The wailer IV
四月七日 庚戌 巳二刻
(別当?)
堀川の汀からの帰るさ、吟師は頭のうえを走りゆく網代車になんとなく気を向けた。
別に確証があったわけではない。ただ牛飼童だけを伴って、やかましく足を急がせる様が、前に一、二度見かけた彼のやりようを思い出させただけであった。
彼は塵を捨てに来ていた。
夜のうちに少し雨が降ったようで、河の増水はそれほど気にならなかったが、土手は甚だしくぬかるんでいる。露を結んだ下生えを掴んで、吟師は滑りすべり苦心して堀川小路へ這い上がった。牛車は今し辻へと滑り込むところだった。
(まだ午前だろう、別当だったら珍しいな。――ひょっとしてまた塒を変えろ、なんて言うのじゃないだろうな)
あの朝未きの引っ越しの慌ただしさときたら! いまだ記憶に新しい、ひと月ほど前の荒行を思い出して、吟師はげんなりした。
新しい塒は、彼の上がってきた堀川にほど近い、五条大路から野寺小路を折れてすぐのところにある。左京は四条錦小路の屋敷からここまで、あまたの荷物を担いでいったい何往復したものやら、
(あれだけ歩けば伊勢にだって着いてしまう。斎宮を担いで行った先が、せめて大神宮ならよかったけど……)
左京の塒は使い切れないほど広かったが、新しいほうはそれに比べるべくもない慎ましさであった。どうやら分限者であるらしき別当も、さすがにあれほどの屋敷を二つも三つも世話するわけにはいかないようだ。壊滅した母屋へは工匠の手が入ったということだが、建て直すであろうことに疑いはない。すぐに直るものなら追い出したりはしないであろう。
(言師……そういえば、雑舎に置いてきたままだった)
水干の泥を手で撥ねながら、吟師はとぼとぼと帰路につく。小路には彼と同じ目的で、堀川へ降りてゆく人びとが散見された。枯木のごとくに痩せさらばえた老人をずるずると引き摺っていくものまでいる。老人はぴくぴく動いていた。
「蒸すな」
と、吟師は独りごちた。野寺小路の辻を折れる。日が翳ると、蒸し暑さはいや増しに募った。
ふいに吟師は舌打ちをした。ちょうど彼の傍らを横切っていった男が、怪訝そうに振り返った。
はたして、塒の前には牛車が駐まっていた。
「……いきませんかい」
「……じゃない。哭師が……」
(哭師?)
まぎれもない、別当と呼師の声である。反射的に築地塀に背をつけて、吟師は聞き耳をたてた。草履を脱いでするすると声のするほうへ忍び寄る。彼らは家の前で話し込んでいるようだった。
「あれの落ち着いた先には、行ったんでしょうな」
「無論だ。――歌師は? ここにいるな?」
「おりますが、おりませんわい。ちょいと目を離した隙に……あれでさあな、ちょっとした副業ってやつで」
「認めた覚えは――」
「わかっとります。わかっとりますが、あれもなんか思うところがあるんでしょうなあ。――切りますかい」
「いや、無理なんだ、事情が変わった。代わりが……」
(別当、なにをしに来たんだろう)
築地を介しているせいなのか、別当の言葉は籠もりがちに、こころなし性急に聞こえる。
「とにかく、探すんだ。――吟師は? あれはどうした」
「あいつァ塵を捨てに行ったんで、じき帰って――」
「そんなことは端女にやらせろ!」
ふいに別当が癇声をあげた。小路をゆく人びとのいくたりかが、声を聞きつけて何事かと眉を顰めて通り過ぎていく。いきおい、その傍らで築地にぺったり貼り付いている吟師も注目を浴びる次第となった。
吟師は裸足でそろそろともと来た道を引き返し、辻の辺りで草履を履くと、踵をずるずる引き摺りながら家の前まで取って返した。足音を聞きつけたのか、二人の話し声がぴたりと静まる。
「よう、ご苦労さん。――へえ、珍しいこともあるもんだ。この昼日中に別当さまの御到来とはねえ」
棟門を入ってすぐのところに控えていた牛飼童が、とりあえずといったふうに軽く頭を下げた。別当は吟師の薄笑いを射るように睨んでいる。
「吟師、どこへ行っていた」
その声は平生通りの、冷静きわまりない声である。前の取り乱しようなど毫ほども見受けられない。
どうやら盗み聞きには気付いていないようだ。
「どっかだよ」
「特に用事がないのなら、家から出るな。ただでさえお前は外出が多い」
「明るいうちから束縛されてたまるかよ。文句があるなら切りな」
咄嗟に言ってしまってからひやりとしたのだが、幸い別当は舌打ちをするに留まった。そういえば先ほど「事情が変わった」などと言っていたが、
(その事情とやらのおかげかな)
なんにせよ、言い負かしてやれたのは気分がいい。言師の一件以来、別当にはいい感情を抱いてはいない。
「呼師、探しておけ。――これも使え、家事などさせるな」
物を指すように吟師を指さして、別当は足早に棟門へと歩いていってしまう。どうも大した用事ではなかったようだ。呼師がその背に確認するように声をかけて、
「承りまして……それでは、歌師のやつめに、お咎めはなしということで?」
「……いい。ただ、これからは首がかかるとだけ言っておくように」
「はい」
丁重に頭を下げた。牛飼童が牛車へ飛んでいって、掌で牛の黒い背をぺちぺちと叩いている。牛は人間が寝言を呟くような声をひとつあげた。
「……なにしに来やがったんだ、あいつァ」
「哭師がのう、ちょいと行方知れずらしい」
ややあって、牛車はがたごとと車輪を鳴らしながら、慌ただしく走り去っていった。門のうちから、その非常の速度を見咎めるように、音のするほうへ首を振り向けながら歩く人の姿が垣間見える。
「へえ、あいつの下で働くのが嫌になったんじゃねえのか。――あいつァひとでなしだからな」
「ま、そう言ってやらぬことだ。とにかくのう、探さねばのう」
「呼師」
家に戻りかけた老人の背を、吟師が呼び止めた。
「なんだえ」
「……やけに親しげだったじゃねえか」
「…………」
呼師は応えずに、その面に人好きのする好々爺然とした笑みを浮かべると、
「ま、どこの何様であろうとな、若いやつはじじいを頼りたがるのさ。身に覚えがあろうがい」
わかったようなわからないようなことを言い、吟師を手招いた。
「吟師や、起きてからこっち、肩がこってたまらねえんだ。たまには労ってくれや」
「ああ、この子ォはほんまに……呼んだら返事くらいしいや! なにかあった思たやないか!」
部屋に入ってくるなり、延然は直綴の裾をわさわさいわせながら喚いた。季満は寝転がって黙ったまま、もぐもぐやっている口を指し示す。唇の先からは鮭の楚割が生えていた。
「…………坊さんようお越し」
「ほんまや、ようお越しやで。ああしんどしんど……ここまで伸すのんも大儀や、ええよっこら」
ふうふう言いながら、季満の傍らに腰を下ろすと、延然は肩越しに部屋の入口に向かって手招きをしてみせた。
「お入りな。むさくろしいとこやけど」
「ありゃ、坊さんだけやなかったのんか」
見れば、今ほど延々が通ってきた部屋の入口に、十をいくつか超えたくらいの少女がもじもじと佇んでいる。もう一度「お入り」と手招かれると、彼女はなにか低い渡し木をくぐるような、縮こまったちょこちょこした足取りで延然のもとへ滑り寄り、彼の横に正座した。延然の荷物であろう、その両手に紫色の平包を携えている。
「ええと……どちらはんどすやろ。坊さんの子ォ?」
「どあほ。この子ォはまあ……わかるやろ、悲田の子ォや」
延然はあえて「孤児」という言葉を避けた。なるほど、そうと言われなくても、その粗末な態を見れば一目瞭然である。
巨僧はしばらくのあいだ、険しげに眉を顰めて部屋の中をと見こう見していたが、ちょうど季満の胡乱げな視線に気が付くと、
「で、どや、具合のほうは」
病人を訪ねるのにいかにも常套な、ことさら明るい口調でそう言った。
「ちょぼちょぼどす。いつものことやし」
「そやかてな、今度のんはまたえらい長病みやないか。あんじょう食べとるのんか」
「うん。食べ物なら、友達が持ってきてくれましたさかい」
季満が指さした先には、葛で編んだ大振りの負櫃が鎮座していた。その下の板の間がゆるやかに撓んでいる。さだめしかなりの重量があるのだろう。
「実丸が見舞いに来てくれたんどすえ。あと色々、平法師も来たし」
「ああ、平法師! 生きてたのんか。ぜんぜん顔出さへなんだからに……元気そうやったか?」
「うん、太っとって、今は副業でやってた桧物造りで食べとるゆうてました。――もう呪いはやらへんって」
桧物とは曲物――桧や杉などの薄板を円形に曲げて作る器物のことで、桶や柄杓などがこれに当たる。「呪い師」などというあやふやな生業に比べれば、だれ憚ることもない、よほど堅実な商売と言えよう。
「そうかあ……勿体あらへん話やな。またほんまもんがひとり去んでもうた。――最近は売手市場やのんに、まかない手のほうがぜんぜん足りひんのや。当節はうちとこの僧たちかてものにならへんのやからなあ」
「はよう病なおして稼がなあかんえ」と言って、延然は少女から平包を受けとった。
「うっへえ……陀羅尼助やおへんか。また持ってきはったんどすか……」
「いつもこれで治ってたやあらへんか」と、巨僧は心外そうに眉を顰めた。「拙僧が研究に研究を重ねて作り出したな、特級謹製の陀羅尼助やで。そんじょそこらの陀羅尼助とは陀羅尼助がちがうちがう」
延然が平包から取り出した小さな面桶の中には、毒々しい緑がかった黒っぽいなにか――陀羅尼助が詰まっている。
陀羅尼助は密教僧が修行の折に常備する、飴状の内服薬で、幾度か味わったことのある季満に言わせると、
「死ぬほど苦い。死んだあと生き返るほど苦い。薬やあらへん、苦行用」
とにかくかなり苦いのだそうな。
「どんな病魔かていちころや、ほら」
「ええと、坊さん、おれいま食事中で……ゲッホ!」
延然は面桶に節くれ立った指を突っ込んで、まったく善意の面持ちで季満の鼻面へ持ってくる。
薬というより、まず毒を連想させる匂いがする。藻に墨を混ぜて煮詰めたら、あるいはこのような色になろうか。黄蘗を主に種々の薬草を煮詰めたこれを、延然は万能薬と讃えて憚らないのであるが、
(病魔と一緒におれまでいちころやで……念仏あげに来たのんかこの坊さん)
季満はやんわりと延然の手を押しのけ、
「そ、そや、坊さん坊さん、その子ォの名前は? なんで連れてきたのん?」
「可愛らしいなあ」と、彼の隣に座っている少女に笑いかけた。少女はあまり人馴れないといったふうに、ぎこちなくはにかんだ。最前からなにをするでも聞くでもなく、ただ黙然と座っているだけである。
「ん、ああ、この子ォはな……」
と言いながら、延然は部屋の隅に置いてある負櫃まで這っていくと、蓋を開けて件の陀羅尼助を律儀にしまいこんだ。どうやら持って帰るつもりはないらしい。今度ネズミ避けに使ってみようと季満は思った。
「薺蒿、ゆうのんえ。愛らしい名前やろ」
延然の声音には、なんとはない誇らしげな響きがあった。ひょっとすると彼がつけた名なのかもしれない。
「おはぎちゃんか。――おはぎってなんやろ」
「花や、花。この子ォみたいに可愛らしゅうてな」
「へえ――おはぎちゃん、よろしゅうな」
薺蒿は曖昧な笑顔を浮かべたが、返事はしなかった。
「……この子ォな、聾唖やねん」ふと、延然は笑顔を浮かべたまま、器用に沈んだ声を出した。「なんも聞こえへん、なんも喋れへん」
「…………」
「そんな顔したらあかん。この子ォはなんもわからへんからこそ、よう見てる」
言われて、季満は咄嗟に少女の顔を窺った。前のはにかんだ笑顔に遭遇した。それは却って、二人が話していることを理解しているために繕ったもののように思われた。
「……なんでこんな子ォを?」
「チュウがようなるまでな、世話さしたろ思うてな。――心配せんかて、この子ォの食べる物は別に用意してきたよって」
「なんも聞こえへん喋れへん子ォが、病人の世話なんか務まるのんどすか」
「よう見とる、ともゆうたえ。ほんまによう気ィのつく、ええ子ォなんや。それはじきにわかる思う」
なにか言いかける季満を遮って、延然なおもいわく、
「それにな、アレや。――拙僧の言いたいこと、わかるやろ」
巨僧の示した指先には、歯を剥いて来客を威嚇するミヅキメの姿があった。
「わかるやろ言われても――」
「ちょう近うなったけどな、拙僧かて瞽やない。――今まで四度、チュウの見舞いに来て、そのうち三度、世話人をつけたやろ」
「…………」
「みいんな大怪我して帰って来よった」
「あれは転んで――」
「このくらいの女の子ォならどやろ思うて連れて来たのんやが、どうも正解らしいな。あの子ォ、最前から拙僧しか見よらへん」
「なにゆうて――」
「今までの長病みとも関係あるんやろ。――チュウや、もしわかってへなんだらゆうておくけどな、アレは障るモンやで」
「……坊さん、見えとったんどすか」
季満の声には驚きよりも多く、裏切られたような非難の色が濃かった。
「ぼんやりや、はっきり見えるわけやない。まだ小さい子ォやゆうのんはわかるけど」
「…………」
「……自分の死んだのんが、わからへんのやなあ」延然の声は濡れている。ふたたび平包の中を漁りながら、「可哀想になあ、昔この屋敷に住もてた子ォやろか。チュウはなんか知らへんのんか」
「坊さん、放かしといてえな。坊さんには関係あらへん、迷惑もかけへん」
片手で咳を隠しながら、季満はおもむろに板の間に直った。薺蒿が二人のただならぬ様子を察知して、きょろきょろと上目遣いに両者の顔色を窺っている。
「チュウや」
「なんどすか」
「あの子ォな、拙僧が調伏するゆうたらな、おまえどうする」
季満の貌がたちまち凍りついた。口の端が憎々しげに持ち上がった。
「……黙って見とる思たら大間違いやで。おれはこんなやけど、口さえ動けば坊さんの邪魔くらいでける」
困り果ててもじもじする薺蒿をよそに、二人はしばらく不動のまま睨み合っていた。
菖蒲小路を横切る、ひとの足音がざくざくと近づいてくる。簀子縁で羽を休めていたカラスがひとこえ鳴いた。それが羽ばたき去って静寂が戻ってきたころに、延然はようよう視線を切って苦笑を浮かべた。季満も鏡あわせのごとく、一拍遅れでそれに倣った。
「坊さん、あの子ォは――ミヅキメはええ子ォなんや。そこのおはぎちゃんとなんも変わらへんのどす」
「この子ォは人に仇したりしいひんえ」
「…………」
「……ミヅキメ、ゆうのんか。花の名前かなにかやろか」
「お食べな、ミヅキメや」と言って、延然は平包から取り出した小さななにかを放った。ミヅキメは威嚇の声をひときわ高くしたが、足下に転がった小片に鼻面を近づけて、犬のようにふんふん匂いを嗅ぐことしばらく、急に甘えるような声をあげて小片を舐りだした。
「坊さん……あれは?」
見れば、延然は目を潤ませながらその様子を眺めている。ひとつ洟をすすると「蘇や」と呟いた。
「お乳が恋しいんやな。ほんまに稚い子ォなんや」
福々しい面を慈愛でいっぱいにして、延然は何度も頷いている。頷きながら思い立ったのか、傍らの薺蒿にも蘇の小片をいくつか配ってやった。事態の流れがつかめない薺蒿は、目を白黒させながらも、押し頂くといったふうに両手でそれを受けとった。
「こらえろう値が張るさかい、あんまり持ってこれへなんだけどな。折々ちょっとずつ切って散供してあげたらええ。多分、間接的にチュウの病にも効果あるはずや」
延然の言うとおり、蘇は貴重な牛の乳から作られるために、たいそう値が張る。市井に出回るような代物ではなく、おそらくは知り合いの貴人などに頼んで譲って貰ったものに違いなかろうと思われた。薬にする目的で持ってきたのか、元よりミヅキメに与えるつもりであったのか――いずれにせよ、吝い彼が土産に持ってくるものとしては、これほど不自然なものはない。
「あ、こらどうも……」
てのひら大の蘇ひと切れと共に、延然は一枚の符を渡してよこした。
「御守りどすか、これ」
「……北斗符や。肌身離さず持っといてやな、よく晴れた夜は北斗を拝むのんえ」
「坊さん――」
「ええ、ええ、言わへんかて。ゆうたやろ、拙僧は瞽やないんや」
「ほなら……ありがとう頂きます」
「……どや、お父はん、見つかりそうか」
季満は首肯するように俯き、延然の符に目を落としている。前に睨み合った時のような気まずい沈黙を過したのち、
「ちょぼちょぼどす。でも――」
と言って、季満は顔を上げた。延然の顔から目を逸らして、キーキーと板の間を転げ回るミヅキメを見つめている。なにか笑いたいのを懸命に堪えているような、含みありげな色をその面に刷いて。
「――おおかた見当はついてますのんや。今年中に会えるやろ思とります」
朱雀門から衛士が下りてくるのを、軽く頭を下げてやり過ごした途端、
「あっ、管少尉、お待ちを」
と、呼び止められた。無視されたと思ったものか、背中に飛んできた声は硬い。
(管少尉か。――右衛門だな、この衛士は)
道説は殊勝顔で「何用かな」と応じた。
出し抜けに「管少尉」とは、なにも礼を欠いた言い方というわけではないが、それにしてもいささか穏当とは言いかねる呼び方であった。左衛門府のものなら「少尉どの」「道説どの」などと呼ぶし、同僚や上司など、顔見知りの間ではおしなべて「菅家判官」で通っている。
身も蓋もない呼び方は、この衛士個人というよりも、左右衛門府の間に横たわる、なんとはない屈託のなせる業とでも言えようか。
(いつも通り、待賢門から入ればよかったかの……)
彼の目の前に聳える楼、朱雀門より内を大内裏という。
朝廷の諸官衙および官舎などが軒を連ねる、この日本国の枢軸には、前の朱雀門を含む十四の門があった。内重閤門を衛る近衛府、中重宮門を衛る兵衛府とならんで、この外重十四禁門を衛護するのが衛門府の主な任務である。――この限りでは、左右に不和など生じようがない。
要因はどうやら、衛門府に兼任させられる「検非違使」の職務にあるようであった。
「右京のほうがより治安が悪いため、兇徒追捕の頻度もそれに比例して高い。衛門府はヒダリよりミギのほうが仕事をしている」
右検非違使のいくたりかには、どうもこのような考えが念頭にあるらしい。加えて「吉事尚左、凶事尚右」という老子の「左」尊重の教えもまた、右衛門検非違使たちの癇をそれとなく刺激する一因であるのかもしれない。
衛士などの末端は、検非違使の職務と関わり合いはないはずなのだが、そこは口さがない上司などに言い含められているのだろう。まして――道説は前の事件で顔が売れてしまっているようなのだ。
「至急、縁の松原まで参られませ。王侍従さまがお待ちです」
「……王侍従さまが、おれにか。何用か伺ってはおらぬか」
「存じません」衛士のいらえはにべもない。「もう幾日も前から日に二度三度とおいでになって、『菅原道説が来たら松原まで』とそればかり仰せです」
(ちょうどよいのか悪いのか……これはますます足が重くなるわい)
彼は他ならぬ、松原は辞儀松に用事があって来ていた。久しぶりに魚腸に顔を出すため――というのは建前で、本当のところは長恭の消息を確かめる意図がある。
「お早く参られますよう」
衛士は言うだけ言うと、門前に立ち尽くす大男を尻目に、さっさと持ち場に戻っていってしまった。
(今日はよくない日なのかもしれぬ。佑にでもひとつ占うてもろうたほうがよかったか……)
そもそも、今日は出始めからまずかった。こっそり家を抜け出す折、運悪く和妙に見つかってこってり油を絞られていたのである。すでに幾度か前科があるので申し開きのしようもなく、したがって彼女の猛りようたるや筆舌に尽くしがたい、生半可なものではなかった。
「もうもう道説どののお傷のことなど保証いたしませぬ! 次に同様の仕儀と相なりましたなら、お坊様をお呼びいたしますからな! この和妙が御身を負うて化野までゆきますからな!」
加えて間の悪いことに、彼女は下僕が食材の仕入れを怠ったために水漬けしか食っていなかったらしく、ために本日の機嫌はありていに言って最悪の部類に入っていた。彼女はどうも腹が減っているとぷりぷりする質らしい。今や和妙の機嫌のよしあしは、ひとえに下僕の腕如何にかかっているのだった。
(ここまで来て、まさかに帰ることなどできまい。――帰れば和妙どのが目を吊り上げて待っておるだろうしなあ)
溜息混じりに衛士に挨拶して、大男は朱雀門をくぐった。衛士からのいらえはなかった。
「おおい、淑野か!」
なんだか妙に懐かしい顔を見つけて、道説はそう言って声をかけた。松原の際で身を寄せ合って話し合っていた二人が、同時にこちらを向いた。
「あ、道説さま、お久しぶりです。その節はどうも」
「おお、久しいな。全くその節はどうもだ、お前のおかげでえらい目にあっておる。――お前もコレか、忠岑」
太刀を振るう仕草をしてみせると、忠岑と呼ばれた青年は「ええ」と折目正しくお辞儀をした。
「お久しゅうございます、道説さま。お怪我をなすったと聞きましたが」
「ま、見ての通りよ。かすり傷でな」
大男に挨拶を返した二人、藤原淑野と壬生忠岑は、共に魚腸の一員であった。
「忠岑はともかく、お前が来るとは珍しいな」
京識の仕事に忙殺されるようになってから、淑野が辞儀松を訪なうことは絶えて久しくなっている。忠岑との取り合わせもしごく珍しい。
「ええ、まあ。でも来てみたまではよかったのですが……」
「辞儀松に蘭夕郎どのが――ご覧あれ」
口ごもる淑野の代わりに、忠岑が言葉をつないだ。遠慮がちに指し示された松林の向こうに、指先ほどの大きさの長恭が太刀を振り回している姿が見える。
片腕で、である。
姿をひと目みた途端、ここ数日でようよう練り上げた勇気が跡形もなく崩れ去るのを、道説は感じた。その音さえ聞こえた気分である。
(ああ……いかぬ、だめだ! どの面さげて見ゆることができよう! 畢竟、おれが斬り落としたに等しいというのに……)
とても話しかけて来し方を聞き出すことなどできそうにない。長恭の麗貌がこちらを見たような気がして、道説は慌てて黒松の幹に体を寄せた。そのまま膝を落とす。足は根が生えたように動かなかった。
「先ほどまで経足も共にいまして、まあ、ああいう性格ですから遠慮会釈なしに声をかけていたようなのですが、無視されたと言っておりました。――なにかあったのでしょうか」
そらとぼけてはいるが、忠岑はまず間違いなく「なにかあった」ことを確信している。――それも道説が一枚噛んでいることにも。
今や、長恭は完全に太刀に振り回されていた。主のいない右の袖が、ぱたぱたと力なくはためくたびに、青年の太刀はあちらの松を咬み、こちらの岩をかすりといった態で、傍目には逃げ回る太刀を必死に離すまいとしているようにも見える。
元々、彼に天稟はなかった。体つきも華奢で、腕も細い。打ち合えばおそらく、淑野の足下にも及ばないであろう。弓馬の道もようやく人並みにこなせるか否か、といったふうで、そもそもが荒事には向かぬ質であることは疑いようがない。
自分の不得意な道に熱を上げるのは、それだけ得意な道への天分、周囲からあれほどに賛嘆を惜しまれなかった、諸芸能への才覚から生まれる自負があったからであろう。彼は魚腸にあって剣が不得手でも恬然としていたし、ことさら武骨を装う一方で、巻雄のような芸能に疎い人間を小馬鹿にしていたふしがあった。
(だが、それももう……)
長恭は利き腕を失い、美声を失った。腕なくして舞は舞えぬ、筆も執れぬ、楽も奏ぜられぬ。声がなければ詩歌も音にならぬ。名誉ある蔵人の職務にも大いに障ろう。蔵人は禁色を赦され、唯一六位にして禁裏昇殿を赦される、名家の若い子弟にとっては羨望の的とも言える職である。あるいは不具を理由に遠からず解任されるかもしれぬ。
まこと、藤原長恭の失ったものは計り知れない。彼はまさに全ての道を閉ざされたのだった。
「あ、道説さま」
「…………」
「道説さま、王――」
「道説、立て。なにをしている」
淑野、忠岑の呼びかけを遮って落ちてきたのは、いつの間にやってきたのであろうか、源定省の声だった。
「……定省さま」
「待ったぞ、道説」
言って皮肉っぽく微笑する。少し息が切れている。定省はそのまま顔を上げずに「淑野、忠岑」と二人を呼びつけた。
「すまぬが、少し外せ。こやつと話がある」
「我々に聞かれては障りのあるお話でしょうか」
間髪いれず、忠岑がずかと聞いた。彼にはこういったとき盲従を潔しとしない、妙に硬い骨を持つ側面があった。淑野がその袖を引いて「おい」と窘めた。
「わたしにもわからぬ、だから外せと言った」
「諒解いたしました。では」
それだけ言うと、忠岑は松原に背を向けてすたすたと歩き去ってしまった。淑野が一拍遅れで「あ、それでは失礼いたします、王侍従さま。――道説さまも」と断って、その後に続く。
ふいに、かつんという音が松原にこだました。見ればちょうど長恭が、松に食い込んだ太刀を外そうと孤軍奮闘しているところであった。
「定省さま……道説になんのお話でございましょう」
「それよ。ま、少し付き合え。以前にお前を見舞うたときのことだが」
金属の弾ける音に、二人はふたたび松原へ面を向けた。長恭の太刀は二つに折れていた。
『道説、お前は基経の犬か』
前に見た夢を、道説は思い出していた。