The wailer II
四月二日 乙巳 午二刻
(あれからわずかひと月、よくもここまで回復したものだ)
言師の呪詛がそれほど強力でなかったのか、あるいは土師季満にこちらが思っている以上の力があったのか――いずれにせよ、結果的に言師の死んだのは無念極まることだったが、
(季満が、このひとが死ぬような結果にならなくてよかった)
心の底から、泰佑はそう思った。
「うむ、こうして歩いておっても、痛くもかゆくもない。――和妙どのも大袈裟に過ぎる、これなら今すぐにでも吾妻の助勢にゆけそうではないか」
菅原道説がそう言って鼻を鳴らした。屋敷を発ってよりすでに、「和妙どのは大袈裟」発言は五回目を数えていた。
「重行どのが仰天されますよ、ご自愛ください」
久しぶりに外へ出たのがよほど嬉しいのか、道説はなんとなしにはしゃいでいるように見受けられた。早足に歩く二人にやや遅れて、葛の負櫃と平包とを携えた下僕が、ふうふう言いながら追いすがってくる。
まるで昨日今日に上洛したおのぼりさんのごとくに、大男は朱雀大路をそぞろに歩き、脇見をしながらさかんに話しかけてきた。路の脇に繋いであった牛馬に激突しそうになったり、牛車の不慮の落とし物を踏んづけそうになったりするたびに、佑は親切の押し売りにならない程度に加減しながら、彼の袖を引いてやらねばならなかった。
朱雀大路を下る、二人の影は短い。正刻が近い。
夏のかかりであるこのごろは、日毎に肌寒かったり蒸し暑かったりと天気の具合も一定でないのだが、今日は天照大神のご機嫌も麗しいようで、珍しいことに穏やかな南風が吹いてさえいる。
「佑、季満はよくないのか」
ふと、道説は夢から醒めたように静かになった。自分がこれからなんの用事でどこにゆくのかを思い出したのだろう。
「さて……医者ではないのでなんとも――わたしにはただの咳疫のように見受けられましたが」
「うむ……それにしても、十日間もか。金ならたんまり貰うておるはずだから、薬を買いにひとを走らせるなりしてもよいものだがの」
「……彼には身寄りがいませんから」
心配そうにしている道説から視線を切ると、曖昧にそう言って、佑は向かい風のなかで眼を瞬かせた。ふと、遠回しに非難されたのだろうかと邪推するも、
(ばかなことを……このひとはそんな陰湿じゃない)
思い直した。道説は背後の下僕をちろりと振り返って舌打ちをしている。
藤原基経呪殺を阻止した者の名前は、事件後ほどなく明らかとなっていた。
誰が調べたわけでもない。ほかならぬ太政大臣そのひとが、彼らの働きを称揚し、人づてに吹聴して回っていたらしい。平素怪力乱心のたぐいに毫ほどの興味も示さなかった大臣の、掌を返したような変わりようは、彼の頑なな性格を知悉している者たちにとって、かえって少なからぬ説得力を生んだようだ。彼ほどの者をしてそうまで言わしめるのなら是か、ということである。
「いったい幾ら頂いたと言うておったかの……黄金十両に絹十疋に、そうそう、吹玉の小刀などという宝物まで賜ったそうな。幾度か見舞いに来た折、見せびらかしていきおっての。あやつめ」
さすがに太政大臣の報礼ともなると桁が違う。黄金十両といえば、庶人の生活費数年分に相当する。季満は一夜にして、当分は寝て暮らせるだけの財産を手に入れたということになる。
「道説どのにはなかったのですか? 謝礼は」
「ん……勿論あったとも。今もその栄に浴しておる」
「?」
「命を救って頂いた。左衛門府へ無期限休職の旨、取りはからって頂いたのも、そのうちに入ろうな。このあいだ初めて聞いたのだが、なんでも左衛門佐さまと太政大臣は御兄弟であらせられるそうだ。――虎の威を借る狐のようで、心苦しき限りだがの」
そう言うと、道説は立ち止まって振り返り、「これ庖丁、急げ。平包をよこせ、おれが持つ」などと遅れている下僕に声をかけた。
(欲のないひとだ)
と、佑は他人事ながら慨嘆せざるをえない。
道説のように、ちゃんとした医者に傷病を診てもらえる人間というのは、実はしごく少ない。庶人や下級官吏は大抵、その家々に伝わる調薬や施術で治療を試みるか、寺へ出かけて平癒を祈願してもらうか、二つにひとつであった。無論、その効果のほども疑わしさが残る。
対して、道説の傷を検めたのは典薬寮の侍医という話であった。典薬寮とは内裏の貴人たちの傷病を診るための官衙であり、侍医は帝のための御薬を調ずるほどの、医道の達者である。
当然、それらの世話になる者のなかに、内裏への昇殿も許されないような下官の入る余地はない。その意味では、太政大臣の計らいは褒賞とも言えるだろうが、
(より高い官位を望めば叶うかもしれないのに……)
佑にはわがことのように口惜しく思えるのだった。
「案外けろりとして、飯でも食ろうておるやもしれぬな」
「わたしが様子を見に行ったのは一昨昨日ですから……そうですね、庖丁どのの足労も無駄に終わるかも」
二人とも笑ってその話は終わったが、道説が心にもないことを言っているのはよくわかった。向こうも同じであろう。まともな医療を得られない庶人の病死は、その理由がただの咳病であっても珍しいことではなかった。
「庖丁、なにをたらたら歩いておる、走れ走れ! ええ負櫃もよこせ、まったくなんとのろまなやつよ」
(ああ、このひとは――)
ふと、佑はおのれの思い違いに気付き、面を赤くした。――道説は急いでいたのだ。
霖を吸った土と草のいきれは、彼女には物慣れない悪臭としか感ぜられなかった。
衣も髪もどろどろの水浸しだった。頭といわず肩といわず、総身を生暖かい雨が打ち続けている。どうどうという早瀬の音に混じって、前方から下生えを踏み分ける、濡れたような足音が迫ってきた。
(ああ、またや、またや、またや! やめえ、ミヅキメ!)
身動きは取れなかった。はるか上から伸ばし降ろされた腕が、細い両肩をしっかりと縛めている。
食い込んだ大人の指から伝わる湿気た体温が、彼女に無条件の安心を与えていた。彼女は今まで、自分より大きな人間には可愛がられたことしかなかったので、酷いことをされるかもしれないなどとは露も思っていなかった。
(もうたくさんや、やめえ、やめてえなミヅキメ……)
足音が止まった。稲光が真っ黒な巨人を葦原に浮かび上がらせた。目の前に立った人間の目鼻立ちは明らかでなかったが、彼女はそれに向かって「ちちうえ、おきがえ」と呼びかけた。彼女は濡れた服が不満だった。
(やめえ、やめえ! このひとでなし! 自分の子ォやろが、なんでこんなことすんにゃ!)
横からもうふたつ、別の腕が伸びてきて、彼女の左手を取って水平に伸ばした。これも常のことなのでされるがままであった。その掌の妙に熱いのが、気になるといえば気になるのだったが。
(捨てるくらいなら、殺すくらいなら、なんで作った! 奴畜生! なんでお前らはいつもいつもそんなに勝手なんやあ!)
肩口あたりをトンと叩かれたような感触があって、前にいた男が踏み出した音と、それの持っていたなにかが勢いよく土に食い込む音と、彼女の左手を持った男が尻餅をつく音と――いろんな音が一緒くたに聞こえたあとに、足の甲に熱い飛沫を感じた。
(殺すからな、絶対、おれは忘れへんから……)
今度は右手が同様に伸ばされた。右手を持つ男の掌はなお熱く、震えていた。足下に降り注ぐ赤い雨は、彼女の左の肩口から迸っていた。
もう一度「おきがえ」と言ってみたが、男は黙って手に持ったものを振り下ろしただけだった。衣は乾きそうになかった。つま先の近くで通りがかりの蝸牛が一匹、赤い雨に打たれてのたうっていた。
(もうやめて……ミヅキメ)
背中を強く蹴られて、彼女はとどろく河の激湍に身を躍らせた。もがこうとしたのだが――それに応える両の腕はなかった。
水の中は苦しかった。
うっすらと開いた眼に、注ぐように寝汗が流れ込んだ。汗と涙で歪んだ世界は記憶のとおり、薄暗くてひんやりとしていた。
ひどい悪寒がする。眠りにつくたびに、むしろ悪化しているような気さえする。仰向いたまま洟をすすり上げたとたん、季満は体を反らせて激しく咳いた。
(おれ、このまま死ぬんやろか)
尾筒丸を探して頭を横に倒すと、ちょうど目の前に死体いろの脚が飛び込んできた。
「……ミヅキメ、まだえ。まだや」
水浸しの単衣の裾から広がった水たまりが、横臥する季満の体をすっかり囲んでしまっている。衣の背中も後頭部もぐっしょりと濡れている。悪寒の原因はこれだったのかと、季満は肩を抱いてがたがた震えながら得心した。
膝をかかえるように脚をたたんで、ミヅキメは季満を見下ろしていた。いつもは堅く閉じられている瞼が片方だけ開いており、黒茶いろに濁った不気味な目がそこからのぞいている。ンーンーと思案するような呻きを漏らしながら、童女は床に散らばった銭をつま先で弄んでいる。
(そうやった、尾筒丸はおらへんにゃわ。おれひとりやった。――いや)
「ミヅキメも、いるもんなあ……」
思いがけなく弱々しい声が出た。我ながら、死にゆくひとが最後に出す声はかくもあろうかと感心するほどの声である。ミヅキメは両目を撓めてヒッヒと笑っている。
(いやや、まだ死ねん。まだ死にとうない)
耳の中に冷たい水が入ってきた。
「誰かあ、いやへんかあ、助けてえなあ。……誰かあ」
出てきた声は小さかったが、空きっ腹には覿面に響いた。たとえ家のすぐ外に誰かがいても、これでは聞こえまい。季満自身にも、助けを呼ぶ声というよりは、誰にともなく呟くただの愚痴にしか聞こえなかった。
(……お舘さまんとこにいたら、こんなことにゃならへんかったやろなあ)
突如、脛にするどい痛みを感じて、季満は反射的に右脚を蹴り出した。それから逃げるように、一匹の黒っぽいネズミが視界の端から現れる。――そろそろ食べごろだと踏んだのであろうか。
「おれはまだ、死んでへんぞ。あっちいけ、こっちくんな」
大きさは六、七寸ほど。艶のない毛並みはところどころ禿げ、その痩けた面長の顔が卑屈っぽく、ひくひくと床の木目を嗅ぎ回っている。まさに「貧乏ネズミ」といった風情である。
貧乏ネズミはその場に二本脚で立ち上がると、小さな両手をすり合わせるようにして季満を拝みだした。
「まあそんなこと言わずに、もう何日も待ったんですぜ。貧乏腹減りはお互い様、ちょっとは囓らせてくれなきゃあ」
とでも言っているかのようである。
「どっかいけ。くそ、おれは食べ物やあらへんぞ。近づいたら掴まえて食べ――いったあ!」
今度は右脚と尻を囓られた。水たまりの中で必死になって体を揺すると、前の貧乏ネズミの傍らにもう二匹、今ほど季満を囓ったとおぼしきネズミが整列する。どうも仲間連れであったらしい。
「お前……妻子持ちやったんなあ」
ほんのつかのま、季満は痛みを忘れて面をほころばせた。新しい二匹は貧乏ネズミよりもいくらか小型であったので、彼らは一見して家族のように見える。咳をすると、ネズミは一家なかよく後退った。が、逃げる気配はない。一等ちいさいのが、前に親がやったように立ち上がって季満を拝んだ。
(なんやろ、今度は念仏でも唱えてるのんか)
と思った途端、まったく唐突に涙が溢れてきた。
もしいま自分が死んだら、この一家のほかに誰が念仏を唱えてくれるだろう。誰が死を惜しんで泣いてくれるだろう。このネズミだって、季満の肉に舌鼓を打って鳴くかもしれないが、涙を流してはくれまい。
ネズミに情けをかけられる我が身の真の孤独を思えば、涙はとめどなく溢れた。
「うう……くそ、どっかいけ!」床に散らばっていた銭を数枚つかんで、季満は一家に向かって投げつけた。銭はあらぬ方向へ飛んでいった。「おれは死なへんぞ、念仏なんかやめえ……」
短い念仏が終わる。ネズミたちは粛々と季満の顔めがけて忍びよってきた。
ミヅキメがアーと欠伸のような声を漏らした。
「どうした、佑」
「……足駄がないんです。留守かな」
階の前で、佑は足を止めた。この一帯の荒れようが珍しいのか、下僕はここへ来る途中から、さかんに辺りをきょきょろと眺め回している。
(それにしても……これほどに荒れた屋だったかの)
いやに重い負櫃を足下に下ろして、道説は唸った。どこが以前より荒れたかと言われれば断じようもないが、とりあえず屋全体がより西向きに傾いていることは遠目にも確認できた。端の欠けた階につづく上がり框は腐って崩れ、その穴の中に蛞蝓が数匹、新たな住居を吟味するかのごとく思案気に這い回っている。
「佑、ちと」
しばらく破れ屋の様子を窺っていた道説が、なにかを見咎めて佑の肩を押しのけた。
「……草履の足跡だ」
ところどころ穴の空いた廊下に、土足の跡が見て取れた。複数のものとおぼしきそれは、そのまま廊下の奥へと続いている。
(物盗りか……!)
「道説どの」ひらりと簀子縁に飛び上がると、佑は切迫した声で大男を促した。「前に来たときはあんなものはなかった。なにかあったんです」
「応」と応えて、ひらりと簀子縁に飛び上がると、道説はものの見事に床板を踏み抜いてつんのめった。「ひらり」と飛ぶにしては、彼は重すぎた。
「た、佑。いい、先に行ってくれ」
「いえ、手を――」
佑が戻って手を差し伸べかけた途端、廊下の奥から十匹あまりのネズミが一斉に飛び出してきた。どうも道説が床を蹴破った音に反応したらしい。
佑は息を呑んで、ネズミが這い出してきた曲がり角を見つめて凍りついている。
「……ネズミ」
「……ネズミだ」
道説は勢いよく廊下に飛び上がると、走りだす佑を追い抜いて季満の部屋へ殺到した。
(まさか……季満!)