The wailer X
十
四月十四日 丁巳 丑四刻
几帳の帷を持ちあげて塗籠の内を覗くと、別当はすでに厚畳のうえに端然としている。充血した目が呼師を捉えて「はやく入れ」と急かした。
室内には油皿のひとつとてない。
暗い。暗いのはしかし、なにもこの部屋この屋敷に止まらない。丑、寅といえば、平安京も眼を睡る真の闇である。
「こんな夜更けに穏やかじゃねえですな」
「呼師、やってくれたな」
言って、座れとばかりに顎で自分の向かいを示す。円座の用意はない。呼師は黙って板の間に腰を下ろした。
青年の白面は色濃い憔悴に充ち満ちている。応えずにじっと見つめていると、最前から目の端がぴくぴくと攣るのに気がついた。闇を見とおす呼師の眼にも、彼の神経を圧する荷の正体は判然としない。
「お疲れのようで。ここのところ、根を詰めすぎじゃあありませんかい」
「大内裏に鴉どもを集めたのはお前だろう、呼師」
「…………」
「ああいったなんでもないことに、彼の人びとがどれほど気を尖らせるか、知らぬお前ではあるまい。あれはなんだ、陽動のつもりか」
「そんなとこで」
「あれほど大仰に、わざとらしくする必要があったのかと聞いている」と言って、別当は溜息をついて、子どもみたいに両手で赤い目を擦った。「呼師、わからぬお前ではなかろうが、言って欲しいのなら言ってやる。これで神官や陰陽師どもに警戒されたぞ」
「警戒ってえんなら、前の一件以来、大内裏は並べて警戒の大安売りですな。別けても内裏向きのそれといったらそりゃあひでえ」
「それで陽動か。本末を転倒している」
さてどう言ったらよかろうと、呼師は頭を掻きかき思案している。
「お前の短慮が万一にも、御前の進退に影を落とすようなことになってみろ、なんとする」
「……御令、この期に及んでまだ隠密裏にことを運ぼうってえ腹で?」
「たったいまおれが言ったことを、お前はもういちど言わせようというのか。――まだもなにも、その為の手勢だろう。今さらなにを言う」
別当は鼻を鳴らした。鳴らして、次いで思い出したように「別当と呼べ」と付け加えた。その肝心要の「手勢」が只今かなりの勢いで抜けつつあるのを、彼が知らぬはずはない。呼師は胡乱げな視線をもって返答に代えた。
(どうにも、こりゃちょいと視野が窄まってるなあ)
呼師は細く息をついた。
このたびの一連の謀事、彼の目にはまったくの迂遠としか映っていない。それでも今まで、彼が異見らしい異見を口に上したことはなかった。これは「別当」個人の冀望するところであり、彼は単なるいち協力者を自ら以て任じていたので。また自分たちの相手になるであろう人間たちを、頭から取るに足らぬ小児然と見なしていた、という事実も否めない。彼の好きにさせてやろう。自分はできるだけ彼の力になってやりさえすればいい。策なんぞあってもなくても大して変わりはなかろうと判断したのである。が、
(こうも振り出しから躓くたあ思うてなかったわい。御令の言うとおりにやってちゃあ、こりゃ間違いなく失敗する)
「別当」はどうも呼師の与り知らぬ、なんらかの報いを期待しているようで、とにかく一切の痕跡を残さずにことを為果せようと躍起になっていた。先だってなどはそのゆえの悪例の最たるものと言ってもいい。苦心して二十余名もの呪い師を集めてなにをするかと思えば、洛中の気という気を無闇にかき回しただけである。それはまだいい。その隙に暗殺者を任じて基経を呪詛るのは、しかし言師たったひとり。
(その人数をひっくり返しゃあ、まあ足は付いたかもしれねえが、向こうさんは確実に殺れたろう。本末を転倒してるのは御令だあな)
確かにそれで成功すれば尻尾は掴めまい。呪い師二十余名の、夜を徹しての傍迷惑な方向性のない呪詛のおかげで、その夜洛中では貴賤を問わず、無作為的にかなりの死者が出ていた。従一位の貴人の薨ずると雖も、恐らくは過去に忘れ去られた誰某の怨霊だなどと適当な理由をつけたうえで、例のひとつに数えられた可能性は高かったであろう。
迷惑なのは韜晦の手段に使われて傍杖を食った人びとである。いきおい鳥辺野や化野に過客は絶えず、洛中の河辺には水揚げされた魚かなにかのように死体が並んだ。細民どもは襤褸を剥いで雀躍し、鴉どもは肥り、ついでに言師は雷を蒙って炭になった。酔狂である。
「それで、なにを探っていた」
「なに、とは」
「とぼけるな。陽動の結果を報告しろ。なにか……目的があってああしたのだろう」
喋りながら別当は、手の甲を口に押し付けて欠伸を噛み殺した。
呼師は黙っている。
「……お前、おれの指示を待たずに動くつもりだったな」
「御令、気に入らねえかもしれませんがね、前みたいなことを繰り返してちゃあ、うまく行きっこねえですわい。遠からず手駒を尽いて手も足も出なくなりますな」呼師は立ち膝をついて斜に構えた。瞠目する別当をぐっと睨まえて、「で、その後どうするお積もりで? 二人して大内裏に殴り込みますかい。おれァ勿論付き合いますがね、そうされていちばん困るのはあの若造じゃあねえんですかい」
向かいの青年は気色ばむ様子を見せたが、結局ふたたび「別当と呼べ」と繰り返すに止まった。
「御令、あの若造になにを約束されたんだか知らねえが、舞い上がってやしませんかい。あのくそ餓鬼がどうなろうと知ったこっちゃねえが――」
「その不遜な口を閉じろコキリ! 御前を虚仮にする物言いは許さん」と、別当は真っ赤な目を燃え上がらせて呼師を指弾した。「手段はおれが選ぶ。これはお前の為事ではない」
「…………」
別当はじきに頭を冷却して、静かに「報告しろと言ったぞ」と呟いた。
「……壁蝨を一匹、内裏へ忍ばせましてな」
今しあげた大声が何者かを引きつけなかったかと、別当は見えるはずもない土塀の四辺を小心たらしく見回して聞き耳を立てている。彼の衰弱気味の神経が哀れで、呼師はちょっと言葉を切らざるを得なかった。
「忍ばせましてな、ちょいと密奏文を」
「どこのだ」別当が心持ち膝を乗り出してくる。「しかし……よく網を潜ったものだ。おれも再三ためしてはみたが、うまくいかなんだ」
「ああ、ひとを害するくれえのは駄目です。絶対に見つかります。況してあんだけ大騒ぎすりゃ、まず向こうさんも真っ先に呪詛を疑ってかかるから、まあ万にひとつも成功しませんな。――もっと小せえ、取るに足らねえやつを運ばせましてな。向こうさんにしてみりゃ肩透しを喰った体裁てえとこで」と、呼師はちょっと得意になった。「前もって蔵人どもの家宅を総洗いにして、そこの下人ども全員に蟲を潜ませて、そりゃあ手間でしたが、そのうちの一匹が渡りわたってめでたく昇殿相成ったてえわけです。ご苦労なこって、五位壁蝨様々ですな」
「その壁蝨はおれたちよりよほど尊いというわけか」と言って、別当はようやく笑顔を見せた。
「色々やんごとねえ文書を浚いましたが、吉報は陰陽の天文密奏。もっともこりゃひと月ほど前に届けられたやつです。今月の初めだったか、蝕がありましたな。表向きはあれの警告……」
「それで、『裏向き』は」
「朗報。密奏によりゃあ、陰陽頭弓削是雄、陰陽助日下部利貞、神祇大副大中臣有本の大物三人が、多分こないだ撒いた屍鬼どもに漸く引っかかったんでしょうな、四月中隠密裏に京を離れるてえことらしい」
「よし!」
別当は喜び勇んで膝を打った。呼師も笑顔につられて口の端を上げた。さらに続けて、
「神祇伯のおぼっちゃんは残りますが、あんなのァものの数に入らねえ。――ただ、これァおれの推測ですがね、三人一遍には抜けてねえと思います。にしたって、遣り易いことに違えはねえですが」
「屍鬼は何匹つかったのだったか」
「御令……別当が持っていったやつを抜いて全部。七道の要所と、神社仏刹からなるたけ離れた山中に撒いてあります。五十匹近え数ですから、ちったあ時間を稼ぐでしょう。――今月中は堅え、と思います」
「駒は手元になし、か」
「幸い先だっての呪詛の副産物で、方々じゃ死人が出てます。あれを造るのにもちっと手間を喰いますが……ま、そのへんは仕方ねえ、また九条あたりのごろつきに集めさせましょう。ちょいと先立つものを工面して貰わにゃならねえですが」
「それはどうにでもなる」と、機嫌良く言い切った顔が、しかし転瞬たちまち曇ってしまう。どうも別当は顔色まで忙しい。「今月中と言ったな。既に半ばだ、あと半月しかない」
「あと半月もある、と考えなせえ、御令。なあに、あの三人がいねえなら却って詰まらねえくれえのもんです。時間はまだまだある。――忙しねえのは御令の顔色だけだ」
言って、呼師は無理にも明るく笑った。別当も笑った。今度は「別当と呼べ」はなかった。
今月中は堅いと言った呼師であったが、実際のところは全く見通しがたっていない。あるいは屍鬼どもはとうに蹴散らされて、前に挙げた三人は今ごろ自宅の枕頭に憩うているかも知れない。それでもこれ以上、目の前の若者の心労を殖やすことに彼は賛成できなかった。
(なんとかこの機会に一歩でも前進せにゃなるまいて。――なんたってひとりだけじゃねえからなあ)
目下、藤原基経暗殺は最優先事項であったが、謀事の全体から見て重きを置くにしろ、それは一部分に過ぎないのである。足踏みもそうそう長くはしていられない。
「御前もきっと嘉される。そうだ、お前にも褒美を考えておかなければいけなかった」
別当はしきりに赤い目を瞬かせている。呼師は「なにゆっくり考えときますわい」と半ばうわの空で暈かしておいた。
彼は最前から考えていた。このいささか規模の大きい、それも余所事の隠謀を全からしめんが為に考え倦ねていた。良さそうな献策のひとつふたつは温めてあった。しかしそうしてことに備えてはいても、そのこととは別方面の障りから、彼にはこの謀事が成就するとはいまひとつ確信できずにいた。別当――彼にとっての「御令」の執着が、その主な懸念のひとつである。
皮肉な話である。別当がそういった執着を捨てれば、ことの難易度は断然ひくくなるのだ。それでいて別当が為事の報いとして冀うものは、どうもその執着を抜きにして考えることはできそうにないのである。而してなお皮肉なのは、別当がそれに気付いていない、ということであった。
(単独行動は最後の手段。だが、あるいはそう遠くねえうちに使うことになるかも……)
「彼奴らが帰京する前に動かなければ――呼師、哭師は見つかったか」
別当がふいに、まったくいま思い出したような口調でそう言った。言われたほうもそれまで忘れていたくらいであったので、
「哭師かあ、まあまったく影も拝めねえたあこのことで。洛中ことごとく虱潰しにしたんですがなあ、どこにもおりませんわい」
ちょっと誇張気味に嘯いておいた。実のところは吟師に任せきりで、ついに捜索の労を執ることはせずに過ごしている。
「あれはもう諦めなせえ、別当。言師の最後がよっぽど堪えたに違えねえ、今ごろはもうとっくに西なり東なりに落ちていった後でさ。あるいは桂川に浮かんでるなんて――」
「止めろ呼師。わかった。滅入る」
「こりゃ口が過ぎましたかな」
思い兼ねたように俯いて、脂気の乏しい白面を両手でごしごし遣ることしばし、別当は「哭師はもはや当てにすまい」と呟いた。矢場に上げた面は、果たして「別当」のそれに立ち返っている。
「呼師やるぞ」と、若者は奮起した。「歌師と吟師を急ぎ集めろ。明々後日の……丑、場所はこの屋敷を使う。あの二人はとにかくふらふらし過ぎるから、いいか、絶対に逃がすなよ。このうえあれらまで検非違使どもの手に落ちるのは困る」
「歌師にゃよく言い含めて、小遣い稼ぎは已めさせてあります。吟師もまあ、最近は自重してるみてえですし、大丈夫たあ思いますが言っときましょう」
「良く言っておけ。万全を期すために全員の到着を待ってからやる、遅参は今度こそ馘首につながると」
呼師はつらつと応えて、
「御令こそ次もそんな首を持って来られちゃあ困る。御用向きは大概にして、いい機会だ、ちょいと休みなさるがいい。――ひでえ貌ですぜ」
言ってひょいと席を立った。決が出たとなれば、これいじょう話をして彼の不安のタネをいたずらに萌やしてやることは避けるべきである。
「呼師、別当と呼べと言ったぞ」
塗籠を出る間際に言われて、彼はあらためて室内の闇に眼を戻した。別当は疲れた貌に靨を浮かべている。
「夜更かしは止しにして、早うお休みなせえ御令。――まったくそういうとこは母親似でいけねえ」
捨て科白をあとに、呼師は粛々と塗籠から退室していった。
四月十五日 戊午 酉一刻
七条大路に差し掛かったあたりで、馬上の経足が「腹へったっす」と打ちだした。
ちょうど大路の辻に若い物売女が三人、桧物の桶を地面に放り出しておしゃべりに夢中になっている。おおかた彼女らを見て寄り道しようとでも考えたのだろう。
「買わんぞ」道説はにべもない。
「いいっす。おれ買うから」経足はくじけない。
「経足勤務中」冷たく忠岑。
「小腹の減る時間ですな」取りなす昆博。
四人の言い合っている間に、前を歩いていた放免どもの五、六人が、わらわらと物売女の辻へと駆けていく。目当ては商品か売りびとの器量か、依然として検非違使たちの前を守る放免の数人が声高に「鏡みたことあらへんのか」などと喚いているからには、おそらく後者のほうであろう。
「こら駄馬ども、務めに戻れ! 路草くったぶん刑期を延ばすぞ」
放免も徒刑には違いない。彼らにとって「刑期を延ばす」は概ね殺し文句である。道説の喝に従って不承ぶしょう、放免どもは手を振る女たちから離れた。彼女らも退屈していたのか、あながち満更でもない貌をしていたのだが、最後まで粘っていた放免のひとりがひょいと桶の中のものを摘んで走り去るのを見るや、たちまち機嫌を損ねてぶうぶう遣り始めた。
「どろぼうやあ、饅頭返せえ」
「ほんまやあ、検非違使ちゃうんか、おあし払わんかあい」
「検非違使が饅頭盗ったでえ、鬼退治のいっかい検非違使やあ」
とことこ追いすがってくる。仲間の二人も「義を見てせざるは勇なきなり」とばかりにそれに続く。貧しげな放免よりも、銭を持っていそうな大男に食らいつくあたりが、なんとも狡辛い。
「重行さん、こないだ皆のぶんまでまとめて買ってくれたんす。重行さんなら止めたりしないっすよ」と経足。
「そりゃ重行さまと道説さまでは、手綱を緩める機というものが違うのだから……」と昆博。
「なんだ放免どもみたいなことを吐かすな、真面目にやれ」と忠岑。
「その背の負櫃に糲が入っておるぞ、それでよければ囓っておれ」と道説。「ええやかましき雀どもよ。それ、これで文句なかろう」
不承ぶしょう懐を探って、道説は掴みだした銭の十数文を女たちの足下に撒いた。女たちは獣じみた素早さでそれらを拾って、つぶさに銘を検めだした。額に満足したのか忙しいのか、それきり追いかけてくる気配はない。
(ええくそ、銭の乏しきときに……)
武装した男たちはぞろぞろと大路の流れに乗って、進路を西に取った。
前を往く放免どもは弓を持たない。みな似たり寄ったりの萎烏帽子と粗末な布衣とに、飾り気のない腰刀だけを得物としている。辺りを睥睨しながら練りあるく彼らの後ろには、退紅衣に五倍子鉄漿染めの黒い革脛巾と籠手とで身を鎧い、帯びるやなぐいの征矢廿筋と必殺の腸繰一筋、重藤の大弓と衛府太刀とで武装した検非違使火長が三人と、彼らに左右後を囲まれた検非違使尉が並足に揺られて続く。――げにもありふれた検非違使の一行である。
前の物売女などは例外で、大路を徂徠する人びとはあまり彼らと眼を合わせない。道も極めておとなしく、それも行き合わないほどの遠くから譲る。眼を合わせず道を譲って、通り過ぎてから密かに耳打ちを交わすのである。が、これらはなにも彼らの帯する弓箭を恐れるためではない。これほどとみに避けられるようになったのは、どうやらここ最近のことであるらしい。
(法師狩りは好意的に受け取られぬようだ)
検非違使の追捕というものは非常に荒っぽい。彼らは「検非違使」というわりには、ほとんどの場合その場で非違を検めることはしない。まずはなにがなんでも引っ捕らえて獄につなぎ、尋問はそのあとじっくり行う。
追われる被疑者はたいてい、苦使や笞では済みそうにもない重犯罪者がほとんどである。捕まったあとの運命をいやというほど心得ているので、従容と縛につくことなどしない。頑強に抵抗する。もしそれが身に覚えのない人間だったとしても、獄に連れて行かれるまでの運命をいやというほど心得ているので、やっぱり頑強に抵抗する。
ちなみに痛い目に遭いたくなくてじっとしていても、果たせるかな、そんなことはお構いなしの放免どもに頑強に小突き回されるのがオチである。そんなわけで、たとえ晴れて無罪を認められたとしても、たいてい獄を往復したひとというのは歯が折れていたり鼻血を流していたりするのが常であった。
これが人相凶悪なむくつけき大男であれば宜なるかな、京雀たちも口々に褒めそやそうというものだが、このたびの捕り物である法師という人種は、言うまでもなく「法師」然としている。つまり、見た目はたいてい人畜無害そうな、あまり肉体労働に向かなそうな、時には頭の良さそうな、ひょっとすると偉そうな人びとである。巫女もいる。
真偽のほどは定かでないにしろ、彼らのようなものが泣いて無罪を主張するのを、前述した武装集団が寄ってたかって蹂躙する景色というのは、なるほどあまり映えるものではあるまい。けだし衆人が道理の那辺にあるやを取り違えがちになるのも無理はない。
「放免どもを甘やかさないほうがよろしいかと」
右手の忠岑が放免どもの萎烏帽子を睨みつけながらそう言った。
「また鹿丸です。あの曲者めこれで四回目です。道説さまが甘くなさるから付け上がっています。制裁を加えなければ他のものどもも増長しますよ」
「そうだなあ」
「トキさん銭ないんだからやせ我慢しないほうがいいっすよ。他人に衣なんか誂えてやる余裕あるんすか」
「いよいよ困ればお前の衣を剥ぐわい」
「九条にお知り合いがおられるとは初耳ですな。道説さまのご朋輩はたいがい存じているつもりでしたが」
「んん、最近知り合うた」
折々放免どもの奔放を叱りつけながら、一行は揺々と堀川を渡る。東市を突っ切り鴻臚館を過ぎれば、人士牛馬あい往き交う朱雀大路の雑沓は暮色に明るんだ。人気こそなかなか退かないが、陽は傾きつつあった。
「非違検めェ! 非違検めェ!」
との喚声を遠くに聞いたのは、まさに大路を横切らんとしたときであった。
「トキさん捕り物かな」
「道説さま助勢を」
「ここからなら挟撃できますな」
「……あれは」
馬上からは、大内裏の方角からもうもうと塵煙を上げながら走り来る十余名の放免どもと、それらに追いすがられてひた走る若者の姿が見て取れる。追われるほうはすいすいと人びとの合間を縫うのだが、追うほうは誰彼かまわず押し倒す。蹴たぐる。ここに来るまでになにがあったのか、すでに腰の物を抜いて大いに剣呑の態である。
「佑! おおい、佑かっ!」
大男が馬上で伸び上がって大音声を放つと、追われていた若者は地獄に仏とばかりに「道説さまお助けを!」と叫んだ。
「者どもあの青年を守れっ! 昆博忠岑来い、てえっ!」馬腹を蹴る足も荒々しく、大男は真っ先に馬を責めて佑の前に飛び出た。「止まれとまれ放免どもおっ! 左検非違使少尉菅原道説なり! てえっ!」
ただでさえ声のでかい道説が、「止まれとまれ放免ども」のくだりでは大分に声を嗄らして怒鳴ったのである。その巨躯との相乗効果もあって、言われた放免どもはおろかこちらに駆け寄ってきた佑も含めて、そのあたりにいた人びとのほとんどは、まるで疾駆する虎にでも出交したかのように「うわあ」と後退った。
「な、なんじゃ、左検非違使の御大がなんで邪魔を――」
「ええ黙れだまれ狼藉者ども! 善良なひとを追い回しおって、貴様らどこの下部だ!」
遅れて火長たちが大男に追いつく。佑は放免どもの人垣に隠された。
「道説さまここは落ち着かれて」
「まずは話を――放免、お前たちの上司はどこにいる」
「トキさんおっかねえ……」
少尉どのの貌は言うまでもなく、すでに怒れる不動明王のそれである。大喝された放免どもは仏罰を蒙った邪鬼のごとく、すっかり震え上がっている。昆博と忠岑は矜羯羅と制多迦の両童子よろしく、お不動さまの袖を左右で掴んだ。
「道説さま、話は私が」と言って、昆博が一歩前へ馬を進めた。「お前たちはミギか、ヒダリか」
「ミギで。わしらは、あの、平少尉の供で……」
「平少尉……輔広さまか?」
「へい、右京で――」
「どうした、なにがあった!」
突然と声が上がって、「ミギ」の放免たちがわらわらと左右に散った。彼らの間から騎乗した火長が五名と、彼らに囲まれた検非違使尉がやってくるのが垣間見える。
(澄世)
右検非違使の中に見知った顔がある。目が合うと、よれよれの退紅衣の中年男――浄野澄世がにっと笑って目礼を返してきた。
「捕らえたのか」
「あのう、こちらさんが」と、「ミギ」の放免が道説たちを遠慮がちに指した。
「…………」
火長たちに「ここで待て」と言い置いて、単騎で左検非違使の前に進み出た男――平輔広が、
「管少尉、委細話して貰えような」
不機嫌を隠さずに言った。
「公務に協力するならいざ知らず妨害の挙に及ぶとは、左検非違使は右検非違使になにか含むところでもあるのか」
(くそ……それはこちらの科白だ)
「委細もなにもなかろう」妨害云々のくだりは無視した。「貴様らの追い回しているのは陰陽寮のひとだぞ。そのあたりの不良法師とひと絡げにする法があるか」
「その男も同じようなことを主張した。が、我らが今まで捕らえてきた法師どもの幾人かも、似たようなことを嘯いて罪を免れようとした経緯がある。詮議なしにそやつだけ逃がすわけには参らぬ」
「おれが保証する。おれは彼を知っている」
「管少尉の保証は当てにならぬ。鬼霊を斬ったなどと吹聴する輩の保証など」
「…………」
「そもそもこの追捕、そやつが公務を妨害したことに端を発している。そのあたりの話は聞いておらなんだか」
「……佑、まことか」
言われて、佑が放免どもの垣からそろそろと出てくる。輔広を睨みつけながら、「無抵抗の女子を歯が折れるまで殴りつけるのが貴方がたの公務だと言うのであれば」と一息に言い放った。
「輔広、貴様の遣り方に問題があるようだな」
「……そうだとして、それは貴様をしてそやつを庇う正当な理由にはならぬ」
道説、歯噛みして右検非違使尉を睨めつける。火長以下も上司に倣う。朱雀大路の真ん中をヒダリとミギに割って、放免同士、火長同士、検非違使尉同士が睨み合うかたちとなった。大内裏からたまたま輔広たちのあとを慕う形でやってきた牛が二台ほど、うしろであわれ往くも退くもならず、もうもうと所在なげに蠢いている。
「……まずこれだけ言っておこう」と、輔広はあくまで静かに前置いた。「そこの男が陰陽寮の人間であるという確たる証拠がない。またそれを実証できるのなら逃げる必要もあるまい。仮に陰陽寮の人間であったとして、そのことを以て禍事を企てぬという保証とすることはできぬ」
「ではまず陰陽寮に問い合わせて――」
「まずすべきは!」と大声を出して、輔広は道説の物言いに言葉をかぶせた。「そやつに余人が接触できないようにすることだ。管少尉、貴様とて志から叩き上げた非違の一人であろう。情に眼を曇らせてさようなことも忘れたのか」
「…………」
輔広の言い分には一理があった。検非違使が被疑者を問答無用で獄に連行するのは、ゆえのないことではなかった。
武力を以て庶人に警察力を発揮する検非違使は、ありていに言ってあまり好かれる人種ではない。追捕の対象がどのような凶悪犯であっても、見てくれがそれほど悪くなく、ある程度の演技力を具えていれば、事情を知らない衆人の同情を買うのは難いことではなかった。検非違使がこれこれこういうわけで逮捕すると宣っても、人違いだ無実だと泣けばそれだけで、検非違使のほうを指弾する人間も出てくるのである。ちくいち理を説いたとしても、庶人、別けても大勢のそれは、自分たちがわからないこと、わかりたくないことは絶対理解しようとしない。却って感情的になるだけである。
また大規模な強盗や殺人は、多く単独でなされることが少ない。路端で主犯格を押さえたとしても、えてして周囲に検非違使の目を免れた仲間のいることが多い。彼らが口を揃えて犯人の身の証を立てたとしたら、それらを覆すのに尋常でない時間がかかるばかりか、下手をすると論破されて京雀たちの非難を一身に集める事態にすらなりかねない。凶徒追捕は少尉志の為事だが、逮捕の内実を十全に理解しているものは実のところあまりおらず、またその必要もなかった。実際に追捕の対象を明法に照らして非違を判ずるのは、事務官である大尉志の為事であるからだ。
凶徒追捕の則とはすべからく「聞かず利かせず捕らえて隔離」であり、時と場合によってはそこに「殺害」の選択肢も入ってくる、かなり一方的なものにならざるをえないのである。
「管少尉、わかったのならその男を引き渡してもらう」輔広が下部に向かって顎をしゃくった。「管少尉のお知り合いということだ、丁重に縛って差し上げろ」
「待て、待て!」と道説、なおも右検非違使の前に立ちふさがる。「放免ども彼を護衛せよ。輔広、彼の身柄はおれが預かる」
「たわけたことを吐かす前に、まずおのが行為の正当性を証してみせよ、管少尉。検非違使の駄々ほど見苦しいものはない。法の一端を担うものとしての恥はないのか」
(ううくそ、言いたい放題言いおって……反論できぬ)
道説、ひと言もない。相手の言っていることに非らしい非を認められないのである。討論は彼の苦手とするもののひとつであった。
「いで、管少尉。証すべし」
「…………」
「管少尉」
「……彼の身柄はおれが」
「話にならぬ」ひとつ舌打ちをして、輔広は腰のやなぐいから征矢を引き抜いた。それを合図に、火長のうち四人が同様に弓箭を執り、放免どもも上司たちに倣ってぱらぱらと腰刀を抜いた。道説以下、左検非違使たちは及び腰である。
「ト、トキさんどうすんすかっ」あわてて太刀を引き抜く経足。――よほど動顛しているのか、右手の弓にそれを番えようと悪戦苦闘している。「いいの? や、やっちゃうの?」
「澄世さん、輔広さまを止めてください!」忠岑は得物を執らず、しきりに相手方の火長のひとりに訴えかけている。「輔広さまも! 検非違使同士あらそうなんて馬鹿げてる!」
「双方ただでは済みませぬぞ、右検非違使のかたがた」この非常時にも落ち着きを失わないのは年の功か、昆博は泰然として大弓に征矢を番えた。「放免抜け、抜けっ! これは正当な自衛行為である!」
(まずい、くそ、どうすればいい!)
思わず矢柄に手が行きそうになるのを抑えながら、道説は不安げにしている佑を見る。この期に及んでいまだ表情に乱れたところのない、輔広の切れ長の眼を見やる。忠岑の請願を容れたのであろう、傍らで火長の澄世がしきりに説諭を試みていたが、輔広はまったく耳に入れていない様子である。
「黙れ澄世。お前にことの善悪の判断のつかぬはずはあるまい、非は彼らにあり」
「いえ確かにあたしも良かないと思いますが、ここで身内同士刃傷沙汰起こすよりゃずっとましでござんしょう。ここはひとまずあちらさんに預けて、うしろから一緒について行けばようがす」
「聞けぬ。況しておのれがなにをやっているかもわからぬ愚物の言うことなど、なお聞けぬ。あれらは我らが為事を横取りしたのだぞ。おまけにあの法師め――」
「愚物なら輔広さまの目の前でしゃべってる男もそうでして。愚物ならそのあたりにざくざくいますな、賢いひとは愚かものと同じ地平に立っちゃあいけません。堪忍しておあげなさらなきゃ」
「もういい下がれ澄世。――管少尉、確かにここで刃傷沙汰は馬鹿げている。いるが、こちらにはそうするだけの正当な理由がある。そちらにはない。もう一度だけ言おう、その男を大人しく引き渡せ」
(……佑はまぎれもなく陰陽寮のひとだ。引き渡してもいつかは身の証を立てるだろう。――いや、それは保証にならぬとこやつは言ったではないか。法師であることに違いはないのだから、どのみち難詰を受けることは避けられぬ。それも左検非違使が絡んだのだ、こやつは仕置するに、きっと大いに怨恨を加味する……)
「……管少尉の口は飾りか。ものども脚を狙え、放免どもは刃を返せ」
「まっ、待て――」
半ば好奇心から遠巻きにしていた庶人が、両陣営の剣呑を察してあわてて方々へ散る。朱雀大路に緊張が走り、「や、やってやらあ!」と経足が勇み――而して最前からうごうごと所在なげにしていた牛車が、なんの前触れもなく右検非違使たちの尻にのしのし突っ込んできた。
「なにやつ――」
「御通! 御通!」
輔広を筆頭に、追突された右検非違使たちのぶうぶう言い出しかけたのが、牛車の供の警蹕にたちまち押し黙った。
件の牛車、真っ赤な蘇芳簾も鮮やかな檳榔庇に、とろりとした黒塗りの、榻といわず棟といわず格子といわず、並べて黄金・玉細工で飾りたてられた絢爛たる造作である。いかな物を知らぬ人間であろうと、それに乗るのがよほどの貴人であることには思い及ぼう。
突然のきらきらしい闖入者に双方呆然、水を浴びせかけられた形となった。
「庶人が怯えていますぞ。双方とも、その物々しいものをお下げなさい」
「御通、御通」とがなっていた、舎人と思しきやたらと体格のよい男が、単身ヒダリとミギの間に割って入ってきた。身丈こそ道説に及ばないものの、四角張った顔の下はがっちりと太やかな造りで、一見してただの雑用夫でないことが窺われる。
牛車と舎人の登場にいささか面食らっていた輔広が、それでも我に返って、
「……うちにおわす御方、やんごとなき貴顕とお察し申し上げる。路を塞いだは謝罪いたすが、これも公務のうちにござれば、お口出しは無用に願いたい」
堂々と言い放った。言いながらさりげなく征矢をやなぐいに戻した。舎人こたえて曰く、
「民を脅す弓負うを以て靫負を称されますのか、公務を語られますのか、判官どの。禁門を背に叛人を的とするのが靫負の公務であると聞きます。あなたの今なすっているのはその類なのでしょうか。わたしには同輩と諍って武器を振り回して、公序を濫りにしているがごとく見受けられますが、判官どの。さようなことをする人びとを取り締まるのが、あなたがたの公務ではないのですか、判官どの如何」
弁舌さわやかにして淀みない言葉である。輔広、論破されてひと言をも発せない。口の回らぬためにいいように遣り込められた道説としては、心中大喝采を禁じ得なかった。
(ううむ、立板に水よなあ。輔広め、よい気味だわい!――それにしてもこの男、どこかで見たような)
「御前です。双方馬上よりお降りに」
(たしか、そう、太政大臣の御在所にいた……名は藤原なんというたか……太政大臣?)
「おっ、太政大臣!」
牛車に坐す貴人の正体に見当をつけるや否や、大男はひとたまりもなく馬上から転げ落ちた。一拍おいて輔広も同様の手順で道説に倣い、口を半開きにして事態を眺めていた火長たちも我先に下馬する。放免どもはたちまち蛙のごとくに這いつくばり、最後まで馬に跨ってぼんやりしていた経足は速やかに道説に引きずり下ろされた。
「佑、これ、佑! 無礼ぞ!」
めいめい膝をつくなり額ずくなりするなかで、佑ひとりだけが呆然と立ち竦んでいた。道説に注意されるや我に返って平伏したが、その面は時おり盗み見るように、ちらちらと蘇芳簾へ向けられている。
(そうだ、この青年は藤家に含むところがあるのだったか……)
「斎雄、典韋どんの声がしたの」
ややあって御簾の向こうから、老いた、しかし張りのある声が飛んできた。「そうだ斎雄だ」と、道説は心中膝を打った。
「はい、ここにおられます」と、斎雄は大男のほうを向いてちょっと笑った。声をひそめて、「あなたのことです、道説どの」
(……典韋どん?)
「典韋どん、なんじゃ、仲違いしておるのか」
「あ、いえ、お恥ずかしき限りで」
「いかんのう。武器を持っとるもん同士がの、このような往来で喧嘩なぞしたらの、検非違使に捕もうてしまうぞ」
道説、たちまち押さえつけられたように額ずく。ここに最前から黙っていた輔広が息を吹き返して、
「恐惶、諍いの罪は管少尉のみにあらず、卑官にも等しきこと。しかしそのゆえはひとえに、あれなる管少尉が咎人を庇うたにござります」
畏まって言った。
「だれじゃね、今のは」
「は、右検非違使少尉平輔広が卑見つかまつりまする」と言って、輔広は威儀を正して立ち上がった。「咎人を追い、情からそれを庇うた同輩と諍い合うところ、図らずも大臣の見参を得ました次第。理を説かんとして矢を手にしたは、これ卑官が非にて、しかし最初に理非を違えたるは管少尉のほうであると――卑官大臣を偽らざるを以て申し上げますれば、まことこのように言わざるを得ませぬ」
(くそ、輔広め……)
非常に厄介な展開であった。相手をさりげなく庇い、自ら至らぬところを陳べ、しかし非はしっかり押し付ける。輔広の口は滑らかで、かつ間違ったことは言っていない。一方的に悪者にされていても、反駁の言葉をもたない道説は黙るしかなかった。
大臣は「ふうん」と気のない相づちをひとつ打って、
「その咎人とやらはなにをしたんじゃ。物でも盗ったのかの」
「いえ、卑官が公務を妨害しおりまして」
「路で喧嘩する公務をかの」
「……いえ、正当な手続きの元に行われた追捕にござります。おおかた仲間のひとりであったのでしょうが」
機とばかりに道説立ち上がって、
「無抵抗の女子を――」
「管少尉、今はわたしが申し上げている。今すこし黙したまえ、すべて話し終えたらわたしはそうするから」
「う……」
逆襲しようとするも、あっけなく抑えつけられてしまった。こればかりは太刀を振り回すようにはゆかない。
「折しも法師摘発を厳にしている最中にて、ましてその男――」
「ま、よいじゃろ、免じてやるのじゃな」
なおも言い募るのを、大臣は煩げに遮った。心底どうでもよさそうな口ぶりである。
「は、しかし明法に――」
「免じてやればよい」
「仰せですが、彼奴のみ逃してはこれまで――」
「ええ喧しき男よ」と、大臣は大きな声を出した。「わしは免ぜよと言うたぞ。それでもなおどうでもその咎人とやらを連れていきたいと言うなら、証拠を持って堀川院まで出頭せよ。金吾どんも呼んで誰にどれだけ非があったかとことんまで追求してやるわい」
さすがの輔広も顔色を変じた。大臣の言う「金吾どん」とは、この場合おそらくは左衛門督――検非違使別当源能有のことであろう。ささやかな捕り物の顛末を審問するというそれだけの為に、事をあの華美の要塞のごとき大豪邸の真ん中で、一位三位の雲上人の前にただひとり畏まるような大事に発展させるのは、たとえどれほど持論に自信があったとしても「それはそれ、これはこれ」である。
「どうなんじゃ、『卑官』どん。わしはどちらでもいいぞ」
「……いえ、大臣がお心のままに」
輔広は折れた。而して道説のほうへ多分に恨みの込もった眼差しを向けた。さだめし道説と大臣の誼を疑い、依怙の沙汰を疑っているのであろう。これまた厄介な展開であった。それが輔広の誤解かと言えば、道説にも否定しがたいのである。
(輔広のやつ、これでなおいっそうおれたちを疎んずるようになるであろうな。大臣もいま少し公平にお計らい下さればよいものを……)
かかる事局を打開する手立てを持たなかった道説ではあるが、大臣の計らいはまったく有難くも迷惑でもあった。
「さあ、諍いのタネはなくなったのですから、各々がた粛々と公務に戻られますよう。我らがここに陣取っていては往来の邪魔になります」
斎雄が手を打って解散を促した。道説を睨んでいた輔広は、視線を転じて佑へ火の一瞥を送り、「ものども使庁へ戻るぞ」とひとこと宣うや馬上のひととなった。
「管少尉も速やかに公務へ戻られるべし。――佑とやら、二度はないと思え」
捨て科白も棘しく、輔広以下右検非違使たちは踵を返した。上司の意を体してか、左検非違使たちを後目に見る、彼らの視線は冷たい。
「……澄世、たまには顔を出せよ」
最後尾の火長は口こそ開かなかったが、振り返って会釈を返した。
「典韋どんは検非違使に向いておらんのではないか」
とのひと言を残して、大臣は朱雀大路を下っていった。
「佑、怪我はないか」
「いえ、このとおり」
このとおりもなにも、佑は尾羽打ち枯らした散々たる態をしている。幾度か追いつかれて揉み合ったのだろう。顔に出たのを見てとったか、青年は道説に向かって「大事ありません」と両手を広げて見せた。
「道説さま、お知り合いのようですが……」
訝る火長たちを代表して、昆博が佑の紹介を求めた。牛車が去るまで待っていたのだろう。三人とも右検非違使たちとのいざこざの原因になった青年を、あまり良い目で見てはいない。放免どもの顔などにはみな一様に「誰だこいつは」と大書してある。
「おお、このひとは陰陽寮の、あー、陰陽師でな。……それ経足、お前には話したことがあったであろうが」
「ああっ、羅城門の! へえー」と経足。その瞳にはや不審のいろは見られない。「あれっしょう、トキさんと一緒に、えーと、鬼どもをなぎ倒したんだっけ」
「……いえ、わたしは陰陽師では」と佑、妙に寂しそうにしている。
「佑どのといいますか」と忠岑。経足ほど無邪気にはなれぬようで、彼はいまだ一抹の不審を眉根に刻んでいた。「お考えあってのことでしょうが、検非違使の追捕を邪魔するのは危険ですよ」
「まあ言うな忠岑、輔広の遣りようも非道かったのであろう。義を見てせざるはなんとやらだ」
「お言葉ですが……」と昆博。道説に言うというより、むしろ佑の短慮を窘めるといった口調で、「輔広さまはやや極端ではありますが、はきと非違の明らかならぬうちは、決して手を上げたりなさらぬお人です。無抵抗の女子などと言っておいででしたが」
「ええ、はい、追捕の対象は男のようでしたが、そのあと家から男の娘が引きずり出されてきて……」
「殴られた?」
「ええそれはもう。放免どもが、こう、男の首に刀を擬して、逃げたらこいつを殺すと女を脅すんです。彼は娘はなにもしていない、許してくれと言って泣いていました。非道い有様だった。女は誰彼かまわず助けを乞うて……」
昆博、しばらく思案気にしたあと、
「……現場を見たわけではないのでしかとは言えませんが、おそらく追捕の対象はその女であったのだと思います。男は親と言うよりはむしろ……恋愛関係にあったのではないでしょうか。いずれにせよ共犯者、それも親しい間柄の人間ではないかと」
「なぜそう――」
「現場は右京三条の辺りでは?」
「……右京、三条、ええ、その辺りかな」
「あ、へぎ蜘蛛?」と経足。
「へぎ蜘蛛」と忠岑。
「……佑、その女は逃げたのか」と道説、聞きながら頭を抱える。
「はい、逃げました……」と困惑顔の佑。
(もし『当たり』なら……これは輔広が怒るのも無理がないわい……)
へぎ蜘蛛とは、とある盗賊団の首領と目されている女強盗のあだ名である。夜暗にまぎれて数十人規模で右京を荒らしまわり、久しく検非違使の目の敵にされていた重罪人であった。首領格が若い女であることも、右京五条以北に潜んでいるらしきことも、すべて右検非違使たちの飽くなき追跡と執念が齎した情報である。
ちなみに名前の「へぎ」とは、手下どもの犯行に及んで女を姦すること甚だしき手口からつけられたもので、そのほか強盗傷害殺人付火治安攪乱とその狼藉きわまって収まることなし。まさに犯罪の見本市であった。無論、その罪の軽重を問えば「苦使や笞では済みそうにもない重犯罪者」に該当するであろうことは間違いない。というより、見つけ次第その場で処刑されてもおかしくないほどの大首級である。
「まあ、佑どのも知ってそうしたわけではないのですし、その女がへぎ蜘蛛であったという確証はありませんし……」
昆博はあわてて、自分で言ったことを自分で取りなし始めた。口ほどにもなく「当たり」であったであろうことを悟ったに違いあるまい。いくら検非違使の遣りようが荒っぽいと言っても、親しい人間を捕らえて「逃げたらこいつを殺す」などと恫喝するのはよほどのことである。
「まあ、そのなんだ、大臣がいらしてくれてよかった。おれだけであったら血を見ていたやもしれぬ。佑も感謝せねばなるまいが、なあ」
道説が「大臣」の話題を振るなり、佑はちょっといやな顔をして「道説どの、お勤めですか」とあからさまに矛先を逸らした。
「ん? おお……いやな、勤めは勤めだが」
(やはり大臣を好かぬようだ。陰陽頭さまになにを吹き込まれたかは知らぬが、こりゃ根が深そうだな)
「ちと私用で――おおそうだ、佑よ、いま時間はあるか」
道説は答えを待たずに経足を手招いて、彼の背負っていた小振りの負櫃を示した。
「……これは」
佑が櫃の中に見出したのは、麻のひと揃え――下ろしたての水干と袴、単衣に帯、その他若干の干物の類であった。
「季満がまだ寝込んでおるだろう。あれが衣を盗られて着るものがないなどと言っておったので、ちと誂えさせてみたのだ。それ、広げてみよ」
「トキさん太っ腹」
「黙っておれ。――どうも、あれの体格がようわからんでの。大きくはなかろうかな」
「いえ、こんなものだと思いますが……道説どのがこれを、その、ご自分で?」
「馬鹿を言え」と笑ってほどなく、佑が裁縫云々ではなく代金について言っているのだと気付いて、「ああいや、そうだ。――代は、そうだ」
道説の背後で忠岑が噴き出し、間を置かずそれに和する経足、昆博の声が上がった。てんでに顔色を変える検非違使たちを見遣って、佑は笑いたいような泣きたいような奇妙な表情を浮かべている。
「その……季満に代わりまして、お礼を申し上げます」
言って、青年は烏帽子頭を深々と下げた。「あ、これ、またそういうことをする!」と、道説とびあがって大いに恐縮の態である。親しく言葉を交わすようになったからといって、どうも学への尊敬の念が消えたわけでもないらしい。
「ええお前が頭を下げることはなかろうが、おれもやりづらいし――こら貴様らいつまで笑っておる! 経足っ!」
「なんでおれだけ……最初に笑ったのミネさんなのに」
「で、佑よ」ようよう佑の烏帽子を立てて道説いわく、「そのなんだ、お前がこれをあれの処へ持っていってくれると助かるのだが」
「届ければよろしいのですか? それくらいならお安い御用ですが……」
青年は相変わらず妙な顔をしている。
「うむ頼む。おれも顔を見に行こうと思っておったのだが」
「勤務中すけどね」
「経足あとでその口を縫ってやるから覚えておけ。――なに、前のようなことがあったからな、左検非違使が右京に行くのは避けたほうがよさそうだ。ひょっとすると彼奴らめ、あとを付けてくるかもしれぬ」
「そうですね、そうしたほうが」
「では頼むぞ。もしまた輔広めがなにか言ってくるようであれば、大臣が名をお借りするのだぞ。道説にそうせよと言われたのだと、そう言え」自らの口調に得意げなふうを見出して、道説はじきに「我ながら狐借虎威の類ではないか」と恥じた。「……経足、それを佑に」
佑は案外すんなりと道説の提案を呑んだ。が、頬がどことなく意味深に持ち上がっているように見える。道説のささやかな僭上を侮ったか、大臣の名を使うことに抵抗あってのことか。経足から受け取った負櫃を背負ったあとも、佑の表情は変わらないままであった。
「みな、このまま大路を上らん。放免ども先往け。――ではな」
「ええ、また」
佑は検非違使たちと背中合せに大路を下っていった。
「トキさん」
「なんだ」
道説は火長のほうを見ず、背中越しに佑の烏帽子が上下するのを見守っている。
「おれの口を縫うって話」
「おお」
「――トキさんが、その、ご自分で?」
と、経足が佑の言葉を真似たとたん、ふたたび忠岑が盛大に噴き出した。昆博がそれに続き、そろそろ良かろうと経足が大口を開け、
「あっ……佑、お前までなんだ! これ!」
道説は背後に佑の大笑いする声を聞いたのだった。大路のど真ん中でしゃがみ込んで身をよじって、櫃が横になるのも構わずに苦しげにしている。
「も、も、申し訳も……!」
「腹いてえ! トキさんほんとに――!」
「こざかしっ!」
不動明王の大雷撃が若き火長の烏帽子頭に炸裂した。
そののち使庁に戻るまで、直経足は通夜のごとく押し黙ったままひと言をも発しなかったという。――彼をして「しばらく左目が見えなくなったっす」と述懐せしめるほどの、それはもの凄い一撃であったそうな。
次話投稿に五十四日はバツだろう。