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Hello Miyako III

 一月八日 壬午(みずのえうま) 丑三刻(うしのさんこく)


 (てきとうに羅城門を覗いたら、さっさと帰ろう)

 道説(みちとき)は朱雀大路を下りながら、そんなことを考えていた。

 人外の時間と言われる丑三刻。おぼめく弦月(げんげつ)の薄明かりの下を、二人の男が歩いている。

 呼吸をしているだけでも寒い。鼻息が襟元(えりもと)から入ってきて冷たい。大路を薄く覆った雪が音を吸うのか、二人がめいめい雪を蹴立てる音も、張本人たちにすらほとんど届いてこない、そんな凍てつく無音の夜である。

 「なんだか嫌な予感がいたします……頼りにしておりますよ、妙法先生(みょうほうせんせい)……」

 間接的にとはいえ、道説が寒い思いをするもとになった左京識坊令(さきょうしきぼうれい)藤原淑野(ふじわらのよしの)がつぶやいた。手燭(てしょく)を持っているのに道説の前に立とうとしないのは、あるいは怖いからなのだろうか。

 「くそ、なにが妙法先生だ……ええ寒い、羅城門を往復したらさっさと帰るぞ」

 自分で言い出したことながら、道説は早くも興味を失いつつあった。文字どおり張り切って持ち出してきた檀弓(まゆみ)も、今では握る手指(てゆび)が冷たいだけの無用の長物に思える。

 道説は寒いのが苦手であった。

 出かける前こそ、鬼退治などという子供じみた道行(みちゆ)きに、たしょう胸がときめかないでもなかったのだが、元々は餅代に困る坊令を助ける方便にすぎない。この世に生を受けてより廿七(にじゅうしち)年、妖しよ物の怪よと周囲が騒ぐことはあっても、彼自身がそういったものを実際に目にしたことはなかった。正直なところ、その存在も信じてはいない。

 「ああ……見えて参りましたよ。私はもう生きた心地も――」

 「情けない声を出すな、お前に来いなどとは言わぬわい。そら、あの柳のあたりで待っておれ」

 門が見えてくるにつれて、淑野の及び腰は、とても普段の彼を知る者には見せられないような有様(ありさま)になっていた。血の気が多いというわけではないが、淑野はけっして臆病ではない。なんらかの圧力がかかれば、(せつ)を曲げるよりは折れるのを待つような男である。

 (その淑野をして、かくのごとき醜態(しゅうたい)(さら)しめるとはなあ)

 示された柳へと歩き去る、そのこごまった背を見送りながら、道説は奇妙な感慨(かんがい)をいだいていた。実際にいる、いないではなく、彼はいると思い込んでいるものにかくも怯えている。彼自身が頭のなかで生み出した何者かに、彼は(おびや)かされているのだ。

 道説はしばらくのあいだ、大路の真ん中に仁王立ちになって、腰のやなぐいに入った矢の弓摺羽(ゆずりば)に指を走らせていた。

 (いもしないものが、こうもたやすく人を惑わせるとは不思議なものだ。それともそれは真実存在するのに、おれだけが感じ取ることができぬのだろうか)

 彼は自分と人との違いについて考えるとき、直接的な関係のあるなしにかかわらず、その原因を自身の学の無さに求めることが多かった。自分は無学の武骨であり、ほかの多くの人々はそうではない。よろずそういうふうに、独り決めに決めてしまうところがある。

 (たとえば兄上がこの場におられたなら、おれのようになにを感ずることもなく、この青い雪の大路に突っ立っておられるだろうか。いや、きっと淑野と同じでないにせよ、何らかの感慨をお持ちになられることだろう)

 ふだんはあまり感傷的になることがないこの大男も、(とこ)に入って寝付けぬ夜や、こうして静寂の中に佇んでいるときなど、ひとりこんなことを考えては鬱々(うつうつ)としているのだった。

 「道説さまあ……行かれないのでしたら、もう帰りませんか……」

 「やかましい、人が深遠なる考察に思いを――」

 中っ腹になって振り返った道説の背後、暗い(すだれ)を下ろしたような羅生門から、かすかに低く物音のするのが聞こえた。反射的にやなぐいから征矢(そや)を引き抜き、弓柄(ゆづか)に添えながら、道説はもう一度振り向く。

 「……浮浪人(うかれびと)か」

 物音の止んだあと、二人はめいめい同じ姿勢のまま凍りついていた。

 「道説さま、本当に行か――」

 しびれを切らしたような淑野の言葉は、中途から悲鳴になった。門のどこかから、なにかが壊れるような音がする。一拍遅れで上から降ってきた木ぎれが石づくりの基礎に当たり、死者も跳ね起きんばかりの騒音が大路に響きわたる。

 「何者か」

 道説は檀弓を構え、矢をつがえて軽く引いた。

 彼から五丈ほど離れた位置で、細長い人影がすっくと伸び上がった。酔漢(すいかん)のようにふらふらと重心を揺らしながら、もぐもぐとなにか意味不明の言葉を呟いている。

 「……これは左検非違使少尉さけびいしのしょうじょう菅原道説(すがわらのみちとき)。名乗れ、不審の者」

 さくさくと雪を踏む音が近づいてくる。道説の名乗りに数瞬、音は止まり、ややあってそれに倍する間隔でせまってきた。次いで地面を強く蹴る音がし、闇夜の弦月がふっと(かげ)る。

 「応!」

 道説は一挙動で弓弦(ゆづる)をぎっと引き絞り、かんと射放(いはな)った。鷹羽(たかばね)を矧いだ槇葉尻(まきのはじり)の征矢は、消えた月をめざしてひょうと飛び、宙にあった襲撃者の体をあやまたず(つらぬ)く。

 不審者は見えない壁に(はば)まれたように垂直に()ち、泥雪のなかにぐしゃりと崩れた。

 「おお、射たり!」

 「……つい射てしもうた」

 背後からの淑野の讃辞(さんじ)に、道説は困ったように呟いた。相手にあきらかな襲撃の意図があったとはいえ、道説の行動は考えた末のものではなく、単なる条件反射にすぎなかったのだ。

 「検分するぞ、淑野。来い」

 「道説さま、後ろ!」

 淑野の切迫(せっぱく)した声が、道説になかば無意識の回避行動を取らせた。とっさのことだったので半身をずらす程度ではあったが、それが彼の命運を()かった。首をえぐるはずだった一撃は()れ、かろうじて道説の右耳を千切(ちぎ)るにとどまる。

 「ありゃあっ!」

 裂帛(れっぱく)の気合いが羅城門に反響し、内裏(おおうち)にもとどけよとばかりにこだました。

 道説はいつのまにか、不審者の体をはさんで反対側におり、携えていた弓は腰に吊っていた白刃へと変わっている。道説はすばやく正対し、猫のように敏捷な動きで飛び退(すさ)ると、太刀を上段に構えて不審者の出方を待った。一拍おいて、宙を飛んでいた檀弓が薄雪のうえに墜ち、それを合図に不審者の右腕と頭がぼとぼとと落ち、最後に体が膝から崩れ落ちた。

 (危なかった……淑野が知らせてくれなんだら死んでいた)

 「お……お見事……」

 (ほう)けたように言いながら、やはり及び腰で淑野が近づいてくる。

 右耳が火で(あぶ)られているように熱を持っている。心臓の鼓動にひとしく、耳が動悸(どうき)しているかのようだ。首が妙に寒いので手を当ててみると、手のひらにはべっとりと血がついていた。

 「道説さま、お怪我を?」

 「いや、大した傷ではない、この程度で済んで幸いであった。――なにか拭くものはないか」

 受け取った楮紙(こうぞがみ)でていねいに太刀を拭き、足下の雪で手についた血をぬぐうと、あらためて道説は不審者の検分に取りかかった。耳からはいまだに血が(にじ)み出ていたが、熱を感じるだけで、痛みらしい痛みはない。いまさらのように追いかけてきた高揚感で、道説はかるい(そう)に陥っていた。

 「…………これは、なんなのでしょう」

 「……先程まで動いておったのだがな」

 淑野の手燭に照らし出された男は、どう控えめに見ても死後数週間を()ているように見える。黒い服のうちから立ち昇る悪臭に、二人は近づけていた顔を上げた。

 「これが(くだん)の鬼なら、この界隈(かいわい)の騒ぎも収まろうが」落ちていた檀弓を拾い上げ、弓弦を外しながら、道説は明るい口調で言った。「ま、よいさ。今日のところは帰って、様子を見ようではないか、淑野」

 かたわらの背をばんと叩く。淑野はつんのめって派手に転び、黒服の男の胸に飛び込んでいった。

 手燭を落としてしまったせいで、帰りの道行きにはたいそう難渋(なんじゅう)することになった。


 一月九日 癸未(みずのとひつじ) 巳一刻(みのいっこく)


 (くるま)の走る音が近づいてくる。

 右京は八条大路(はちじょうおおじ)、ちょうど西堀川(にしのほりかわ)を渡りきったあたりである。

 泥根雪のたまる(みち)には、ぽつぽつと庶人(もろびと)の姿が散見できるが、小走りに駆けながら鞭をふるう牛飼童(うしかいわらわ)は、牛を()かせることにばかり集中している様子だ。頭に(かご)をのせた市女(いちめ)ふうの女をひき殺しかけるも、すでに十分な焦燥に曇っている彼の眉は、それ以上動くことはなかった。

 (この時間にあれほど急いで、いったいどこに行こうというのか)

 ちょうど近くにいた、藁筵(わらむしろ)をかぶった童子を抱え上げると、道説は荒々しく車輪を鳴らしながら走りくる網代車(あじろぐるま)をやり過ごした。土まじりの濡雪(ぬれゆき)が盛大に()ね散らかされ、大男の指貫(さしぬき)に奇妙な文様(もんよう)を残していく。

 童子は頭上に持ち上げられて、背中をつままれた甲虫(かぶとむし)のように手足をばたつかせていた。車は去り、そのあとを数人の舎人(とねり)と搨を小脇にかかえた童が、まこと決まり悪そうにそそくさと追う。庶人たちが雪よりつめたい視線を、せめて彼らに送るかと思えば、慣れているのか誰も意に介そうとしない。

 湯巻(ゆま)き姿の年増女が、最前から抗議の視線を送っているのにはたと気付く。道説は手に抱えていた童子を「たかいたかい」と上げ下げしたあと、神妙に彼女の足下へおろした。

 「……ちとものを尋ねたいのだが、土師季満(はじのすえみつ)という(まじな)い師を知らぬか」

 「……へえ、存じまへんが」

 「…………そうか。その、なんだ、その子供が車に()かれるやもしれぬと思うてな」

 皆まで聞かぬうちに、女は子供の手を引いて足早に去ってしまった。

 (土師季満、聞かぬ名だなあ)

 ふたたび大路を西に歩き始める。紹介人は菖蒲小路(あやめこうじ)を左に折れる、と言っていた。

 (それにしても、この荒れようはどうしたことだろう)

 これほど右京の隅まで来たのは初めてであった。かねてから知り合いに聞いてはいたのだが、耳に聞くのと目で見るのでは全然ちがう。

 家々を始めとする背の高い建物がほとんどなく、田やら畑やらがやたらと目立つその界隈(かいわい)は、とても洛中とは思えぬほど見晴らしがいい。連日の曇天(どんてん)から一変して、今日は朝からすがすがしい快晴の陽光が降ってきているのだが、あちこちに夢のあとのように残る家屋の残骸に、それが濃い影を落としており、二度目の滅びを見せつけられているようでちっともすがすがしくない。

 においにも閉口していた。腐った木材が日の光に(あぶ)られて、()れたような異臭を放っている。鼻をつまんでふと目をそらせば、はだれ雪の中から顔をのぞかせた死体と眼が合う。見たくもないようなものに限って、あまり雪は積もっていないのだった。右京においては日が射そうが雪が降ろうが、よく見えるか見えないかの違いでしかないようだ。

 菖蒲小路を左に曲がると、はたして紹介人が言っていた家が右手に見えた。

 崩れた建材の山に埋もれるようにして、傾いた小屋が建っており、その上を数羽のカラスがギャアギャアと飛び回っている。小路に面した縁向こうの室内は薄暗く、屋根に穴でも空いているのか、天井から一筋の光が射している。人の姿も気配も感じられない。

 (さあて、参った。ここの家主も雪のすきまから「こんにちは」でなければよいが)

 小屋の入口をさがして、道説は敷地内を徘徊(はいかい)した。すでに気持ちの上では「探索」ではなく「捜索」である。

 ややあって、北側に面した簀子縁(すのこえん)に狭い(きざはし)があるのを見つけた。その下には歯のちびた足駄(あしだ)と小さな(くつ)がひとつずつ。どうやら外で横になっている可能性だけはなくなったようだ。

 「土師季満どの、おられぬか」

 道説が声をあげる。奥から足音が聞こえてきたときには、言いしれぬ安堵が湧きあがった。この男の性格上、こういったかたちでもし死体でも発見すれば、四角四面(しかくしめん)に京識へ戸籍の添削(てんさく)をはかるであろうし、死体を埋めてささやかな供物(くもつ)のひとつも捻出(ねんしゅつ)するだろう。せっかくの自由時間を見知らぬ人の供養(くよう)で費やすのは、木石(ぼくせき)のうえに立烏帽子(たちえぼし)をのせたような道説にとっても気の進まぬことなのだった。

 ぎしぎしと危うい音をたてながら現れたのは、まだ十にも満たぬらしい童子であった。赤青二色の袖括(そでくく)りのついた、虫青(むしあお)がさねの半尻(はんじり)をまとい、珍しい茶色の髪を振り分けにしている。

 「季満どののご縁者かな。ご主人はおられるかな?」

 道説が上体を折ってにっと笑うと、豊頬(ほうきょう)も愛くるしいその子供は、一見して男女の区別のつけづらい、ととのった面立(おもだ)ちに怯えの色をうかべた。そのままきびすを返し、元きた道を戻っていってしまう。道説は中腰のままひそかに傷ついた。

 「はいはあい、お客さんどすかあ?」

 ややあって、先程よりも少し重い足音とともに、かん高い声が奥から飛んできた。

 廊下を踏み抜きそうな勢いで駆けてきた人間は、思ってもみなかったほど若い。声からして意外であったのだが、本人のいでたちはさらに予想を上回っていた。

 年はまず廿(にじゅう)を数えないであろう。白い、というよりも幾度も水をくぐった末に脱色してしまった感のある、垂首(たりくび)水干(すいかん)に、粗末な脛丈(すねたけ)の小袴をつけている。かなりの小柄で、身丈(みたけ)はどう見ても五尺に満たず、せいぜい四尺と五、六寸程度しかないだろう。

 「やあや、ようお越し! 土師季満ゆうもんどす。ま、ま、上がっとくれやす。尾筒丸(おづまる)、なんか飲み物出してえな!」

 寒いのかしきりに足踏みしながら、ぺらぺらとまくしたてると、満面の笑みで奥へ声をかける。くたびれた折烏帽子の下には、にわかに男とは思えぬほど繊細(せんさい)なつくりの(かお)があり、やや太めの眉だけがその中にあって辛うじて、男性的ななにかを主張していた。

 (なんともなよやかな少年だ。これほどの若輩(じゃくはい)が呪い事などできるのだろうか)

 白髯白鬚(はくぜんはくしゅ)の導師服が、英知の後光をはなちながら、威厳たっぷりに現れるのを予想していた道説にとって、目の前のちびはなんとも頼りないものに映った。

 一方、季満のほうも笑みを浮かべながら、

 (なんや大きい(いかい)のが来よったなあ、相撲人(すまいびと)かいな。お(あし)持ってりゃどうでもええけど)

などと思っていた。

 季満が四と半尺なら、道説の身丈は六尺に余った。雲突く大男である。道説は階の下に立っているのに、頭の位置は季満と同じなのだ。

 菊がさねの狩衣(かりぎぬ)は無紋、色気のない灰色の指貫に、柄に(びょう)を打った黒漆(くろうるし)衛府太刀(えふだち)を吊っている。(なり)は見ようによっては官人ともとれたが、この巨人が冠をかぶって(しゃく)を持っている姿などとても想像できない。にわかには金持ちなのか貧乏なのか判別がつきかねた。

 「御免」

 短く言って藁沓(わらぐつ)を脱ぐ道説の貌は、凛とした男らしさに満ちている。濃い眉の下の瞳はいささかも濁っておらず、漆黒と純白が相住(あいす)まって強い意志を感じさせた。鼻も口も頬も、影の落ちるほどに彫りの深いつくりになっており、季満は一瞥(いちべつ)して、

 (こういうのをツラダマシイゆうんやろな)

 などと得心していた。こういう人間は往々にして考えることが単純で、嘘をつかない。懐具合はさておくとしても、客としては扱いやすい部類にはいるだろう。

 季満を先導に、道説は湿った床板を踏み抜かないよう、そろそろとあとを追った。

 通された部屋は薄暗く、がらんとしていた。中央に小さな囲炉裏があり、先程の童子が鉄瓶(てつびん)を火にかけている。どうも食事中だったようで、童子の膝元には平折敷(ひらおしき)が二つ置いてあり、雑穀とおぼしき灰色の汁粥(かゆ)と、ゆでた水芹(せり)のようなものがのっている。こんな家に住んでいるのだからまさか富裕(ふゆう)ではないにしても、この屋内の食糧事情はそうとう逼迫(ひっぱく)しているようであった。

 部屋は(いた)んだ板壁で覆われていたが、西側だけは開け放たれており、簀子縁の向こうには道説が歩いてきた菖蒲小路が見えた。かつてはついていたであろう蔀戸(しとみど)は、今や影も形もうかがえない。

 「……そこを通った折、この部屋にはだれもおらぬように見受けられたのだが」

 太刀を外して座るなり、道説は向かいに座った季満の、背後の小路を示した。季満は折敷(おしき)を脇へどけながらにやりと笑った。

 「さあ、気のせいやおへんのどすか。――あ、この子ォは気にせんといとくれやす。ささ、ご用向きを伺いますえ」

 「……うむ、まあ、よいか。名乗りが遅れたが、左衛門少尉さえもんのしょうじょう菅原道説(すがわらのみちとき)と申す。以後――」

 「菅原やとお?」

 季満がこころもち身を乗り出し、なにか忌まわしいものでも口にするような口調でわめいた。

 「いかにも、菅――」

 「ちょう待て、それに……なんやと、左衛門少尉やとお?」今までそのかんばせに浮かんでいた丁重な笑みは、べろりと皮を剥ぐようにして猜疑(さいぎ)に満ちたものへと変貌した。「まさか……こないだの羅城門で鬼退治した左衛門検非違使少尉ゆうんは……」

 「……まあ、おれだが、どこでそれを――」

 「おン前っ! お前か! おれの仕事横からさらっていきくさったんは!」

 季満が立ち上がってもの凄い剣幕でがなり立てた。となりに座っていた童子が飛び上がり、大きな目を見開いてそちらを凝視(ぎょうし)している。

 「待て待て、聞き捨てならぬ。あれは――」

 「やかましわ! あともうちょいで仕留められるとこやったのんに、高札(こうさつ)なんぞ立てよるから全部お前の手柄になってしもたやないか! どうしてくれんにゃ、もう食べるモンのうなってんねんぞっ!」

 「淑野(よしの)め……」

 高札を立てることを提案したのは道説ではなく、淑野であった。鬼退治が成功したにせよしないにせよ、九条界隈(かいわい)に住む人々に、お(かみ)がなにかしらの対策を講じているということを知らしめ、もって人心の安堵をはかったほうがよい、というのが淑野の考えであった。

 いかにも京識の役人らしい考えかただと道説は関心したのだが、まさか自分がやりましたなどと騒ぎ立てるつもりもなく、「使庁(しちょう)、鬼退治せり」とのみ記すようにと言っておいたのだったが、

 (この様子だと、まず職名までは記されたようだ。淑野め、どうしてくれよう)

 左衛門検非違使少尉という役職までわかってしまえば、対象人物は一気に数人まで絞り込めてしまう。どのみち実名を出しているようなものだった。

 「年始(としはじ)めやゆうのに(あも)も食べられへん、魚も食べられへん、お前なんかおれに恨みでもあるのんか! もうおしまいやあ! 明日にゃカラスのえさやあ!」

 「これ、ちと話を――!」

 「あもおー! さかなあー!」

 季満は両手で顔を覆って板の間をのたうち回っている。かたわらでは童子が眼に涙をためて、下唇を突きだしていた。この場でどのような弁明をしようと、道説が悪者にならずに済む道はなさそうだった。

 「ええわかった、おれが悪かった! 餅でも魚でも用立てるから、ちと話を聞け!」

 季満の動きがぴたりと止まり、両手のうちから「ほんま?」とくぐもった声が聞こえた。

 「ああ、ほんまだ。それ、そこに直れ。用事があってきたのだ」

 言質(げんち)を取るや、季満はてのひらを返したようにおとなしくなった。何事もなかったように道説の向かいに座ったが、口の端がこまかく震えているのを道説は見逃さなかった。

 (今のは演技か。見た目によらず食えぬ奴よ)

 「お仕事の話ならいつでもどこでもや。ほんで、用事って?」

 季満の軽々しい受け答えに、道説の渋面(じゅうめん)はいっそう深まった。顔の彫りの深いこの男がそうしていると、その長身とあいまって、どこかの仏刹(ぶっさつ)邪鬼(じゃく)を威嚇している神将像のように見える。

 「まず確認しておくが……お前は呪い事を生業(なりわい)とする者か?」

 「うん、そうや。言っとくけどおれほどの達者はそうは――」

 「なにか説明のつけられぬ凶事、たとえば特定の家にだけ病が流行るだとか、そういう事件を解決しうる手立てを、お前は持っているということだな?」

 「おお、そらオハコや。やあお前運ええなあ、ほんまに――」

 「今から依頼を説明するが、このことは他言無用ぞ。それと話し終わるまでな、黙っておれ」

 「…………」

 渋面を向け合った二人のあいだを、尾筒丸のくさめが通り過ぎていった。

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