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 三月四日 戊寅(つちのえとら) 丑一刻(うしのいっこく)


 「妙法先生(みょうほうせんせい)人形(ひとがた)の脚が……!」

 長恭(ながよし)の驚きの声は、辺りを(はばか)ってのことか、押し殺したような響きをともなった。

 見れば、いつの間にか(しとぎ)の人形はいびつに形を崩し、その右脚は千切れて落ちていた。が、それが呪の成功を示すものなのか否か、道説(みちとき)にはなんとも判じかねた。

 「うん、成功え、道説。ようやったなあ」

 季満(すえみつ)が破顔する。

 「……そうなのか」

 季満のお墨付きを得て、道説はようやく檀弓(まゆみ)を下ろす。たった二度、弓を()っただけなのに、大男の体は常にない疲労で充ち満ちていた。

 (呪とは存外、体力を使うものなのか)

 膝に両手をついて息を整えながら、道説はあらためて几帳(きちょう)の前の法師をうち眺める。今宵、おのれが生涯わすれ得ぬであろう体験をしたことに、遅まきながら気付く。

 (おれは呪の片棒を担いだ、術を行うたのだ。目に見えぬ世界、肉から乖離(かいり)した世界は――やはりあった)

 道説は静かに膝をついた。無事に為果(しおお)せた達成感とともに、なにか新鮮で澄明(ちょうめい)な感動のようなものが、体を貫くのを感じる。(ひさ)しくその存在を疑いながら、それでいて常に自らの価値観を刺激せずにはいなかった、あの世界へ触れた感動。――道説にはそれが、おのれと他人との差異を埋めるための、鍵となるように思えるのだった。

 「季満よ、死んだかの……」

 ふと、(さき)に射た矢がどのようなことを招いたかに考えが及んだ。今ほどの感動が殺人のうえに成り立っているのだと思えば、後ろめたさはぬぐいようがない。

 「死んだ? ――ああ、たぶん。おれがやっても、ああはならへなんだろ思う。お前、才能あるかもわからんえ」

 「……そうか」

 「妙法先生、お見事な腕でございました。――土師法師(はじのほうし)も、妙法先生のお助けありとは申せ、よく努めた」

 「尾筒丸(おづまる)もな」と言って、長恭はかたわらの童子の頭を撫でた。いつものとおりの傲岸(ごうがん)さではあったが、その(おもて)は肩の荷の下りた安堵に(いろど)られている。父親の名誉を保ち得た喜びが、その麗貌(れいぼう)から十分に窺いしれた。

 「やあ、とにかく一安心や。ご褒美が気になるとこやけど――なあよっちゃん、よっちゃんのお父はんからもろたらええのんかいな? なんや大臣(おとど)石佐(いしすけ)はんが()れるとかゆうたはったけど、ひょっとして両方からもらえるのんか」

 「おそらくはそうなるだろう」ちょっとムッとしたのもつかのま、長恭の(かお)はじきに元の笑顔に戻った。「父は出し惜しみせぬひとであるし、この(たび)お前に窮地を救われたは事実であるからして、報酬も満足のゆくものになるはずだ。――大臣の謝礼は措くとしても、な」

 「いやあ……こら楽しみやなあ……お足もろたらなに食べよか、尾筒丸」

 季満と尾筒丸は手を取り合ってきゃっきゃと喜んでいる。

 「こたびの功一等(こういっとう)は妙法先生と言っても過言ではありますまい。報酬の件、わたしから父にかけあってみましょう。金子がよろしいのでしょうが、馬なども良きものが――」

 「オンセンエンシャテンドウソワカッ!」

 季満が突然、悲鳴のような声で陀羅尼(だらに)を叫んだ。

 「な、土師――」

 「道説ィ!」

 ばたばたと板の間に水をこぼすような音がする。道説が弓を取り落として喀血(かっけつ)し、板の間を揺るがしてくずおれるところだった。

 「妙法先生……一体なにが……」

 「ダメやった……ダメやったんや、なんでやあ!」

 「退()けっ! ――妙法先生!」

 尾筒丸が火がついたように泣き出す。季満と長恭は先を争って道説のもとに殺到した。

 「妙法先生、お気を確かに――土師法師、説明しろ、なにがあった!」

 「わからへん、わからへん、道説しっかりせえ、死ぬなあ」

 「この無能者……貴様のせいで!」

 季満に掴みかかろうとする手を、血に濡れた道説の手が掴んだ。なにか喋ろうとして、ごぼごぼと濡れた咳を繰り返している。

 「道説、大丈夫か? どこ痛い?」

 「ふ……()け、拭けっ」小刻みに震えながら、道説は「拭け」を繰り返す。「お、大臣が屋を、血で、(けが)すな、拭けっ」

 「あほか! 自分の身ィ心配せえ!」

 「誰ぞある、斎雄(ときお)っ、参れ!」

 背後であがった(しわが)れ声に、二人は弾かれたように振り返る。

 いつの間に(ひさし)へ入ってきたものか、仄白(ほのじろ)単衣(ひとえ)の背が、こつぜんと几帳の前にうずくまっていた。騒ぎにまぎれて起き出してきたのであろうか。

 「これを使え、血を止めよ」

 几帳の(かたびら)を二、三枚、手早く(むし)り取り、基経(もとつね)はそう言って二人に投げてよこす。錯乱(さくらん)して凍りつく季満と長恭を尻目に、いっそ憎たらしいほどの落ち着きようである。

 「……摩訶不思議(まかふしぎ)なこともあるものよ、かような有様(ありさま)は初めて見るわ」

 「大臣……お目覚めになられていたとは」

 「あれだけどたばたされて、寝てなどおられようものか。一部始終を見ておったが――なにをしておる、早う手当せなんだら廷尉(えんい)どんが死ぬるぞ」

 「そ、そや、怪我、道説、どこ痛い?」

 見れば、最前から道説は腹部の一カ所を手で押さえていた。倒れたときに折れたのだろう、半ば折れた矢柄(やがら)が、腹から斜め下へと突き出ている。

 血に()んでこそいるが、鷹羽を()いだそれは、まさしく(さき)に道説が射たものに相違ない。

 「返矢(かえしや)や……」

 季満の声音に絶望の響きが混じる。

 「……返矢とは」

 いかにも値の張りそうな絹地を引き裂き、長恭は慣れぬ手つきで大男の腹に巻きつける。矢を引き抜くわけにもゆかず、手当らしい手当はそれくらいしかできそうにない。

 「返矢を受けたモンは……絶対に助からへん。おれの陀羅尼じゃ、ほんの少しずらすのが精一杯やった。――どうしよ、どうしよ、道説が死ぬう」

 季満はとうとう、尾筒丸と一緒になって泣きだしてしまった。

 「馬鹿な……馬鹿なことを! 妙法先生が死ぬなどと……」

 そうこうするうちに、渡殿(わたどの)のほうから複数の足音があわただしく聞こえ、前に季満たちをもてなした舎人(とねり)が庇に入ってくる。

 血溜まりの中にうずくまる大男を一瞥(いちべつ)するなり、

 「ご、御前(ごぜん)、これはいかなる……」

 そう言って肝を消す。

 「斎雄、サカムネの家宅は北辺(きたのべ)だったかの」

 泣きごと繰りごとを応酬する季満と長恭を措いて、まるで世間話でも振るように基経は問うた。斎雄と呼ばれた舎人は狼狽もあらわに、ようよう口を開く。

 「サカ……高宗(たかむね)さまのことでしたら、さようでございます。たしか西洞院川(にしのとういんがわ)の――」

 「よし、そちはこれからこれを担いで、サカムネを(おと)なえ。さだめし酔いつぶれて高いびきをかいておろうが、たたき起こして()るように申しつけよ。この基経を診るがごとくに診よとな」

 「は……いえ、それは構いませぬが、これは一体……」

 いきなり呼びつけられて血の海を見、説明もなしに怪我人を担いで夜道を走れと言われた斎雄の困惑は、甚だしいものがある。

 「もうダメや……なにしても無駄や、道説は――」

 「だまれっ!」

 長恭の鋭い平手が飛ぶ。季満は横面を張られて床にまろぶ。尾筒丸の泣き声はいや増す。嘆に激に猖獗(しょうけつ)をきわめる庇のしたで、基経だけが平常のこころを保って周囲から浮いていた。

 「それ斎雄、急げ。道の中途で死ぬれば、そうじゃのう、耳敏川(みみとがわ)にでも捨てよ。西洞院川に流したらここへ戻ってくるゆえのう」

 基経の冷たい声に、長恭の目が()わった。ふらふらと道説の檀弓を拾い上げ、横倒しになったやなぐいからおもむろに征矢(そや)を引き抜く。

 充血した眼が、ぴたりと基経の面に向けられた。

 「太政大臣(おおきおとど)

 「なんじゃね」

 その声音にも瞳にも、(まった)き殺意が籠められているというのに、老人は怯えも咎めもしなかった。打てば響くように、静かな返事を返すのみである。

 穴も空けよとばかりに凝視していたのもつかのま、ややあって、青年はなにかを断念したように(こうべ)を垂れた。

 「……菅原道説(すがわらのみちとき)に代わり、この藤原長恭(ふじわらのながよし)めが身命を以て、護法あい務めまする」

 (うつぶ)せた頬には紅涙(こうるい)が伝っている。前に尾筒丸を(さと)した折のごとく、それは細く透き通った声であった。途端、部屋の隅っこで丸くなって(むせ)んでいた季満が顔をあげた。

 「よっちゃん、あかん」

 長恭は応えない。気負いも怖じ気もなく、彼は自然体で人形に向き合った。

 尾筒丸がぴたりと泣きやんだ。高灯台(たかとうだい)の灯が揺らめき縮まる。長恭の華奢(きゃしゃ)な背から、なにか黒い禍々しいものが放射されている。

 (殺す、殺す、殺す! ひとならぬものならなんでもいい、この身がどうなろうとも構わない。一度だけでいい、我が祈願感応(きがんかんのう)あらせ給え、我が心願成就(しんがんじょうじゅ)せさせ給え!)

 青年の美貌は、正視に耐えぬ鬼相(きそう)にすり替わっていた。ほそい手指で弓弦(ゆづる)を引き、力なく征矢をつがえる。檀弓は元の持ち主の半分も(たわ)まない。

 「あかん! 長恭、()めえ!」

 「いずくにあらん、神よ仏よ魔羅(まら)よ。菅原道説に(あた)せし者に、この矢当たらしめ給え。天に坐せば霹靂(かむとけ)もちて打たしめ給え、地獄に在れば業火(ごうのひ)もちて灼かしめ給え――」長恭の喉からほとばしったのは、とうてい(のろ)いの言葉とは思えぬ、朗々とした(うた)いのような声であった。「――しからずんば我打ち灼き給えかし!」

 灯がかき消え、辺りの虫の()までが鳴りをひそめる。季満がとびかかる寸前で、青年は檀弓の塗弦(ぬりづる)を引き、征矢を射放(いは)った。――弦は(こと)のごとく、音楽的な響きをともなって切れた。

 「この矢当たれっ!」

 閃光と轟音が辺りをなぎ払った。


 「別当(べっとう)、いい、矢を――」

 ぶるぶる震える手が、抱き抱えようとする吟師(ぎんし)の腕を力なく振り払う。

 常ならぬ気配に、たたらを踏んで対屋(たいのや)を飛び出した吟師は、母屋(もや)についたなりなんの説明も貰えずに、言師(ごんし)の介抱を命じられていた。別当はその背後に立って、手伝うでもなくその様子を傍観(ぼうかん)している。

 「やい言師、こんな時間に手ェ(わずら)わせやがって、いってえ何事だこの有様ァ」

 せめて胸中の心配を気取(けど)られまいと、吟師は寝起きの不機嫌を装っている。

 一瞥して命の危険を直感させるほどの重傷であった。右の手足はとんでもない方向を向き、露出した肌のそこかしこは、黒い(あざ)と裂傷とで覆われている。最前から首が()わらないのは、ひょっとすると首の骨も折っているのかもしれない。

 (言師、失敗したんだな)

 「別当、必ず、必ず、為果せるゆえ、べっどう――」

 言師は言葉を詰まらせ、吟師の胸に真っ赤なものを吐き戻した。吟師のことを別当だと思っているようだった。

 哀れみがつのる。

 眼を(そむ)けたのは、服を染めた血塊を怖れた為ではない。すでに手当など及ぶべくもない容態なのは、素人目にも明らかであった。

 (こんな状態の人間を、この男は黙って眺めていたのか)

 別当は恬然(てんぜん)と腕を組んでいる。言師に助勢したのか否かはわからなかったが、見た限りかすり傷ひとつ負った様子もないのが、吟師には無性に腹立たしい。

 「おい、てめえ、薬のひとつも持ってきたらどうなんだ。なにぼさっと突っ立ってやがる」

 いらえはない。その眼はじっと祭壇に釘付けになっている。もはや言師には一瞥もくれない。ややあって、祭壇を見据えたまま、

 「吟師、もういい。こちらへ」

 待ちくたびれたような声音で言った。

 「もういい」のなにが「いい」のかに、一拍置いて見当をつけると、

 「てめえ、なにがもういいってんだ。動けなくなったから、もうこいつはお払い箱だってえのか。ひとの命をなんだと思ってやがる!」

 憤然と食ってかかった。

 別当はちょっと眼を見張った。はからずも意外なものを見た、といった面持(おもも)ちである。

 「無論、お払い箱になどするつもりはない。それとは別だ、いいから表へ出ろ、吟師」

 なんとこんな状況下で、別当はうっすらと笑っているのである。

 (こいつ……おれたちを使い捨ての道具だとでも思っているのか! 許せない、どうでも一発殴ってやらなければ気が済まない!)

 吟師は別当について(きざはし)を下りながら、馘首(かくしゅ)覚悟で拳を握りしめた。

 「別当、屹度(きっと)、約定は、果たされような。まこと、越前(えちぜん)は遠いゆえ……ああ、かやこ……」

 言師のかぼそい声が追いかけてきた。言師が自分の体を借りて殴るのだと、吟師は怒りを新たにした。

 裸足のまま、二人は小体(こてい)な庭に出た。別当は足早に前を歩く。

 初春に小さな紅い花をつけていた椿(つばき)が、濡れたような玉葉(ぎょくよう)を茂らせている。対屋からは、その葉叢(はむら)にうえに三日月が(のぞ)めたのだったが、今は築地(ついじ)のうえにも屋根のうえにも、その姿は見いだせない。いつの間に雲が出たのだろうと、吟師はほんのいっとき怒りを忘れた。

 「吟師、もう少し母屋から離れろ」

 (――月なんかどうでもいい。はやくこいつを黙らせて、せめて言師を看取(みと)ってやろう……)

 肩をまわしながら、椿の根元に立つ別当に近づく。彼我(ひが)の距離が五歩まで近づいたとき、吟師は歩みを止めた。

 別当の手に、白木の短刀が握られていたからである。

 「てめえ……なんのつもりだ」

 及び腰になるおのれを叱咤(しった)して、吟師は踏みとどまった。

 (こいつ、まさかおれまで始末しようという腹では……)

 今宵、呼師(こし)たちが急遽(きゅうきょ)別口の命を受けたことに思い当たる。

 (実力の伴わないと判断した法師を、間引くつもりか!)

 「吟師、そこを退け、邪魔だ」

 ()れたような声が飛んだ。――どうやら突きかかってくる気配はなさそうである。昼日中(ひるひなか)であったなら、勘違いに赤面するのを見咎められたであろう。

 短刀を頭上に掲げながら、別当はかつかつと叩歯(こうし)を始めた。十二遍(じゅうにへん)。どうやらなにがしかの術を行う腹積もりのようだ。

 「なにをするつもりなんだ、おい」

 ぶっきらぼうに言ってから、我ながら照れ隠しのようだと、吟師は赤い顔をさらに(あつ)くした。なにを言っても藪蛇(やぶへび)になりそうなので、すごすごと別当の視界から退散する。

 「甲上玉女(こうじょうぎょくじょ)、甲上玉女、我が身を護り来り、百鬼をして我を中傷せしむることなし。我を見るは以て束薪(そくしん)と為す――」

 ぶつぶつと述べたあと、別当は手に持った短刀で九字を切った。それが終わると、

 「我はこれ、天帝の使者なり。執持(しつじ)しむる所の金刀(きんとう)は不祥を滅せしむ。この刀は凡常(ぼんじょう)の刀にあらず、百練の鋼なり――」

 おもむろに短刀を振りかぶり、さきほど吟師が立っていた辺りに投げつける。

 「急々如天帝太上老君律令」

 はたして、地面に短刀の柄が()えた。なにも起こらない。

 「いってえなにを――」

 「吟師、姿勢を低く」

 なんで、と問おうとした瞬間――世界が真っ白になった。音が消える。

 音が戻って最初に聞こえてきたのは、おのれ自身の叫び声だった。そのときになって初めて、吟師は自分がずっとわあわあと声を()らしていたことに気付く。

 白一色だった世界が元の(いろど)りを帯びるなり、吟師は叫ぶのをやめて絶句した。

 別当の短刀の向こう、つい先程まで闇に横たわっていた母屋には、巨人の足跡のごとき大穴があいていた。つい先程まで吟師たちがいた祭壇の一間(ひとま)は見事に炭化し、もはや祭壇も床も柱も見分けのつかぬほどである。

 深更(しんこう)の大落雷に肝を消したのだろう、築地の向こうのそこかしこから、ひとの起き出す気配が感ぜられる。眼の(はし)に数人、雑舎(ぞうしゃ)から水を張った鍋桶(なべおけ)を携えた舎人が、押っ取り刀で駆けつけてくるのが見えた。

 別当の舌打ちが聞こえる。

 「……ひとの身で神鳴(かみな)りを喚ぶとは、よほどの腕利きか無知か、やぶれかぶれか。――あれ一人には荷が重かったようだな」

 「言師……」

 とうに雲は晴れたようで、白々(しらじら)とした月明かりが、屋根にあいた穴に落ち込み、ほんの寸刻前まで言師と呼ばれていたものの姿を、炭化した床のうえに明かしていた。もはや衣服と肌の境目も定かではなく、黒焦げになった表面のところどころに裂目がつき、赤ぐろい肉がその隙間から垣間見えている。

 誰かを呼び止めるように手を伸ばしながら、言師は虫のようにこごまって死んでいた。

 「吟師」

 「…………」

 「吟師、雑舎を一軒あける。あれを放り込んでおけ」

 「……あれって」

 「あの死体だ」

 吟師は応えずに立ち上がると、ひとでなしの白面に向かって殴りかかった。が、渾身の一撃は無造作に打ち払われ、お返しに三つも拳を頂戴してもとの地べたにのめった。

 「今のは見なかったことにしておく。が、振る舞いには気をつけよ、吟師。わたしは今、すこぶる虫の居所が悪い」

 「……ひとでなし。(とむら)いも、させてもらえねえのか」

 そのとき向けられた別当の壮絶な笑顔は、吟師の胸の裏に焼印を押しつけるように、決して忘れ得ぬものとして残った。

 「ひとでなし! ひとでなしか。そう言うおのれは何様のつもりだ。おのが立身の為に呪殺の片棒をかつぐ、そのお前がひとの倫理を云々言うとは!」

 「…………」

 「……吟師、お前は間違ったことを言ってはいない」別当は夢から醒めたように、笑顔を吹き消した。「わたしはひとでなしよ。あれなる言師も、お前もだ。ひとたらんとするなら、ここから去れ。人外を討たんと欲すれば、ひとはひと以外の何者かにならねばならぬのだから」

 落雷の小さな残り火が、炭になった母屋の端々(はしばし)をちろちろと舐めている。駆けつけた舎人たちがおおわらわで消火に追われるのを、吟師は尻餅をついたままぼんやりと眺めていた。

 ひとでなし――自らの投げつけた罵声は、誰に向けたものであったのかと、吟師は去りゆく別当の背中を打ち眺めながら思った。

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