Hello Miyako II
一月八日 壬午 子四刻
雲ひとつない夜空に、薄氷を切り抜いたような弦月が貼り付いている。
吸い込めば肺も凍てつこうかと思えるほどの、冷たい夜気が満ちている。深更の羅城門を前に、季満はがたがた震えながら、しきりに足踏みを繰り返していた。
手には小さな麻袋と、紐に下げた瓶子がひとつ。
「足に霜が降りそうや……」
足駄の歯の石段をたたくかつかつという音が、羅城門にぶつかって無音の闇に響きわたる。低い石段を上ってしまうと、おぼろな弦月が甍に隠れ、あたりが急に暗くなったように感ぜられた。
「死体があらへん……」
(しっかし、こら鬼が出てもおかしないな)
目の前には手垢にまみれ、無数のひっかき傷をつけられた六本の丸柱。軒下に設えられていた五つの扉のあらかたは、すでに毀たれて薪の代に持って行かれてしまっている。洛中と洛外を吹き抜いて分かつ、そこは奥行二丈六尺の闇の世界であった。
首をすくめ、肩を縮こまらせてそろそろと歩きながら、季満は門の中に向かってぱらぱらとなにかを撒き始めた。三回に一回は自分の口の中に放り込んでいる。
左手の麻袋に入った雑穀ふうのそれは、麻の実であった。
「いや……すごい臭いやな」
ぱりぱりと麻の実を食べながら、季満はかたちのよい眉をしかめた。
門の中はさほど広くもないというのに、夜更けであるという理由だけでは説明のつけようもないほど冥い。
といっても足下に月光が差し込んでくるので、鼻をつままれてもわからない、というほどの真の闇ではない。そこここに散乱している骨の欠片や、想像したくもないなにかに纏わった頭髪のかたまり。かつて人間であったもののなれの果て、死の顕現であるそれらが、空気を黒い粘質のものに変えてしまっている。
元は白かったであろう石床や、漆喰壁の下部も、へどろを塗り込めたような汚らしい色合いに変貌している。清掃の手も絶えて久しい様子である。羅城門周辺にただよう異臭が、門内の白を汚して新しく塗りつけられた、その丹の由来を物語っている。死者の穢血と腐汁――羅城門は呪われた塗料に彩られて、鬼門へと生まれ変わりつつあった。
「死体もなし、鬼も……見えへんな」
季満は手首に下げていた小さな素焼きの瓶子を取ると、その中身をかるくあおった。口をゆすいでその場にぺっと吐き出し、また瓶子を少し傾けて両手を念入りに洗う。
それが終わると、季満はいったん門を通り過ぎ、南側から再度入ってきた。
「吐菩加身依身多女波羅伊玉意喜餘目出玉」
ゆっくりと神咒をつぶやきながら腕を左右し、少しずつ瓶子の中身をあたりに振りまく。幾度か同じ事を繰り返し、瓶子が空になると、
「木気は将に克らん、土気は疾く去らん、急ぎ急げ律令の如く」
足下に一枚の符を置き、今度は麻の実を撒きだした。これもなくなるまで繰り返す。
時は丑二刻をまわっていた。
俗に「草木も眠る」と言われる時刻に近づきつつあった。深更である。風のそよとも吹かぬ、木枝のさやとも鳴らぬ、静寂につつまれた羅城門に、季満のかん高い声だけがいや増しに響く。
やがて手持ちの具がすべてなくなってしまうと、季満は一度背伸びをし、瓶子と麻袋を床に置いてうずくまった。
(楽な仕事やったな。延然の坊さん、妙な言いがかりつけなんだらええけど)
「今年今月今日今時、時上直府、時上直時、時下直府、時下――」
ぱき、という物音に、季満は祭文を止めて飛び上がった。木の枝を踏んだような、乾いた音である。
(外か?)
次いで天井からどん、どん、という重い音がし、二、三のくぐもった声が聞こえる。凍りついたまま、季満は首だけを仰向けた。
どうも楼上に誰かいるらしい。
(上か。誰か、やのうて、なにか、かもな)
西側の天井の隅に、ちょうど人がひとり通れる程度の穴があいており、極めて雑なつくりの竹の梯子がかけてあった。水干の袖をからげ、足駄を脱いで裸足になると、季満はそろそろと竹の節に足をかけた。
みりっと危うい音がする。
羅城門の楼上へ上がるのは初めてのことである。季満の家はここからさして遠くない位置にあるのだが、羅城門に近づくことはあまりなかった。鳥羽や宇治へ向かう用事もなく、左京に行くにしても縁起が悪いので、普段は避けて通っている。
(たしか毘沙門はんがいやはるんやったか)
話によると、楼上には唐から渡来したという、兜跋毘沙門天の木像が安置されているのだそうな。毘沙門天はまたの名を多聞天といい、仏教においては四天王や十二天のうちにかぞえられる重要な神様である。
仏敵を退治る武神であることから、鎮護国家のために安置されたようだったが、どうもあまり御利益のほうは期待できそうにない。
二階には明かりがあった。板目に白く埃の目詰まりした床に、油皿に取っ手をつけた手燭が置いてある。
人がいる。
「誰だ」
男が振り向き、身構える気配を感じる。するどく誰何されて、楼上に首から上を出したまま、季満は動きを止めた。若い男の声には聞き覚えがあった。
「……佑?」
問いかけに応ずる声は、男の肩の向こうから飛んできた。泣き叫ぶような身も世もない絶叫とともに、男が季満に飛び掛かってくる。
「季満、降りろ! 降りろ!」
男――佑は埃をまき散らして季満の目前で転げると、立ち上がりながらそう言った。どうも飛び掛かってきたのではなく、後ろにいた何者かに突き飛ばされたようだ。
「なんや……あら」
こつんと手燭が蹴られた。火が油にのって床にわだかまり、佑を突き飛ばした張本人を闇に浮かび上がらせる。
毘沙門天の木像を背に、奇妙な格好をした大柄な人間が立っていた。
顔を案摩の雑面のような布で覆い、黒い、これまた舞人のような装束に身をつつんでいる。最前からむせび泣くような声が、高い位置から降ってきていた。背が異様に高い。少なくとも季満の倍はあるだろう。
「季満はやく――!」
「佑、後ろ!」
梯子に掴まったまま、季満は懐の中の符を一枚、握り潰して面男に投げつけた。丸められた符はたよりなく弧をえがき、佑の耳の後ろあたりでぱんと弾ける。
「…………!」
破裂音に佑は片耳を押さえ、彼に肉薄していた面男は、音に驚いていったん後ろに飛び退った。濡れた布面の下端から、よだれとも血ともつかないなにかが滴っている。うーうーと唸っている隙に、季満は梯子から楼上へと飛び上がった。
「行けと言うのに!」佑が刀印を結んで季満の横へ並んだ。
「……こんなとこでなにしてんにゃ、お前」
「お互い様だろう。――季満、下でなにかしたか」
「……した言えばしたけど」
鋭い舌打ちが季満の言葉にかぶさった。「緩くともよもや許さず縛縄」
面男が悲鳴をあげる。床を侵す火を一顧だにせず、びっこを引くようにして二人のほうへ歩いてくる。声だけを聞いていれば、まるで助けを求めているかのよう。
「不動の心あるに限らん、臨兵闘者皆陣裂在前」
忙しく早九字を切ると、佑は袖をはためかせてなにかを引っ張るような仕草をした。途端に面男の左腕が、なにものかに掴まれたように持ち上がり、空中に縫い止められる。
「行け、季満。門から出ろ」
「あほゆうな、これ見といて置いてけゆうんか。それに仕事が――」
「やれるものならお前が来る前にやってる!」
こう言われては、季満としては黙るしかない。
泰佑は陰陽寮という、式占、造暦、天文占筮などを司る機関に所属していた。二年足らずで寮を飛び出した季満とは違い、正規の陰陽師ではないとはいえ、彼はその中の陰陽得業生という地位にいる。
陰陽得業生とは、陰陽博士に師事して陰陽道を学ぶ、十人の陰陽生という学生から選ばれる成績優秀者のことである。平時は陰陽生と一緒に勉学に励み、また教師である陰陽博士の補佐をして教鞭を取ることもあった。ために官人である陰陽師たちに劣らぬ「藝」を持っており、どちらが術の達者かといえば、はっきりいって季満とは比べるべくもない。
佑を放っていくこともできず、季満は彼の言葉を無視してその場にとどまった。
面男は暴れていた。虚空に固定された左腕を基軸に、泣き叫びながら手足を振り回している。ちょうど欲しいものが手に入らない子供がだだをこね、腕をつかむ親に向かって無茶苦茶に打ちかかっているかのような、不気味と滑稽が入りまじった眺め。
(生半可な呪が効くとも思われへんし、長々と加持してる時間もあらへん。いや、そもそもこいつは――)
佑の舌打ちが耳を打った。面男はあろうことか、自由にならない左腕に噛みつき、食いちぎろうとしていた。かじり、引っ張り、またかじるという、とても人間の所行とも思えぬ行為を、飽かず繰り返している。血の飛沫があたりに散り、床の小さな火の池に落ちて焦げたような音をたてた。
「佑、こいつ、鬼なんか?」
「……わからない。議論している暇はない、お前だけでもはやく――」
食い破られた布面がはらりと落ち、繊維質のなにかが轢断されるような、いやな音が響いた。ひろい足が火の床を踏み、暫時明かりが小さくなる。その火が旧に復すか否かという瞬時、片腕をなくし顔をあらわにした男が、倒れかからんばかりの勢いで季満へと殺到してきた。
「お、オンバザラギニ――」
「くそっ、爾時大会有一明王是大明王有大威力――」
季満のたどたどしい陀羅尼を遮って、佑がすばらしい滑舌で経を誦する。
男の顔には目も鼻もついていなかった。
異様にながい手が、季満の頭頂を擦過して振り抜かれる。頭のうえにのっていた折烏帽子が、つかみ取られるようにして消し飛んだ。しゃがみこんで一撃をかわした季満の顔に、男のあごの先から滴ったなにとも知れぬ汁がぱたぱたと散る。
強く死臭がにおう。男の顔には目鼻はおろか、唇や頬の肉も欠けおちたようになくなっていた。黒い衣装の襟元からはかすかに、あらわになった鎖骨が垣間見える。いずれも鋭いもので削いでおとされたふうはうかがえない。死体をそのまま放置して、野獣についばまれればかくもなろうか、といった態である。
そのまま横飛びにとんだ季満の髪を、男の右手が捕らえた。
「いやっ……ハラネンハタナソワカ!」
ぐんと髪を引き寄せられ、後ろ首に噛みつかれるのと、被甲護身の陀羅尼が完成するのとは同時であった。ほんの数瞬だけ季満の肌は甲のごとくになり、男の黄色くよごれた歯の侵入を阻む。
「痛い痛い! 佑、助けてえ!」
なかば狂乱におちいって季満が叫ぶと、ふいにからだに覆いかぶさっていた重みが消えた。
「おおっ!」
佑が誦経を中断して、驚きの声を上げる。
突っ伏した季満を背にかばって、水浸しの単衣をまとった、振り分け髪の女童がこつぜんと現れた。童子の頭突きをもらった男はもんどりうって二丈も吹き飛び、甲をつけ、邪鬼を足に敷いた毘沙門天の足下にまろんだ。
童子の単からにじみ出る水が、床の一角を領していた火をせめぐ。血の焦げたような臭いが、闇にまじってあたりに漂った。
「ああ……おおきありがとうな、ミヅキメ。来てくれてたんやな」
ミヅキメと呼ばれた童子は、目をつむったままアーとつぶやいた。
「季満、それは?」
佑があっけに取られたように言う。
「佑、この子ォが見えるんか。ああ、血ィ出とる……」
後ろ首にあてた手のひらには、血がついていた。大した傷ではないようだったが、ミヅキメが間に合っていなかったらどうなっていたことか。
火が消えてしまったために、男の姿は目視できなかったが、とりあえず奥からは泣き声も物音も聞こえてこない。当たり前の静寂がいつの間にか還ってきていた。
「やったんかな。――ミヅキメ、ようやったなあ。もうええよ」
季満がそう労うと、童子はまばたきの瞬間にふっと消えてしまった。床を浸す大量の水だけが、まぼろしではなかった証として残っている。
二人は闇の中で、安堵の溜息をついた。
「なんやようわからんけど……なんとかなったんかいな」
「季満、どうしてここへ?」
ずるりとくずれるように尻餅をつくと、佑が呆けたようにそうつぶやいた。明かりが消えたばかりなので夜目が利かず、ようやくお互いの体の線が把握できる程度である。それでも季満にはなんとなく、佑が笑っているように感ぜられた。
「そらこっちの科白……ゆうても始まらへんな。延然の坊さんに頼まれたんや」
「延然って、東寺の、延然上人か?」
「うん、その延然坊主。いやあ、佑がいて助かったわ。おれ一人やったらそいつのえさになっとった。――で、そっちは?」
「おれはね、仕事さ」佑は再度、しかし今度は疲れたような溜息をついた。「……年始に奉った具注暦に誤りがあったとかで、官師たちはここ二、三日のあいだ、昼も夜もなくてね。それでおれにお鉢が回ってきた」
「……あいかわらず融通がきかへんな、あのカミは。黙っときゃ気付かへんやろに」
具注暦とは陰陽寮が作成する、一年の吉凶趨勢を刻み込んだ暦のことで、正月に行われる御歴奏の折、帝に奏上されるならわしとなっている。
暦の作成は陰陽寮の仕事の主なものの一つで、時間がかかった。その製法も複雑怪奇にして専門的で、作業に当たる人間には、陰陽道だけではなく数学的教養や天文占星の豊富な知識も要求される。
「四部と博士、官師、暦生は総出、天文と陰陽の学生からも手の空いた者は全員駆り出されて、昨日も徹夜さ。もう一度、初めから全部やり直してみるらしい。季満もいたら今ごろ……居眠りして笞もらってただろうね」
言葉には力がこもらず、中途であくびが交じった。彼自身もこの数日の間、膨大な作業を任せられて文机の前に座っていたのだろう。あるいは徹夜明けの身で、門の調査を押し付けられたのかもしれない。
「えげつないな、カミは。おのれが言い出したこと学生にやらせくさって」
「勘違いするなよ」内容とは裏腹に、佑の声はいっそう柔和になった。「お前を疎んじてこんなことをやらせてるわけじゃないんだ。それだけは、きっと誤解してほしくないと思ってる」
陰陽寮は、禁中諸事をつかさどる中務省に属している。言ってみれば朝廷専属の機関であり、市井の怪奇現象の調査など行わないのがふつうであった。たいていそういうときはほとんどの場合、京に点在する民間の陰陽法師のもとへ駆け込むか、京識を経由するなりして東西寺、延暦寺を初めとする洛内外の諸仏刹へ祈祷調伏の依頼が行く。寺まで話が行ったとしても、たいていは前述の陰陽法師に下請けに出されることがほとんどなのだが。
そういったときに現場へ赴くのが、季満のような人間達であった。が、市井ににわか陰陽師が増え、あるいは名を上げるのを快く思わない者も当然いる。
季満の言うところの「カミ」、陰陽頭弓削是雄もそのうちのひとりである。二年ほど前に陰陽頭に就任した弓削是雄は、これまで誰も、すくなくとも表立って手をつけなかった「民間の怪異調査」に積極的に取り組みだした。
季満が寮を飛び出した半年前くらいから、それはとみに繁くなっている、と季満は勝手に思っていた。季満にしてみれば、無償の、それもその道に長けた専門職がしゃしゃり出てくるのは営業妨害の極みであり、また心情的にもいやがらせとして受け取ってしまいがちである。
さる理由から、季満は弓削是雄に大きな恩義があったのだが、ここのところ心証は悪くなる一方だった。おかずが一品減れば「陰陽頭はアホや」と公言したし、仕事の報酬が少なければ「弓削是雄はトンチキや」と喚いてはばからなかった。
「どうやろな、おれの背中と腹がくっつくの、待っとんのとちがうか。腹が減りゃ尻尾ふって帰ってきよる思とんにゃろ」
「このあいだ――」
佑が言葉を切った瞬間、いきなり肩を突かれて、季満はそのまま後ろ向きに転倒した。
「なにすんにゃ――」
「動くな、季満」
人の変わったように切迫した声が、頭上でささやかれた。佑の輪郭が視界を占める。背にかばうように季満の前に立ったらしい。
毘沙門天像のある奥からかすかに、すすり泣くような声が漏れてくる。
ひょろりとした影が立ち上がる。男の声に語りかけるように、佑がゆっくりとなにごとか呪を誦しはじめた。なにか人間以外のものが互いに会話を試みているような、先刻の殺伐とした空気とは無縁の空間。
佑が低く「オン」と唸る。男はそれを合図に、なんの前触れもなく右手の連子窓に突っ込むと、丹塗りの格子をぶち破って外に飛び出ていってしまった。二人はあわてて破れた窓に駆け寄る。
「くそっ、まずい、洛中に――!」
佑が痛恨を叫ぶ。へし折られた楼上の勾欄が階下に落ち、かわいた音が九条大路に響いた。