The wailer V
四月七日 庚戌 午二刻
なにか言いあぐねるような様子を見せたあと、定省は溜息まじりに「少し離れよう」と言った。
この場合の「離れる」は、ここ松原に掛かるものではあるまい。彼もまた見ていて辛いのであろうかと道説は思った。
「なんとなくな、お前が来ていそうな気がしていた」と言って、定省はどこへともなく歩き出した。小柄な体躯にややあまる太刀を掴んで、落とし物を探すように目を伏せている。「先日まで平野に梅宮に祭事つづきであったが、病を得たと言うて供奉せなんだ。――侍従にまじきことよな」
侍従はその言葉のとおり、つねに帝の御側ちかくに侍り従い、平時にあっては話し相手や相談役を、有事の際には護衛をつとめる高貴な職である。正五位下源定省は今上の第七皇子、世が世ならば親王と呼ばれるやんごとなき血筋であった。
今上は即位にあたって子らを臣籍に降ろしたため、定省は源姓を賜り、今はその皇族たるを失っている。が、周りのものたちはその素性から、彼を皇族の侍従を指す「王侍従」と呼んだ。
「どうだ、その後」
傷のことを言っているのだと気付いて、道説は「は、ほぼ快癒したものと」と答えた。
定省のいらえはなかった。黙ったまま早足で歩き、歩きながら今度は、後ろ手に腕を組んで松の枝葉を仰いでいる。
(定省さまらしからぬ様子だ。見舞いにきたときの話などと言っていたが……)
なんとなく、定省は落ち着かなげに見えた。慌てているひとが外面上落ち着きを取り繕わんとしているような、厚壁をへだてて聞こえてくる喧騒のような、静かな焦燥が背を透いて見えるようでもある。
「舅どのが心配しておったぞ。娘が尼になるのではないかと気が気でないそうだ。罪な男よ」
不意をつかれて、たちまち大男の面が赤くなった。
「あ、いえ、それはその……弱りました。そのようなことまでお聞き及びとは……」
定省の言う「舅」とは、橘広相のことであろう。久しい以前から彼の学問の師であり、娘のひとりを彼の室に入れている。広相当人が知らせたものか、それとも珠子が姉に文を送ったものか、
(広相さまか、いや、珠子どのであろうな。なにもかかる言わでものことまで漏らさずとも……)
「妻が妹のことだぞ。彼女も妻も、よほどお前の身を案じていた。――太政大臣に葛城高宗を紹介されたそうだな」
「はい」
「このほどは患者の脈をとる手も震えるそうな。酒毒の病よ。あのようなやぶを頼らずとも、わたしがいくらでも腕のよい医師をさがしたものを」
言って、定省はようやく立ち止まった。振り返って「遠慮したのか?」と笑う。
松原の外周とおぼしき、若松のぽつぽつと散見されるそこからは、外縁部の緩やかに湾曲した真言院の甍が見えた。二人はどうやら内裏に向かって歩いてきたようだった。
「……ひとを斬るには、さて、どうやるのだったかな」
おもむろに腰の太刀を抜いて構えると、定省は独りごとのようにそう呟いた。いつにない突飛な挙動に言動。やはり常の彼とは思えない。
「……腋を締めて、いま少し。手打ちになりますれば、斬れぬ上にも手首を痛めます。――もっと、振るう時も腕は伸ばさずに」
まともな答えが返ってくるとは思っていなかったものか、定省はちょっと笑いを堪えているような妙な表情を浮かべている。
「ふん、こんなにくっつけては……これはよほど近づかなければならぬな」
「さようにございます」得意な方面の話題である。いぶかりながらも、道説の舌は知らず饒かに動いた。「剣は多く防禦にその主眼を置きますれば、これにて並居る敵を打ちのめさんなどと考えるは下策にございまする。近づけばそれだけ、害される危険も増しますゆえ。くれぐれも下手に斬りつけようなどとはお考えになられませぬよう」
「魚腸の主催者たるお前が、太刀にて攻め撃つを下策と申すか」
「下の下にて。太刀とはどう言い繕おうと畢竟、命の遣り取りには向かぬ代物。道説が剣とは、加えられた危害を禦ぐためのもの。その刃にて相手を威嚇し、戦意を挫くためのものにございます。そう……その太刀には刃が付いていない、そう思われませ」
「……初めて魚腸にきたとき、同じような事をお前に言われたな。『生き物を殺したいのなら弓を習え。剣は練りがたく扱いづらく損じやすく、殺しにくい。間尺に合わない』などと。――覚えておるか」
「はい。今もその考えに変わりはありませぬ」
「……長恭にはわかっておらなんだようだ。気付いていたか?」
「…………気付いておりました」
誘導であったのかと、道説は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「あれの顛末は、聞いたか」
「いえ……」
定省は抜身を手にしたまま、佇立する大男の周りをゆっくりと巡りだした。
「お前が葛城高宗の屋敷へ運ばれたのちのことだ」と、定省は前置いた。「夜明けから午前中までは、少なくとも身体上の異変はなかったという。だが昼になるとにわかに高熱を発し、ほどなく意識を失った。原因はわからぬ。総身は黒色を帯び、物の怪だった様子で悲鳴のごとき譫言をわめき散らし――夜半に及んで右腕が骨ごと腐って落ちた」
「…………」
「穢毒が全身に及ぶかと、一時は家中のものもみな絶望視したそうだ。が、夜が明けぬうちに小康を得、明けてよりのちはまったく平素の通り、体調も不思議と旧に復したという。失った腕と、声を除いてな」
「…………」
「……診察した医師は、最後までなんら効果のある医療は施せなんだ。病昂じるに至って呼び寄せた僧は、魔羅の成したる禍事などと判じた。付き添っていた土師某とかいう法師の見立ても、似たようなものであったらしい。――お前が紹介した法師ということだが」
「さようにございます。土師季満と申すものにて……あれが長恭どのの屋敷に?」
「うん、褒美を受け取りに来ていたらしい」ちょうど大男の体を一周して、定省は彼の正面に立った。太刀は抜いたままである。「御父君の籐大納言さまが、息子の重態に甚く悲憤なされてな、さんざんに鞭うって追い払ってしまったということだが」
「季満が……」
(無念……この身が呪わしい! なにが貧乏くじを引いただ、一等しあわせにのうのうと暮らしておったのは貴様ではないか、道説っ!)
道説は歯噛みしてうなだれている。しばしの沈黙を過したあと、にわかに笑い含みの声で名前を呼ばれた。面を上げると、はたして定省は微笑を浮かべていた。
「おのれを責めておるな。――お前のようにひとの痛みを我がものとする義士は、あるいは上古の震旦などにはそれなりにおったのかもしれぬが、当節にはしごく珍しい。若輩が知ったふうなことを、などと思うかもしれぬが、狐狸の化かし合う平安京にあってはなおのこと、そう感ぜられるのだ。実感だ」
「買いかぶりにございます、道説めは――」
「そう、お前はそう言う。言うし、真実そのように思っていることはわかっている」と、道説の言を熱っぽく遮ってなおもいわく、「そういうお前をわたしは買っているのだ。お前に初めて会ったときから、逐一お前の言説、行動をつぶさに見てきた。ことお前の人格見識について、わたしに見誤りなどあろうはずもない。――道説、そのお前が、この度は太政大臣に……基経に肩を入れたな」
(ああ……これが目的であったのか! 夢か現か定かでなかったあれは、やはりまことの記憶であったのだ……)
定省の表情から、とうに笑みは消え失せていた。代わりにそのうりざね顔を占めているのは、怒りの色――それも手ひどい裏切りの果てに募らせるような、深いところに根ざすものである。
「この日本国を病み衰えさせているのは、正しくあの者よ、道説。応天門の騒動で汚らしい陰謀をめぐらせてより、かの一族の手に不当に握った政権を恣にし、久しく聖上の聖明を壟断し奉ってきた塵心の亡者! 君側の奸臣! 禁中の巨悪!」
まるで親の仇を語るように、定省は唾を飛ばして放言する。口を極めて罵倒する。道説は言葉もなく佇むのみだった。ひとがひとをこれほど憎悪もあらわに罵るさまを、彼はかつて見たことがなかった。
「知っておるか? 清和上皇は彼奴に弑されたのだという噂がある。譲位を無理強いしたあげくの、神をも畏れぬ非道よ。要職の人事を掌握しおる彼奴めならば、仕人や医師を通じて御物に毒を混ぜることくらい造作もないに違いない」うろうろと行きつ戻りつし、抜身をいらいらと振り回し――定省はまことらしからぬ、狂人の態である。「前帝におかれては、お労しくも御幼少のみぎり、右も左もおわかりにならぬまま彼奴に擁立せられ、長じてよりのちは乱れた政道を正さんと御新政に望み給うやいなや、それを阻み奉らんとしたあやつめによって一方的に廃位せられた。――自らの意志に沿わぬものは、たとえ天子といえども容赦はせぬ。御稜威にまつろわぬ、あの不敬極まる奸夫!」
(あの太政大臣が……にわかには信じがたいが……)
「それほどの悪に、お前は肩を入れた! 命を救った! 釈明は聞かぬ。あの者の命を狙うものが、性いやしきはずはない。それをお前は阻んだ。結果を見ろ、一体だれが幸福になり、どれほどの人間が不幸になった。――たとえいかなる理由あってのことでも、お前の犯した罪は重い……!」
まさしく道説がさきほど説いたように、定省は腋を締め、大男の体に肉薄し、その首に太刀の切っ先を擬した。
ふいに佑の言葉が思い出される。
『ご忠告申し上げます。今後、藤原北家とお関わりありませぬよう』
『聖上、ひいては万民への背信です。奸臣に阿って位を購う、汚らしい行為です』
普段の彼ならば、たとえ相手が定省であっても滔々とおのれの正義を語ることができたであろう。しかし、
(おれの行いが間違ったものであったとは思えぬ。思えぬが、長恭どのは、季満は……)
彼の太いはずであった骨子は、にわかに揺らぎ始めていた。
「ああ、道説、道説よ」
と、定省は急に落ち着きを取り戻した様子で、そう言った。ちょっと芝居がかった仕草で、太刀を握った手をもう一方の手で押さえつけるようにして太刀を降ろし、
「すまぬ、許せ。取り乱した。お前にいま話したような事情を理解できていたわけはないのだ。お前はただ頼られて応えただけなのだ。お前はそういう、義理堅い男だ」
再び熱っぽく語る。道説にはなんとなく、定省が自分ではない別の誰かと話をしているように思えた。
このような感情はたびたび体験している。たいていは道説のことを「頼もしい」とか「清廉実直」とか「律儀である」などと誉め上げる人間に対して勃起するものであった。
(おれに学がなく、見てくればかりが立派であるからだろう。みなおのれの推量のうちで、もっとも単純で、いちばん簡短で、いっとう高潔な……そういったものとおれを結びつけたがる。おれには考えごともはかりごとも似合わぬから。――むつかしいことは考えられぬと思われているから)
全ては誤解である。が、その誤解の住みよい家に安住することに慣れきってしまった彼に、いまさらどうしてそこを出て行くことができたであろう。事あるごとおのれに学がないと断ずるのは、実のところ格好の言い訳にもなっていた。自分に向けられた偽りの好意の目を塞いでやるだけの勇気がないことに対して、そして自分がありのままに評価されないことを忝なく思おうとする、自らの良心へのせめてもの慰めに対して。
道説はようよう「買いかぶりにございます」とだけ答えた。
「道説、お前はわたしを失望させてはならない。もしわたしが――」と言って、定省は思い直したようにいちど言い淀んだ。「――聖上にも幾度か、お前と魚腸のことをお聞かせしてある。いとも御叡感あらせられたご様子で、畏くも『尚武の風や良し』との御褒詞まで賜ってな」
「聖上が、この、道説ごときに……」
一天万乗の身が七位の下臈に言葉を賜るなど、普通では考えられないことである。いわば太陽が突然、自分に向かって口を利いたようなもので、御簾越しにすらその姿を目の当たりにしたことがない道説は、すっかり畏れ入って内裏のほうへ向き直った。そのまま最敬礼する。
「聖上はお前の忠信を嘉せられておる」大男の様子を満足げに見やりながら、定省はようやく屈託のない笑顔を見せた。「お前がこの先よこしまなる者の甘誘を遠ざけ、魚腸剣をもって公辺の憂いを除き、最大の敬信をもって大御心に沿い奉るなら……聖上は、わたしは、必ずやそれに報いるであろう。禁裏に昇り、聖上にお目通りかなう身分に、お前はなれるのだ。道説」
定省の声は、すでに親王のそれである。臣籍に降りたとはいえ、「王侍従」の言葉にはいまだ薄れぬ皇族の後光が耀いでていた。
「……勿体なきお言葉にございまする」
「道説、今後ふたたびあのようなことはしでかしてくれるな」
と言って、定省は握ったままの太刀を決まり悪げに収めた。
「それとだ、いま聞いた話は――」
「いたしませぬ。何人といえども」
「うん、それでいい」道説の肩を伸び上がって叩いて、定省はふと思いついたように空を仰いだ。「ああ、もう正刻か。引き留めてすまなかった。大内裏へはなにか所用あって参ったのか?」
「は、いえ」と、とっさに答えたとたん、それまで意識の外に追いやられていた、長恭にまつわる懸念ごとが息を吹き返した。そもそも彼は長恭の消息を窺いに来たのであった。「……はい。長恭どのの噂を、知人が耳に入れましたもので」
定省は口角をあげて「吾妻か」と笑った。
「おわかりですか」
「うん、あれにも久しく会うておらぬが……それはいい。こたびの長恭がことについては、あまり気に病まぬがいい。お前がいようといまいと、あれはああなったであろうゆえ。惜しいことだが」
「……長恭どのは、蔵人を解任になりまするか」
「……あれはすでに仮寧を申し入れ、受理されている。今はお前と同じく休職中だ」
定省が言葉をはぐらかしたのを聞いて、道説は暗澹となった。はっきり言わないのは、肯定しているも同然であった。
長恭のあの松を咬んだ太刀――その折れる音が、ふたたび耳をついたような気がした。進むべき道を閉ざされ、寄る辺をなくした彼が取りすがった幽き希望の糸。凭りかかれないとわかっていても、彼はそれを掴んで引くよりほかなかった。傷つけられた自尊心と、その由来を失った自負とが、彼に「何もしない」という選択肢を選ばせない。
若く性急な彼にとって、時の経過とは常に軟膏ではなく、海水のようなものであった。それに晒されれば、彼の芯鉄は銹びて朽ちてしまうのである。
「ではな、道説。体を厭えよ。――前にお前は快癒したなどと言うたが、嘘であることくらい調べはついているのだ」
捨て台詞のように言い置いて、定省は踵をかえした。道説がその華奢な背を無言で拝すると、
「そうそう。そういえば……何月であったかな、お前の兄が帰京するのは。舅どのと共に久方ぶりに酒席を設けようと思うておってな」
それに気が付いたように、数歩あゆんだところで振り返り、青年は朗らかにそう言った。
「どうだ、お前も――」
「はあ? 兄が、で、ございますか?」
人目をつくろう余裕もあらばこそ、道説はまったく素直に仰天した。晴天の霹靂であった。
(兄上は昨年、伊予洲へお下りになったはず……)
「京を偲ぶ歌を聖上に贈り奉ったとかで、いっとき帰京が赦されたということだが――お前、ひょっとして知らなかったのか?」
「あ、いえ、少々聞き間違いを……も、申し訳ありませぬ、道説も詳しい日取りは、存じませぬもので」
胸がどうしようもなく痛む。後ろから何者かに刺されたような気分である。――彼はなんの報せも受けていなかった。
(本家は……義姉上は、おれに知らせまいと……)
感情のいろを消して佇立する大男をいぶかしげに見やって、定省は「本復まで無理はすまいぞ」とふたたび背を向けた。
「兄上が、ご帰京なされるのか。そうか……」
聞こえなかったのであろう、定省が振り返ることはなかった。