The wailer III
四月二日 乙巳 午三刻
「季満!」
飛び込んだ部屋は、そこかしこに穴が空いているというのに、異様なほど薄暗かった。空気も外気よりよほど涼しく、雨を疑うほどに湿気ている。
がらんとした室内の隅っこに、壁にすがりつくようにして横たわる土師季満の姿があった。
「季満、これ!」
「季満!」
抱き起こした季満の衣は、奇妙なことにびしょ濡れだった。嫌な臭いが鼻をつく。佑がくずおれるように道説の脇に膝をついた。
「季満、しっかりしろ、これ!」
なかば髪の中に埋もれた顔は、垢でまだらになっている。道説は構わずにその横面を引っぱたいた。
「いった……なにすんにゃ……だれや……」
うっすらと目を開けると、季満は蚊の鳴くような声でそう呟いた。――道説と佑の安堵の吐息が重なった。
「……道説?」
「おお、おれだ、生きておったか」髪を梳きあげて、狩衣の袖で顔を拭ってやると、道説は無理に笑顔を浮かべて見せた。「……幾日か寝込んだと聞いてやってきたが、なに、具合は良さそうではないか」
「…………おン前、ほんまもんの馬鹿力やな。今ので……ほんまに死ぬかと……」
ふいに横を向いて激しく咳き、咳ながら季満は子供のようにわあわあと泣き出してしまった。
「おい、なんだなんだ、泣くやつがあるか。――これ庖丁、負櫃を持ってこい」
言われると、下僕は存外機敏に部屋を出て行った。途中で何かを踏み抜くばきばきという音が聞こえてくる。
「季満、なにがあった」
「た、佑……うう……やられたあ」
しゃくり上げながら、季満は二日前に物盗りに入られたと呟いた。
(そういえば……以前よりさらに殺風景になったような)
殺風景というよりも、その部屋にはもう本当になにもなかった。ただ中央に囲炉裏が切られ、湿った灰が入っているだけである。以前に来たときは鉄瓶が火にかかっていたし、部屋の隅に厨子がひとつあったはず。
季満は身をよじって号泣している。
「では、大臣から頂いた金子も?」
「みんな盗られた……全部のうなったわい!」
「なんと…………」
佑と道説はそろって絶句した。季満は一夜にして富裕になり、一夜にしておけらとなったのであった。
「そ、そうだ、季満、尾筒丸は? 前に来たときはいたけど」
この状況でなんとか明るい声をひねり出した佑を、道説はひそかに尊敬した。それはなんとも苦しげな、引き攣ったような声ではあったのだが。
「尾筒丸は……尾筒丸ゥ……」
道説の袖で洟をかむと、季満は支えつっかえ話しだした。
件の物盗りに入られた夜、尾筒丸は季満の容態を心配して、この屋に泊まり込んでいたらしい。
「いつもは通って来てん……そやけど、よりによって一昨日は……」
深更の闖入者には、二人ともすぐに気が付いた。が、季満は折悪しく高熱を発していたために、這い回って部屋の隅に逃れることしかできず、十にも満たない尾筒丸にいたっては、ただその場に凍りついて震えていることしかできなかった。
あえなく、部屋の中の乏しい調度は火箸一本に至るまで洗いざらい運び出され、尾筒丸は棍棒で一撃されたあげく、絹の良い衣を着けていたせいで身ぐるみ剥がされてしまい、素っ裸で震えていたところに季満の病が伝染ってしまった。送ってやることもできず、おのれの水干の上衣を着せて、家に返るように言った。どうなったかわからないが心配である。――季満はなおも泣きながら、このようなことを語った。
「病なおったらなに食べよかゆうて……尾筒丸と毎日、相談してたのんに……なんや、お足どころか、おれ……衣もあらへんようになったやないかあ!」
見れば確かに、季満の体をつつむのは小袴のほかには、薄汚れた単衣がひとつのみである。
「なんともはや……」
「うう、む……」
「あんまりやあー!」
季満は道説の腕の中でのたうっている。
「まあ、でも、よかったよ。命を取られなかっただけ、まだね」
「よかないわ、ここ蹴られたえ、ここ!」
季満は言いながら、腰のうしろのあたりを撫でさすった。貧しく薄汚れた態をしていたせいか、病身であったせいか、物盗りもさすがに季満を襲うことはしなかったようである。
ふと顔を見交わせば、道説も佑もお互い似たような苦笑を浮かべていた。弱りきって身も世もなく泣いてはいるが、季満はいつも通りの季満であった。
「これ、季満や、安静にしておれ。――佑、火を熾せないか」
季満の体は異様に冷たかった。気の毒なほどに痩せた肩が、道説の掌の下でぶるぶると震えている。唇も真っ青で、顔色はまるで紙のようである。
「火、ですか。火と言っても……」囲炉裏のほうをちょっと見るなり、佑は大男に向かって眉を寄せてみせた。顔には「望みなし」と大書してある。「熾もありませんし、燧もありません。その、ついでに言えば、焚き付けも薪も、あ、乾いた灰も――」
「いい……わかった」
と、投げやりに言ったあと、ふと思い立って、
「佑や、そのなんだ、お前の術とか呪いとかで、こう、『ぼっ』とか……できぬものかな。陰陽道にはないのかな、そういう便利なやつは」
なかば期待しながら、道説は提案してみた。が、佑の呆れ顔には前と同じように「望みなし」と大書してあった。
「よく勘違いをなさる方もいますが……」と、佑は前置いた。「神や仏ではないのですから、そんなに都合よく火だの水だのを出したりはできません。空を飛んだり動物と話したりもできませんし、死んだひとを生き返らせたりもできませんので」
「……さ、さようか」
「悪しからず御料簡ください。ご期待に添えず、申し訳ないのですが」
そう言う佑の表情は、いつもの微笑からにわかに硬質のものへと変貌していた。彼の反応を見るに、こういった興味本位の質問はされ飽いているようである。
「とすると……参ったの。こう濡れておってはなあ」
抱き上げて引き寄せると、季満は力なく抵抗しながら「やめえ、さわんな、暑苦しい」と喚いた。
「暑苦しいが聞いてあきれるわい、冷え切っておるぞ。――それにしても、雨が漏っているわけでもなし、なぜかように床が濡れておるのだ。小便か?」
「どあほ! なんぼ悪いかて、こんなとこでようせんわ! さわんなくっつくなあ!」
「ええ観念せいこのちびめ、少しは病身であることを自覚しろ。安静にしろと言うただろうが」
「……本当だ、濡れてる」
いまさら気が付いたのか、佑が身を乗り出してきて、季満の横たわっているあたりの床に手をついた。もっとも、この屋の床はおしなべて湿気て黒ずんでいるので、少々水がこぼしてあってもほとんど目立たないのであるが。
ふいに、佑の眉根が寄った。ふやけた板床のあいだになにか挟まっている。
「これは……」
揉み合う二人に、佑は拾い上げたものを示して見せた。右手につままれた数枚の銭には「饒益神寳」と彫られていた。
「あ……それ、おれのや。返してえな」
ずいと手を差し出した季満の顔に、はや涙は見受けられない。その面にはかすかな動揺が刷かれている。
「盗られなかったのか、これ」
「……懐に入れといたから」
「ひと世代まえの、これを?」
「本当だ。これではなにも買えぬぞ」
道説の合の手が入った。佑のただでさえ細い目が、糸のごとくになっている。
佑の言う「ひと世代まえ」とは、すなわち「価値がない」ことを指していた。
饒益神寳は貞観元年、水尾帝の御世に鋳造された銅銭で、現在流通している「一文」、貞観永寳の十分の一の価値しかない。これは朝廷が貨幣改鋳に際してたびたび施行してきた「お約束」で、人々にはおしなべて悪法と認知されていた。
要するに、「新しい銭は古い銭より十倍の価値がありますよ」という法なのだが、たとえ朝廷の言い分とはいえ、まさか市場がそんな手前勝手で都合のいい話を呑むはずもないのである。単純な発想の転換によって、改鋳後にはたいてい旧銭の価値は急落した。貨幣制度の流通を阻害する主だった要因のひとつである。
貨幣、分けても安価な銅貨は、その原価にくらべてずっと高い価値を付与することができる。ために朝廷は、久しい以前から増収を期待して銭貨の流通を奨励しているのだが、こんなことがあるたびに、銭の信用は墜落の一途を辿っていた。実のところ洛中であってさえ、銭をなにかと交換できる「おカネ」と見なす者は少なかったりする。
「季満、これは呪いに使ったものか」佑の声は、質問というよりは確認の含みがあった。あらぬ方を指し示して「あれが原因か?」
言って示したのは、なんの変哲もない部屋の角である。黒々と腐り、白っぽいかびが散見できるが、この部屋においては「変哲」の範疇には入りそうにない。
「…………」
「佑、あれとは?」
急に押し黙っておとなしくなった季満を抱えなおすと、道説がそう言って訝った。彼の視線の先には痛んだ板壁しか映されてはいない。
佑の見透かすような視線を避けて、季満は大男の胸に顔を伏せた。
「季満、あれが原因なら――」
「違う」と、なおも佑の顔は見ずに、季満は呟いた。「あれはおれがここに来る前からいた子ォや。病とはなんも関係あらへん」
「なら祓っても問題ないわけだ」
間髪いれず、佑が言い募る。季満の言い分を端から信じていない言い方である。季満の応えはなかったが、傍目にもどう断ったらいいのか考えているようにしか見えなかった。
「……佑や」見かねた道説が助け船を出した。「おれにはなんのことやらさっぱりわからぬが、これは嫌がっておるように見えるぞ」
佑が季満の嫌がることをしようとしていると思ったわけではない。おそらく道説には見当もつかぬ、彼にしかわからないなにかの理由で「祓う」などと言っているということは理解していたが、
(この男のよいところだ。よいところだが……あまり理解はされまい)
数ヶ月の付き合いのなかで、道説は道説なりに佑の性格を分析していた。彼はおのれがそのひとの為になると思ったことを実行する際、対象の感情をあまり考慮しないのである。これに自分勝手という評価は中らない、と道説は思っている。いわばそこにあるのは、「礼を言われるためにやるのではない」という克己と無私であった。
(一本気なのだ、この青年は)
「道説どのは門外漢でしょう」と、佑はにわかに感情の赴くままといった声を出したが、すぐさまそれを恥じたように「……申し訳ありません、無礼な口を」と呟いてしゅんとなった。
「ま、ま、よいさ。今日のところは門外漢にもわかる話をしようではないか。そうとも、季満や、お前に旨いものを食わせてやろうと思うて来たのだ」
すっかり暗くなった雰囲気を打ち壊すように、大男は明るい声をあげた。
「……んまいもの?」
季満の声は物憂げであったが、腹の虫は歓喜の声をあげた。さだめし病を得てからろくなものを食べていないに違いないのだ。
「おお、旨いぞ。我が庖丁どのの手になる絶品よ。あの膳を食らえば、お前のひよわな病魔などたちどころに消え失せるわい。――そうだ、佑の分も用意させよう」
「いえ、わたしは結構ですので――」
「まあひとくち食うてみよ、今ほどの言葉を後悔するぞ、うむ」
あわてて固辞する佑の面を、道説は含みをこめて睨んでみせた。彼みずからの経験より鑑みるに、食事というものは、相伴するもののいたほうがより美味になるものなのだ。まして病身で孤独に伏せっていた季満にはひとしおであろう。
気を遣われていっそうしゅんとする佑を措いて、道説は廊下のほうへ「これ庖丁! ぐずぐずするな、急げ!」などと声をかけた。
声に追い立てられるように、ばきばきと廊下を踏み抜く足音が戻ってくる。
「あ、道説どの、そういえば火がありませんが……」
佑が肝心なことを思い出して、ためらいがちにそう言った。
「あっ……いかん、そうであった。どうしたものかの」
必要なのは火だけではない。物盗りに入られたおかげで、目下のところこの屋には、鍋はおろか土器一枚見当たらないのである。下僕には材料を用意するようにとしか言いつけていなかった。
(ええくそ、気が回らぬのはお互い様ではないか……)
今になって考えてみれば、たとえ物盗りに遭わなくても、この屋に満足な器具の揃っていようはずもないことくらい察して然るべきであったのだ。季満は道説の貌に「望みなし」との文言を見たのか、落胆もあらわにしくしくと泣いている。
季満の腹が恨めしげに鳴った。道説は溜息をついた。にわかにその腹の中には、季満への憐れみと――自身への譴責の念が生まれつつあった。
この度の護法にまつわる事件、正直心中では「貧乏くじを引いた」と思っていたのだ。季満は大金を賜ったし、それは長恭も同様であろう。さだめし太政大臣の覚えもめでたくなったであろうから、あるいは内々に除目についての御沙汰などもあったかもしれぬ。自分だけが大怪我を蒙って床に伏せ、養生という名の軟禁生活を送っているのだ。日毎に庖丁の作る膳だけを、おのれへのささやかな報酬として――。
(しかし蓋を開けてみればどうだ。少なくとも季満は今現在、おれなどよりもよほど不幸ではないか。これほどに苦しむ友を一顧だにせずに、おれはおれ自身のささやかな不運ばかりを慰めて不貞寝していたのだ。――そうとも、おのれのことしか考えぬ、ひとを妬み嫉んで顧みぬような人間にこそ、あの矢は飛んできたのに違いあるまい。おれのごとき鼠輩に当たるは必定であった……)
「……道説」
季満が細い声をあげた。
「おお……なんだ」
「カオ……無茶苦茶おそろしいんやけど」
「…………」
「道説どの、庖丁どのが来ていますが……」
振り向くと、佑はこころもちのけぞるように体を引いた。どうやらよほど怖ろしい顔をしていたようである。彼の後ろに突っ立っている下僕などは、顔を見ただけではや叱られたように縮こまっている。
「あのう……あのう、旦那さま、ええと、膳は三つで……?」
「……おれは前に食うたではないか」
「ええと、そうでした。では二つで」
おっかなびっくりそう言うと、下僕は持ってきた負櫃の蓋を開けて、中をごそごそと漁りだした。
「せっかく持ってきてもらったのに相すまぬことだが、庖丁よ」無理くりに表情を和らげて、大男は下僕に向かって謝罪とも労いとも取れぬ沈んだ声をかけた。「この屋は折あしく物盗りに遭うての、鍋も刀子も、盤の一枚もないのだ。膳はこしらえられぬ……」
「んまいものおー!」
季満は道説の腕の中で顔を覆って泣いている。
「よしよし……また近いうちに持ってくるゆえ――」
下僕が負櫃から小型の鍋を引っ張り出した時点で、道説は言葉を切った。佑も頬を張られたような顔で下僕のほうを見つめている。
「……これ、庖丁や、ひょっとして食器の類も?」
「あ、はい、これに」
下僕の手によって、板の間のうえに続々と雑多なものが並べられていく。鍋、刀子、脚付きの俎、薄錆びの浮いた足鼎、大小の金鉢、焼串に須恵物の食器。道説の家でもっとも高価な塗の椀まで転げ出てきた。
「こ、これ、庖丁! お前というやつはなんのためにこのような……!」
道理で重いわけである。どうやら下僕は道説の家にある、調理に関係するものすべてを持ってきてしまったらしい。
「お前……こういったものをこちらで借りようなどとは思わなんだか」
「え……あっ」
「…………」
下僕はまったくいま思いついたように、感心したような声をあげた。結果としてよかったとはいえ、この男の粗忽ぶりには開いた口が塞がらない。喜んでいいのか悲しんでいいのか――道説は改めて佑のような使用人を求める気持ちを強くしたのだった。
「あ、庖丁どの、ひょっとして火などは……お持ちでないですよね、いえ、なんでもありません」
佑の言葉は、例によって助け船の色合いを帯びていたのだが、自分で言っておきながらさすがにそれはあるまいと思ったものか、彼は途中で完結してしまう。下僕はその様子をちろりと眺めただけで、ふたたび負櫃のなかへ頭を突っ込んだ。
「火でございますか。火、火……」
「……まさか本当に」
負櫃の中から生還した下僕は、蓋が網状になった小さな筥と、古びた木の櫃を取り出した。
「ええと、泰どの、その平包を持ってきてください」
「あ、はい。――軽いほうで?」
「いえ、そっちの重いほう」
言いながら、自身は櫃と筥とをかかえて囲炉裏の際にしゃがみこみ、櫃の中身を濡れた灰のうえにぶちまけた。中身は乾いた灰であった。
「杉葉ですよ、これ。――あ、炭もある」
「埋火を熾しますから、その杉葉をちょっとください」
下僕は受けとった杉葉を灰のうえへ放ると、小さな匙のようなものを使って網筥の中から灰混じりの埋火を掻き出し、灰を飛ばさないように細く息を送ってあっという間に火を熾した。――粗忽などと断じたのは早計であったようだ。彼は少なくともこの分野にかけては、用意も手際も一人前であるらしい。
「庖丁どの、わたしも手伝います。――水が要りますね?」
「あ、はい、その金鉢をお使いください」
「ちょっとそこの井戸まで」と断って、佑は部屋から出て行った。
「……ええと、旦那様、二人前でよろしゅうございましたでしょうか」
「おお……うむ、頼むぞ、二人前」
道説はようようそれだけ呟くと、なるべく下僕の邪魔にならぬようにそろそろと囲炉裏の端まで移動し、火の傍に季満の体を横たえた。下僕が無言で熾に炭を足した。
「んまいもの……なんやろな……お腹すいたなあ」
言葉の途中に、嫌な響きの咳が混じった。季満の顔は相変わらず青い。
(今日、おれと佑が訪れなかったら、こいつはどうなっていたであろう。返すがえすも、おれはおのれのことしか考えておらなんだ……)
病身の弟をあばら屋に捨てて顧みなかった男の後悔――今の彼の心境を強いて言い表すとしたら、この辺りが近いであろう。
「うむ、雉肉の膾だ。できたら起こすゆえ、ちと眠れ。――これ庖丁や、おれもなにか手伝えぬかな」
「…………旦那さまが、でございますか」
下僕は夢想だにしなかったといった面持ちである。傍目にもどう断ったらよいか考えているようにしか見えない。――なんとなく既視感を覚えた。
「……いい、忘れろ。おお、そうだ、忘れておった」
言って立ち上がり、部屋の隅っこに放ってあったもうひとつの平包を拾ってくると、季満の前でそれをほどいて中身を広げてみせた。
大男の手からどさりと垂れ下がったのは、丈の異様に長い、厚手の衣が一着。
「冬用に作らせたものなのだが、縫子が尺を間違えおっての。おれの身丈よりさらに一尺も長い、衣の化物になってしまった。夜具に使う分には差し支えあるまいと思うて持ってきたのだが……」
道説は言いながら、不器用な手つきでそれを季満に着せ掛けた。
「……暖かい。暖かいなあ、道説。おおきありがとうなあ」
季満の声は、柄にもなく濡れていた。
「うむ、いい、眠れ」
「道説……お前、出歩いてもええのんか」
「見ての通り、もはやなんともない。お前のほうがよほど酷いぞ」
「……お前は返矢を受けた。助かるはずはないんやが」
じっと見つめてくる。道説は視線を避けて、なんとなく下僕の手の動きを目で追った。彼は刀子を器用に使って鰹節を削っている。
「そういえば、和妙どのが言っていたな。珠子どのの文が楯になったのだと」
「へえ……ぎっちゃんが?」
「うむ。『この文が道説どののお命を救ったのですぞ』などと――なにせとびきり分厚いのが六通もあったのだ。珠子どのには相すまぬことだが、ちょうどよい矢避けになった」
「……たまこちゃんに感謝するのんえ、道説」物憂げな声で呟きながら、季満は目を瞑った。「多分、たまこちゃんがお前に惚れておらなんだら、助からへなんだ思う」
なにか引っかかりのある物言いである。理由を問いただそうと思ったのだが、今は休ませたほうがよいと判断して、道説はみたび「眠れ」と言うに止めた。
「道説」
「うむ」
「よっちゃんのこと、聞いたか?」
「……いや」
そういえば、茨田重行が「蘭夕郎が本復した」などと話していたのを思い出した。
「なにか、あったのか」
季満はすぐに応えず、道説に背を向けるようにごろりと横臥した。そのまま眠ってしまったかと思うほどの沈黙のあと、
「……よっちゃん、右腕、失えたのんえ」
ぽつんと呟いた。
「道説どの」
声をかけられて、道説は面を上げた。佑は俯いたまま鍋をかき回している。
季満の静かな寝息と、下僕の蕗をきざむ規則的な物音だけが、がらんとした部屋を支配している。黙々と刀子を上下させる庖丁の背後には、庇から差し入る光の境界が忍び寄りつつあった。正刻を過ぎて二刻ほど、といったところであろうか。
「……お悩みですか」
「…………」
「顔に書いてありますよ」
鍋の縁に杓子を打ちつけて滴を落とすと、佑は下僕に「これくらいでいいですか?」と言ってそれを手渡した。今ほど佑が煮ていたのは、鮒の羮の代わりの品ということらしい、熨斗鮑と鮭の楚割を戻した熱汁である。下僕は急ごしらえのこれに「手抜き汁」という名前をつけた。
「……旨そうではないか、庖丁。おれは鮒より鮑のほうが好きでな」
佑の言葉には応えず、道説は下僕にそう言って話しかけた。彼は泣き笑いのような、いわく言い難い表情を浮かべている。自分はまた怖ろしい顔をしていたのかと無理に笑ってみせると、はたして下僕は見てはいけないものを見たような迅速さで顔を伏せてしまった。
「…………まあ、鮒も好きだが」
今ほどの行為を糊塗するように、下僕はそのまま鍋に顔を近づけて匂いを嗅いでいる。ややあって、金椀に入れてあった昆布と大根をその中に足した。汁物を一品へらす腹積もりらしい。
「季満は眠りましたか」
「ん、うむ。寝たな」
それを聞くと、佑はおもむろに居住まいを正した。
「道説どの、このような場所でなんですが、お話があります」
「……うむ」
「この度の事件で、太政大臣を庇われた、ということですが」
「うむ」
下僕はわれ関せずといったふうに、耳を傾ける気配はない。
「ご忠告申し上げます。今後、藤原北家とお関わりありませぬよう」
そう言うなり、佑はどのような意図あってのことか、道説に向かってふいに弾指した。道説の濃い眉が疑わしげに顰められる。
藤原北家とは、平たく言えば太政大臣藤原基経の血族を指す。ここ数十年のあいだ、朝廷で実際的な権力を握っている一族で、太政大臣の職などは今現在、彼らの世襲のごとき様相を呈している。
「なにゆえだ」
「おわかりのはず。彼らに与せば、否が応でも権力争いに巻き込まれます。季満も……」そう言って、佑は憂わしげに季満の寝顔を見る。「……多分、物盗りに入られたのも、それと無関係ではありません」
「……というと?」
「太政大臣は、事件に関わった三人、つまり道説どのたちの名前を広く知らしめてしまった。『菅原道説と土師季満は藤原北家が手の者である』とでも言わんばかりに。――この季満の災難について言えば、いわば『西京に住む土師季満という呪い師は大金を持っている』と泥棒に知らせて回ったようなもの。そしてこれ以降、かの一族をこころよく思わぬものたちからは、仕事の依頼など来なくなることでしょう」
「しかしそれは……太政大臣からの御愛顧が期待できるではないか」
「甘い。彼らは飽きますよ、じきに」と、佑は鼻を鳴らした。にわかに人が変わったような印象すら受ける。「道説どののご進退とも不可分ではないのです。なるほど、確かに人事の要を握る太政大臣に取り入れば、ご出世もともすれば叶うやもしれません。ただ――無礼を承知で言わせていただけば、それは聖上、ひいては万民への背信と言えましょう。奸臣に阿って位を購う、汚らしい行為です」
藤氏に聞かれでもしたら刺されかねない暴言である。佑の物言いを吟味してみるより先に、道説は知り合ったばかりの知人をゆえなく罵倒された義憤にかられた。
「一介の学生に過ぎぬそなたが、聖上の御宸襟を測り奉るなど無礼も甚だしい。――そもそもそなたは太政大臣に見えたことすらなかろう。寸刻ではあったが、その謦咳に接したおれにはわかる。あの御方は決して奸臣などではない」
剣幕に驚いたのだろう、佑はほんのつかのま意外そうに眉根を寄せたが、すぐにたたみ掛けるように言い募った。
「頭の受け売りです。が、心あるものは、みなそう思っておりますよ。政を私するものに与して得たものなど、失うのもまた一瞬です」そこまでまくし立てると、佑の声は急速に沈んでいった。「可哀想なことですが、格好の例がそこに横たわっている」
「…………」
「……藤原長恭どのは、利き腕を失ったそうですね。あわれその美声も蟇のごとくになったとか。――彼もまた北家が一員です」
長恭の名前を聞いたとたん、道説は打ちのめされたように頭を垂れた。前に季満からその消息を聞かされてからというもの、彼はずっと自責と後悔の重しに圧されていたのだ。
打ちひしがれた大男を見る、佑の口元がほころんだ。
「申し訳ありません、道説どの。苦しめたくて言ったわけじゃありません」
囲炉裏の足鼎のうえには、いつの間にか前の「手抜き汁」に代わって、薄茶いろの汁粥がぐつぐつと煮立っていた。それを匙でなにをするでもなくかき回しながら、
「……おれ、道説どのが好きだ。季満もです。正直、前の事件の折は肝が冷えました」
佑はぽつりと言った。
「佑……」
「道説どのは重傷を負い、季満は家財を失い、また藤原長恭どのは片端となった。その原因がなにであったのか、それさえわかっていただければ、もうなにも言うことはありません。――それだけです」
言うなり、佑はみるみるうちに赤くなった。口を開きかけた道説を遮って、
「さ、さあ、もうできましたよ。できましたよね、庖丁どの」
下僕の応えも待たずに、勝手にいそいそと汁粥を椀によそい出す。そうこうするうちに、季満が寝惚け眼で「ええ匂いする、もうできたのんか?」ともぞもぞし始めた。
「包丁、季満の膳を先にな。――どれ」
季満を介抱して抱き起こしてやる。人心地ついて落ち着いたのか、抵抗はなかった。
「季満や、おれたちは佑に礼を言わねばならぬぞ。ずっと心配してくれていたのだそうだ」
「あ、お止めください、蒸し返さないでください!」
佑は茹でタコのように真っ赤になっている。
やがて下僕がふたりの膳を整えると、和やかな食事が始まった。道説も「手抜き汁」の相伴に預かり、あらためて彼の「庖丁」の腕前を褒めそやし、また膳を賞味したふたりも口を揃えてそれに和す。やはり食事は大人数で食べるほうが旨いようだった。
「道説、うで疲れた。食べさせてえな」
「吐かせ、箸を繰るのも食事のうちよ。――ええあさましい、少しは優雅に食えぬのか。佑のあの箸さばきを見よ」
「季満、おれを見本にしないほうがいいよ……」
佑はあわてて箸を匙に持ち替えた。
「佑は奥ゆか――」
ふいに言葉を切って、道説は箸を取り落としてしまった。その様子をほかの三人が不思議そうに眺めている。
「どした、道説」
「いや、なんでもない。――我が庖丁どのが料理の力よ、言葉を失うとはこのことだな」
下僕は茹でタコのように真っ赤になっている。季満と佑の追撃がそこへ加わった。
(今のあれは……気のせいか)
談笑が続いている。その後、道説は前に見たものを探して、食事のあいだ中たびたび部屋の隅へ視線を向けたのだったが、ついぞそれは現れることはなかった。
(目の錯覚であろうか、それにしては……)
それは憎悪に貌をゆがめた、両腕のない女童に見えた。