った。
「……還ってきたお返事は歌ではなく、文でした」
その内容は、まず兄が無礼をいたしてまことに申し訳ない。兄と珠子の父の心配りにはたいへん感謝している。しかし自分は無学で、愚詠のひとつすら満足にひねることができない。お返事のできないことを心からお詫びしたい云々、という詫び状のごときものだった。
『わたくしのごとき軽輩に関わり合うは、貴女の御為にも、御家の為にもならぬことです。構えてご放念されたく、ぜひ貴女のほうからもお父上にお話しをされて、この件は終わりにしていただきとう存じます。道説が身は、道説が所存でいかようにもいたしますゆえ』
「わたしも父も、興味本位で面白がっていたことをたいへん恥ずかしく思いました。道説さまにしてみれば、まったくの余計なお世話だったのです。それで、わたしはお詫びの文を送りました」
(……筋金入りの朴念仁やな)
それから二人の文のやりとりが始まったという。道説の文は一貫して短く、珠子の文は回を追うごとに長くなる。いつしか珠子はその木訥な文に、常ならぬものを抱くようになり、その返信に多大な熱情をこめるようになっていった。
是非いちどお会いしたい、と切り出したのも、珠子のほうであった。
「道説さまは難色を示されましたが、何度目かのお願いの末に、これに応じて下さいました」
(自分より十以上も年下の女にここまでさせるゆうのんは、こらもう救いようのあらへん甲斐性なしやな)
女の珠子が道説を訪なうわけにもゆかず、なかなか会談は実現しなかった。文通を重ねるあいだにも、珠子の脳裏にはまだ見ぬ貴公子の面影が浮かんでは消える。ぼんやりすることが多くなり、いきおい学問も手につかず、見かねた父のはたらきでようやく、菅原兄弟が橘邸に足を運ぶ段となった。
「……ほかのどのようなお姿でも、これほどまでにわたしの心を掴むことはなかったでしょう。ああ……あの毘沙門天の生まれ変わりのごとき、雄々しいお姿、抜身の太刀のような凛としたお顔、心の臓をとろかすあの低いお声。かくあれかしと望んだどのような貴公子も、現身の道説さまには及びませんでした。お座りになって庭をご覧になられているだけでも、一枚の絵のようにお映えになられるのですもの。季満どのもおわかりになられますわよね?」
「……はあ」
(だいぶ変わった好みなんやなあ、この子ォは)
珠子は相貌に血をのぼらせて身悶えしている。季満は呆れ返っているのを隠すのにたいそう苦労した。
道説に会ったのは、それが最初で最後であったという。会談はごく短く、道説は四半刻も留まることなく、屋敷を後にしたらしい。
「お慕いしておりますと、わたしは道説さまにお伝えしました。ですが、道説さまはわたしのことは好かぬと……」
『貴女のことは嫌いですし、今後すきになることもなかろうと思われます。ですからどうか貴女も、わたくしのことをお嫌いくださいますよう。せめてそのように努めてください』
このようなことを、道説は冷たく言い放ったそうな。
「そののちはもう、文のお返事も絶えてありません。ただ、この件を除けば、わたしの相談事には変わらず、親身に乗って下さるのです。それで、いけないこととは知りつつ……」
こういうところはやはり歳なりで、いかにも子供っぽい。が、珠子だけが責められるべきではないだろう。乙女心を無下にした道説の咎も、また明白なのだ。
珠子は傍らの二階棚から分厚い紙の束を取り出すと、厚畳を降りて膝でいざってきた。
「季満どの、かようなところまでご足労いただいたのも、なにかのご縁。後生一生のお願いでございます、どうかこの文を道説さまのもとへ。今までお送りした文があの方に一瞥もされず、破り捨てられて火にくべられたのやもと思うだけで、わたしはもう生きてゆく気力も失せてしまうの」
季満が後退れば後退ったぶんだけ、珠子はにじりよってきた。背中が入口の几帳にふれる。文字通り進退窮まった季満に、
「お願いします。道説さまのご友人であられる季満どのをおいて、ほかにお願いできる人はいません。お願い」
そう言って珠子は拝む。
(まあ……ええか。もともとあいつが蒔いたタネなんやし、あいつに丸ごと投げたったらええにゃわ)
「わかりました。土師季満、お文とどけさしてもらいます。――ただし、その、わたしからもひとつお願いが……」
麗貌に喜色をみなぎらせる珠子に、季満はやんわりと手のひらを突き出した。動きを止めた少女の、大きな瞳が困惑気にまたたく。
「ええ、なんてゆうたらよろしおすやろなあ。そのう、実は年末にいろいろ物要りで、ちょいとばかり年明けの寒さが身ィに堪えるんどすわ。こんなときソデの下にあったかいモンでも入っとったらなあ、なんて……」
この際、仕事の内容などどうでもよかったのだが、期待していた報酬まで消えてしまうことだけはなんとしても避けたかった。今現在、季満は無一文にひとしい。珠子の出方次第では本当にカラスのえさになってしまう。
「まあ、気がつきませんでした。ごめんなさいね」
最前から小首を傾げていた珠子が、思い立ったように火桶を季満の前へ押しやり、炭を数片、火の中へ足した。
「……あのう、そうやのうて」
「そのような薄着で、お寒いのも無理はありませんね。道説さまもこの寒中のみぎり、お健やかにお暮らしかしら……」
「…………」
その後、言葉を尽くして窮状を訴えたものの、珠子はついぞ隠喩に気付くことはなく、季満は結局「お駄賃ください」と少女の膝元に額ずくはめになったのだった。