The wailer I
仁和三年 四月朔 甲辰 巳一刻
塩を焼く蒸気が、曇天をめざして煙っている。籬の島は恒例の熱気につつまれている。
「しばらく会わなかった。息災であったか」
背を向けた浅黄いろの直衣が、振り返らずにそう言った。襟と烏帽子のあいだの項に白いものが目立つのは、年相応と言わざるをえないのだろうが、背は旗竿を入れたようにすっと伸びている。
二人の佇む、島の中ほどに設えられた四阿は、古代を装ってか朽葉色の褪せた意匠に仕上げられていた。藻塩焼を見るともなしに眺めるこの老人の趣味で、見渡せるかぎりの家屋はみな一様に、この河原院には貴族の屋にしかるべき華やかなものは見受けられない。
(いくつにおなりだろう、このお人は)
「……あのほうで忙しいのか。お前の働きには期待しているが、体はいとわねばならぬ。ん?」
返事のないのに気が差したのか、直衣はそう言いながらようよう、首だけで振り返った。老いにそぐわぬ、その高くすっきりと整った鼻の向こうに、衣を汗みずくにした男たちが数人、鹹水を塩竃で煮詰めているのが見える。
二人にとっての共通の原風景。まがいでこそあれ、それは懐かしい陸奥の眺望であった。
「上衣は、やはり着けぬがよろしいかと、わたしは思いまする。……御前はいかに」
竈に鹹水を足し、かたがた這いつくばって火加減を見、バッタのように烏帽子を上下させる男たちは、みな一様に神事の折の白衣のごとき単衣物を身につけている。大変な重労働で、上には何も着ないのが本来なのだが、老人は「品下がる」と言って着衣にこだわるのであった。
老人は黙ったまま、薄くただよって来る湯気を檜扇でぱたぱたと煽っている。
「……御前、折を見て、母の墓参りに来て頂けませぬでしょうか」
会うたびにそのように言うのも、これで幾度目か覚えていない。そして返事はいつも決まっているのだ。
「左大臣の重職にあるものが、みだりに陸奥のごとき遠方に赴くわけには参らぬ。按察使であったかつての頃とは違うのだ、母御も解ってくれよう」
体のいい言い訳であった。そして言い訳であると感じるようになったおのれが、たまらなく悲しい。
「御前、厚かましきお願いがござりまする。お聞き届け下さりましょうや」
「……申してみよ」
いつもならこれで引き下がるのが、意外にも食い下がってきた為に、老人の声はにわかに警戒のいろを帯びた。
「母の、母の形見がございましょう。墓参りが叶わぬのであれば……どのように小さくとも構いませぬ、せめて御手ずからあれを祭り、以て母の追善として頂ければ、母もどれほど――」
「あれはの、盗まれてしまった」
「盗、まれた……いつの、いつのことで」
「さよう、ひと月も経とうか」老人の声は常と変わらない。昨夜の献立を聞かせるような口ぶりである。「わたしにとっても大事なものだ、ここに置いておいては物盗りに遭うやもと、嵯峨野のほうへ移しておいたのだが、それが裏目に出ての。まことに残念なことだが」
「…………」
呆然としているあいだに、老人は大儀そうに立ち上がった。
「わたしの不注意だ。相すまぬことだが、これに気を落とさず、いっそうに励んでおくれ。ことの成ったあかつきには、そのときはもちろんお前と二人で、母御の待つ陸奥へ出かけていこうではないか。供養も盛大にやってやろう。のう」
「……お佑けします、御前。なおいっそう、お佑けしますゆえ、御前」
「うん、うん、期待しているぞ」と言うと、老人は指貫をするすると鳴らして退出していった。
鈍色の雲空がごろごろと唸った。男たちは変わらず、藻塩焼に精を出している。
ひとりで見るその景色が、みるみるうちに歪み、曇っていった。色のない懐かしさであった。思えばかたわらに誰かがいた記憶など、両の手指にすら欠いた。細波に舫う小舟の中で、怒濤に洗われる切岸の上で、まさに今日のような、泣き出さんばかりの曇天の下で、彼は膝をかかえて瞬きを忘れた。
おのれの孤独を癒さんがために。浦津の苫屋のひとつに至るまで漏らさず、脳裏に焼き付いたその記憶が――なんという皮肉、その記憶が、孤独を想起する呼び水になろうとは!
塩を焼く蒸気が、曇天をめざして煙っている。籬の島は恒例の熱気につつまれている。
「……御前、それにしても、この景色はまこと、塩竃津を思い起こしまするな。かたわらに、母のいないのが、なにやら不思議でなりませぬ。なあ、御前。――父上」
薄縁に涙を落とす青年に、男たちが気付くことはなかった。
四月二日 乙巳 辰四刻
「道説、お前は基経の犬か」
「道説は……だれの犬でもありませぬ」
「魚腸剣は上が為の剣、皇なる万世一系の甲、金枝玉葉を覆う楯。魚腸剣を執るお前が、君側の奸臣が為にはたらくことなどあってはならぬ。道説――」
「わが剣は……田夫野人の剣……わが剣は」
「道説、お前は基経の犬か」
うっすらと開いた眼に、注ぐように寝汗が流れ込んだ。汗と涙で歪んだ世界は、しかし明るかった。
「道説どの、悪しき夢、でしたな」
顔の上から、低い、玲瓏たる声が落ちてきた。見てきたかのような、確信めいた声である。
「ようよう辰四つになりましょうかなあ、外はよいお天気でござりますよ」
始めこそ戸惑いを隠せなかったものだが、たおやかな女の声に起こされるのも、このごろはなんとはない心地よさすら感じるようになっている。おのれの自堕落を責めてみるのも、はや飽いた。
(夢に定省さまが現れたか……おれは、気にしているのだろうか)
「……和妙どの、水を頂きたい」
目をこするついでに、そのまま脂じみた顔を袖でぬぐう。ややあって耳の端に、椀に当たって跳ねるこまかい水の音が聞こえてきた。
湿った夜具に左手を差し込んで傷を探るのも、起伏しに際しての新しい習慣のようになってしまった。いい加減に撫でなれた下腹の一カ所は、皮膚がよじれ、抉れたようになっている。感覚もそこだけは余所より敏感で、まだなんとも頼りのない、まさに薄皮一枚といった感触である。治りつつあるようでも、本復にはいま少し時間がかかりそうだ。
(傷も、良くなってきてはいる。懸念ごとが夢に出てきたのは、あるいは肉体の心配が薄れたからなのか……)
太政大臣藤原基経の屋敷において、菅原道説が致命の返矢に倒れてより、ひと月ほどが経っていた。
ひところは非常に重篤だったようで、担ぎ込まれた先の主に難色を示されたのを、道説は朦朧とする意識のなかで聞いている。助かるまいと諦めた命を救ったのは、
「道説どの、お水を」
と言って杯を差し出した、この女であった。
基経の紹介にかかる医師、葛城高宗の妹で、自らを称して和妙という。本名を名乗らぬのは、なんでも葛城の家から放逐された身であるからなのだそうな。
和妙とは、神御衣の料たる絹を指していう言葉である。かつてなにがしかの神職にあったものか、あるいは今もあるのか、身にまとう衣はいかにも幣榊の似合いそうな、その名にふさわしい絹の白衣白袴であった。
どのような理由あってのことか、その面はほとんどが布面で覆われている。面妖ではあったが、そこからのぞく両の眼は優しい。
道説は杯を受けとると、せめてはしたなしと思われぬよう、渇きを気取られぬようにゆっくりと口に運んだ。体裁ぶった大男の挙作に、和妙が親しみを含んだ忍び笑いを漏らす。
「道説どの、のどが渇いておりましょう。ぐっとゆかれませ、ぐっと」
「……いや、そうは申されましてもの」
「なにをご遠慮なされたものやら」と、和妙は娘のような笑い声をあげた。「道説どのの『すべて』をこの眼に映したわたくしに向かって、いまさら繕うべきどのような体裁が残っておりますな」
「…………!」
「このうえはわたくしを母とも姉とも思いなして、お寛ぎなされませ。ここは貴方さまが家宅にござりませぬか、さあさあ」
道説の彫りのふかい顔が、真っ赤を通り越して赤黒くなった。手にした杯がぱきっと割れる。
(幾度思い返しても……痛恨! この妙齢の女性を前に、よりにもよって素っ裸で大の字になっていたなど……!)
治療の為だったとはいえ、考えるだに総身が発火炎上せんばかりである。無論、命あっての物種であるからして、恨む気持ちなどさらさらないのであるが。
(助かる為には、そう、助かる為には、見られなければならなかったのだ。うむ、そうだとも、よいではないか道説、減るものでもなしに……)
「しかしまあ、眼福でござりましたな。なんとご立派なものを――」
「和妙どのっ!」
「ほうら道説どの、激してはお傷の治りに障りまするぞ。ほほほ」
声をひっくり返してわめく道説を、和妙はまったく慈母の笑みで宥めた。道説よりも確実に歳下であるはずなのだが、ここ数日のあいだ、大男はこの布面の女に翻弄されっぱなしであった。
なお始末に負えないことに――道説自身はどうやら、そのことがそれほど嫌ではないらしいのだ。
「ほ、庖丁! これ、客に給仕をさせるやつがおるか! どこで怠けておる、出てこい!」
屋敷が震えるほどの大声で、道説は下僕を呼ばわった。単なる照れ隠しの八つ当たりである。
「庖丁どのは最前から、道説どのの御膳を誂えておりますよ。前にご自分でお命じになったのではありませぬか」
「う……」
「それと、わたくしは道説どのを診るために、この屋に間借りさせて頂いているだけで、客ではござりませぬ。ここへ上がらせて頂いた折、説明もうしあげましたな?」
「…………」
道説、返す言葉もない。和妙は相変わらずにこにこしながら、声も高らかに、
「さように大きな声を出されては、治るものも治りませぬ。大臣に兄に任された御身を万が一にも損のうたら、以後わたくしは外へゆくにも顔を隠してせねばなりませぬのですぞ。道説どのはこの和妙を京の物笑いになさるおつもりか?」
「……顔は今でも隠――」
「おつもりか?」
「いえ……」
「道説どの」
「はっ」
布面からのぞく眼が、三日月形に撓んでいる。和妙は膝でいざってちょっと移動すると、「御膳が参りましたよ」と、含み笑いながら言った。
折敷を捧げ持った下僕が、ちょうど部屋に入ってくるところだった。
「おお庖丁、今日の馳走はなんだ」
下僕の顔をひとめ見るなり、さきほど怒鳴りつけたこともころりと忘れて、道説は厳つい顔に喜色をみなぎらせた。
和妙の診立てで目下、床に釘付けになっている道説にとって、一日の中の楽しみといえば食事の時間くらいであった。最近は彼が「庖丁」と呼ぶこの下僕が、朝な夕なに膳を仕立てているので、このごろでは顔を見るだけで反射的に涎が出てくる。
「雉ですな。まあおいしそうだこと」
猫背ぎみの下僕は、おどおどとずれる烏帽子を押さえながら、「雉の膾にございます」と呟いた。
鮒の羮、昆布と大根の汁、蕗を刻んだ未醤韲、柑子、汁粥は鰹節の汁で煮て、少しだけ蒜を入れた――下僕は折敷のうえの椀、盤などを順々に示しながら、ぽつぽつと説明を入れる。
「ほんに、こちらの庖丁どのは料理がお上手。おうらやましいことですなあ……」
下僕のこしらえた膳を見るたび、和妙は毎度まいど感に堪えないといった口で褒めるのだった。彼女は葛城の家を出ているということなので、あまり旨いものを食べる機会がないのかもしれない。
「ううむ、お前はなにをやらせても今ひとつ足らんが……こちらの方は抜群だの。どれ」
さっそく箸を取り、膾の一切れを口に入れてみる。
「うむ……」
旨い。隠し味の梅の香が鼻をくすぐった。この下僕の料理だけは、終日ほとんど動かない身でも実に美味に感ぜられるのだ。
「うむ……ううむ……」
無心に膳をむさぼる道説を見て、和妙は指を咥えんばかりにして「おいしそうですなあ……」と呟く。もっとも、下僕はたいてい和妙の膳もともに用意していることがほとんどなので、雉の膾のご相伴にあずかれることを、彼女は疑っていない。まさか女の身で「はらがへったからおれのもたのむ」などとは口が裂けても言えないので、ちょっと鈍い下僕が気を利かせるのを待っているだけであった。
「それにしても……豪華だの。ま、座れ」ふと箸を止めた道説が、中腰のまま畏まっていた下僕にそう言った。「今日のこれは、どちらさまからだ」
「あ、はい、ええと、橘さまでございます」
「……広相さまか?」
「ええと、そうでございます、多分」
道説はいちど鼻で溜息をつくと、箸を止めて枕元に視線を転じた。年季の入った長方形の枕のそばに、白木の三方が置かれている。
そのうえに穴が空き、ごわごわに赤茶けた文が六通、丁寧にたたまれて鎮座していた。和妙いわく、その文こそが道説の命を救ったのだという。
「道説どの、お気になさらず、好意は素直にお受けなされませ」道説の考えていることに見当をつけたものか、和妙がそう言って勧めた。「滋養のつく食べ物を召し上がって、つつがなくご本復することこそが、珠子どのに対するなによりの御礼となりましょう」
「……以前にも、同じようなことを言われた気がいたします」
「そうでございましょうとも。道説どのはお堅うございますからなあ。――それにしても、おいしそうですなあ」
和妙はちろちろと下僕の顔を窺っている。彼は一向に気付く気配はない。
のちに和妙から聞いた話では、道説が葛城邸において施術を受け、絶対安静を命じられていた折、橘家の訪ないが幾度となくあったらしい。道説も一度、寝耳に遠く珠子のものとおぼしき金切り声を聞いたような覚えがある。
『道説さんの凶報を耳にしてより、食も喉を通らず寝るもならず、もしかしたらと悪いほうへ考えるたびに気を失うこと十度に余り、涙川に泳ぎ疲れてはや二貫目も痩せてしまいました。このうえは神仏だけが頼りと、櫛笥をうち捨て鏡を覆し、髪ふりみだして朝夕に数珠を繰り、ために糸の切れること三度を数え、韋編三絶ならぬ数珠糸のみたび絶つとはなどと、父をして驚倒せしめるありさまにて――』
いま現在は厳しく禁足を食っているようで、毎日のように手紙の来襲があるのみであったが、それに付随して高価な食べ物や金品を使いに持たせて来るのにはさすがに閉口した。代理を立てて「お心遣い構えて無用」の旨、先方には伝えてあるのだが、結果は金品が薬に代わっただけである。
「ありがたきことだが、できうる限り遠慮するのだぞ。まさかに催促などいたしておるまいな」
下僕はちょっと考えたのち、「はい、遠慮いたします」と答えた。――道説は眉根を揉んだ。
(これも今少し頭が回ればよいのだが……)
当初は「贈り物はすべてお断り願え」と厳命していたのだ。が、この下僕という男は、わざとやっているのか忘れているのか、先方がよしなにと手渡すものをあれこれ構わず貰ってしまう。ひどいときには貰ったことすら忘れる始末である。二度三度と雷を落としてみても、行いが改まることはなかったので、道説はこの頃ではすっかり諦めている。
ほかのものに対応させようにも、この下僕のほかの使用人といえば、耳の遠い老いた連れ合いが雑舎に住まっているのみ。少々あたまが足らなくとも、身体健康で真面目なこの下僕を頼みにするよりほかはなかったのである。
(雇い入れたわけではなし、誰かの紹介あってのことでもなし。――こんなものなのかの……)
下僕は使用人というより、居候に近かった。年の初めに泥だらけでこの辺りをうろうろしているのを老僕が見つけ、行くところもないと言うのでなんとなく置いてみた、というのがことの全てである。まだ廿足らずで、若い働き者が来てくれたなどと喜んだのが、遠い昔のことのようにも思える。
「……なにか忘れておることはないか? このあいだのように夜中になって『そういえば土師どのがお見えになりました』では困るぞ」
土師季満が帰ったあとにそれを言われたときは、さすがの道説も堪忍袋の緒をねじ切って床を蹴撥ねたものだったが、その折は和妙の制止によってことなきを得ていた。
「…………ええと」
「そうですぞ。庖丁どのはなにかお忘れになっております。ふたつあるはずがひとつしかない、といった類のことで――」
和妙も口を挟んだ。道説にはなんのことを言っているのかさっぱり解らなかったのだが。
「あ」
「おお、なんだ」
「そういえば、泰どのがお見えです。お見えでした」
「…………いい、わかった。膳を下げろ」
大男はひとつ長大息すると、ふと思い立ってふたたび傷の具合を探った。
(立って歩くくらいは差し支えあるまい)
和妙の了承を得ぬまま、道説は床を退けてそろりと立ち上がった。こころなし悄然と俯いていた和妙が慌てて顔を上げる。
「あっ、道説どの、いけませぬ――」
「いやいや、和妙どのよ」構わずいちど伸びをすると、道説は和妙に向かってひらひらと手を振ってみせた。「こう横になっているばかりでは、かえって体によろしくない。存外、支障はなさそうですし――これ、庖丁、着替えを持って参れ」
「ご自愛なされませ、命に関わる傷ですぞっ」
和妙の細い眉がきっと逆立った。彼女は高眉を引いていなかった。
「無論です。なに、無理はいたしませぬ。ひとと話すだけで――和妙どの、着替えますゆえ、ご退室願えませぬか」
そそくさと上衣の絎紐をほどきながら、道説は早々に和妙を追い出しにかかった。庖丁が彼にしては機敏な動きで、狩衣の入った乱筥を丸ごと抱えて来る。
和妙はしばらく座ったまま眼を瞑っていたが、ややあって「わかりました」と高い声で宣った。
「仕様がありませぬ。道説どのの申しようも一理ありますからな、今日は許可いたします。さ、お心おきなくお着替えなされませ」
「いや、見られておってはその……」
「なにをご遠慮なされたものやら。道説どののアレを――」
「和妙どのっ! なぶるのも大概に――」
「ま、これは正当な医療の一環でござりますよ」心外そうに言う和妙の瞳は、しかし好奇心に爛々と輝いている。「ちょうどよい機会ですのでお裸、いえお傷を改めさせて頂きましょう。さあさあ」
「…………!」
そうと言われては返す言葉もない。庖丁を手伝わせて、道説は仕方なしにのろのろと着替えを始めた。
(この女子には敵わぬ……高宗さまと代わってくれぬものだろうか……)
せまい別棟の一間から、賑わしい話し声が聞こえる。
(佑だけではないのか。季満も一緒か)
庖丁はちゃんともてなしたのだろうかと、不安げに中を覗き込む。
はたして、思いもかけない人物と眼が合った。
「おお、菅家判官! 起きてもよいのか」
「あ、吾妻! 貴様もおったのか!」
驚く道説に、隣の泰佑が笑顔で会釈する。櫃が二つと、几帳がわりの衣架がひとつあるだけの殺風景な板の間に、囲炉裏をあいだにして二人の人間が座っていた。
「や、佑、よう来てくれた――」
「おったのかとはご挨拶だな、いつもの若いやつに訪ないは入れたぞ」
吾妻と呼ばれた男、茨田重行が機嫌を損ねたふりをしてみせた。
(こやつめ……こたびは二段構えで忘れおったか)
無言で背後の下僕を睨まえる。下僕は塩を振りかけた蛞蝓のように小さくなった。
「お久しぶりです、道説どの。ひところは非常な重態とお聞きしましたが、歩き回っても障りはないのですか」
佑の言葉は挨拶のやりなおしというより、縮こまる下僕に助け船を出すようなころあいで飛んできた。
「なに、もうかなりよくなっての。床に伏せってばかりでは体が腐って――あ、こら吾妻、貴様それは酒ではないか」
「おお、いかにも」
重行の手には瓶子の首が握られている。杯もなしに直接くちに運んでいる様子である。
「なにがいかにもだ慮外者め、どこから持ち出した。いや、それ以前に貴様、ひょっとして勤務中ではないのか」
見れば重行の背後には、衛府でよく使われる重藤の弓が投げ出されている。道説の言葉を肯定するかのような機で、屋敷の外から馬の嘶きが聞こえた。
従六位下茨田重行の官職は、道説と同じ左衛門少尉。つまり、彼は道説の同僚であった。
「貴公な……わしが持ってきたものだとは思わぬのか」
「誰が思うか。おのれの胃を瓶子と勘違いしておるような輩だ」
なんだか一年も会っていないような気がして、同僚を冗談半分でなじりながらも頬がにやけてくるのを感じる。久方ぶりに自由に動かせる五体の開放感と相まって、道説はいまこそ本復したかのような錯覚すら覚えた。
「つれないなあ、ま、座れ。――なに、いつものことでな、うちのかみさんがなかなか呑ませてくれぬ」
(また『吾妻』が始まったわい。相も変わらず尻に敷かれておるようだ)
道説は苦笑を隠さなかった。彼のあだ名『吾妻』は言うまでもなく、その口癖に由来している。
「ま、それはそうとしてだ。今日たまたま見舞いに貴公を訪のうたら、これな法師どのに行き会うてな、話すところによれば土産に酒を持参したということだが、道説どのには毒やもと言うて――」
要は佑の見舞いを食らっていたということである。
「な、なんと呆れ果てたるやつよ……」
つい今ほどまでの懐かしさうれしさは、たちまち鳴りをひそめてしまった。同僚の素行もさることながら、自分宛に持参された酒を横取りされたのがなんとも癪である。静かに席についた道説の顔は、邪鬼を威嚇する仁王のごとくに変貌していた。
「あ、道説どの、重行どのの言われることはまことです。――持ってきてしまってから、いくらなんでも怪我人に酒はなかろうと愧じていたところです。わたしが頼んで呑んで頂きました」
「う、佑、そなたという男は……」
「ううむ、わしからこのようなことを言うのもなんだが……懐が深いなあ、そこもとは。うちのかみさんに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわい」
重行が水を向けたのはほぼ確実と思われたが、ここは佑に免じて許してやることにした。
(それにしても……この佑のように気の利く使用人が、そのあたりに歩いてはおらぬだろうか)
庇で縮こまったままの下僕をちろりと見て、道説は溜息をついた。
「……で、見舞いに来たのなら吾妻、見舞いの品も持ってきていような」
どうせ手ぶらだろうと、道説は高をくくって言った。無論、期待もしていない。むしろ持ってこられるほうが恐縮であるし、正直、この同僚が顔を見せに来てくれただけでも、実を言えば嬉しかった。
「ん? おお、あるとも。うちのかみさんが持って行けと尻を叩くのでな、持ってきたぞ」
「おいおい、本当にあるとは……」
重行は瓶子を下ろすと懐を探り、麻の袋を掴みだして道説に示した。じゃらりと金の音がする。
「銀だ、費えの足しにしてくれ。貴公も小禄の身で、養生もままならぬのであろうが」
医療費食費はすべて太政大臣持ちで、毎日のように珍味が届けられ、あまつさえ妙齢の女が四六時中看護に付き添ってくれている――などと言ったら、小禄はお互い様であるこの男は、
(どのような顔をするであろう……いや、言うまい)
道説はわざとらしく空咳などしながら、ありがたく銀の袋を押し頂いた。
「済まぬ、恩に着る。奥方によしなに言うておいてくれ」
「なに、いらざること。――ときに貴公、その傷、噂によると太政大臣を庇うて受けたものだとか」
ひやりとした。顔に出なかったかどうか、自信はなかった。
「誰に聞いた。さような話を」
「誰と言うてもな……」
重行は言葉を濁すと、話をうながすように佑のほうを向いた。
「強いて言わば、皆です。そうですね……三月の中旬頃には、少なくとも陰陽寮ではすでに珍しくない話になっておりました。鬼退治の衛門尉が、大臣の命を狙う外法師と刺し違えて重傷を負った、などと……道説どの?」
大男の面がみるみるうちに苦り切ってゆく。佑の言葉は段々と尻すぼみになっていった。
(この件を漏らすものがいるとすれば……長恭どのであろうな。さだめしおれが為になろうとの計らいであろうが……)
はっきり言って迷惑きわまりない。ましてこの一件は、そのあたりの不良公卿が痴情のもつれで呪われるなどといった話とは次元が違う。その性質上、特に秘すべきであることは明々白々であるのに、手柄話にすり替えてしまうとは何事であろう。
(よし、こたびばかりは、がつんと言うてやらねばなるまいな。思えばおれもちと甘すぎた。そうとも、じき自由になったあかつきには、位階の差を乗り越えてびしばしものを言うてやろう)
「で、まことなのか、菅家判官」
「……おお、なにがだ」
「なにがだではないわ。怖ろしいカオしおって、子供が見たら泣くぞ。噂はまことかと聞いておるのだ」
「うむ、まあ、あまり人に話して貰うては困るが、そうだ」
道説はしぶしぶ認めた。
「困るもなにも、知らぬものなどおらぬわい。それ、あの因業爺も口を極めて褒めちぎっとったぞ。『さすがは我が眼に適うた漢よ! 若き頃を思い出すのう』とかなんとか」
重行の言う『因業爺』とは、文室巻雄のことであろうと察せられた。
そもそも重行は『魚腸』の前身である『剣ノ妙法』を道説とともに興した、というよりは『なんとなく始めた』ひとりであった。が、じきに入ってきた藤原長恭が、大して使えもしないのに居丈高に次席を主張し始め、さらに巻雄が足しげく辞儀松に通ってやいやい言うようになってからは、
「やかましくてかなわん、勝手にやってくれ。わしはいち抜けた」
ある日を境にすっぱりとやめてしまった。爾来、彼は巻雄や長恭を疎んじ侮るようになっている。
「あの蘭夕郎も一緒だったらしいな。ま、あれは一足先に本復したと聞いたが」
「ん、本復? なにかあったのか」
「さてなあ、何分、どうでもいいことでな。直接本人に聞いたがよかろう」
さて、と重行は投げ出してあった藤弓を掴むと、瓶子の残りを忙しげにあおって立ち上がった。空のそれを囲炉裏の縁に置いて、
「察するとおり、勤務中だ。ひとり欠けておるうえに、この頃は妙な命令が下っておってな、忙しきことこのうえない。もそっとゆっくりしたいところだが、これにて失礼する。――道説」
いそいそと身だしなみを整えながら、重行は改まった声をかけた。
「なんだ、重行」
「干柿が貴公をご指名だ。なにかの盗難事件と聞いたが、傷が癒えたのなら、近いうちに行って聞いてみるといい。――ではな、菅家判官。次はうちのかみさんも連れてくるぞ」
階の前でいちど弓を引き、かんと鳴らすと、重行は足早に出て行ってしまった。
「……お仕事ですか。干柿、とは」
「うむ、左衛門佐さまのことでな。――いや、ばたばたして済まぬ。久方ぶりだというのに話もできぬで、あれが来ておるとは夢にも思わなんだ。見舞うてくれてかたじけない」
鞍上の重行が辻を曲がるのを見届けたのち、改めて道説は礼を述べた。
「仲がよさそうでしたね。重行どのと申されましたか、面白いひとだ」
「……年がら年中、妻の尻に敷かれておる男でな」重行の消えていった辻を、道説は眩しげに眺めている。「いつであったか、どこぞの公卿どのに手ひどく揶揄されたことがあったが、『そこもとが尻軽妻どもはいざ知らず、吾妻が尻の敷かれ心地はまた格別ゆえ』などとやり返しておったな。――面白き男よ」
「ひょっとして気を遣わせてしまったでしょうか。日を改めたほうが良かったやもしれません」
「いや、重ねてよう来てくれた。――おおそうだ、これ庖丁、丁度よい、お前が料理の腕を見て貰おうではないか。前の献立でよい、すぐに支度いたせ」
いきなり声をかけられた下僕は、あたまに染み渡るのに数秒かかるのかすぐには動かず、道説のほうを見て黙然と突っ立っている。
「いえ、わたしはいいのですが――道説どの。唐突ですが、これから出かけられますか?」
「ん、おお、特に予定はない。ヒマでな」
ふと、和妙の布面顔が脳裏をよぎる。彼女には内緒で行こう、と道説は思った。
「で、どこへだ。あまり遠くへは行けぬが」
佑の細い眉が、ふと憂わしげに翳った。
「季満の家へ、見舞いに。――あいつ、もう十日ほども寝込んでいるんです。今日はそのお誘いに伺いました」