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三月四日 戊寅 子四刻
ふいに尾筒丸が、猫のようにあらぬ方をついと向いたなり、几帳の前の銭塔が派手な音をたてて四散した。
「尾筒丸、どっち?」
季満の鋭い問いに、童子は階からやや左よりの方角を小さな指で指し示し、「アッチ」と呟いた。道説と長恭は、ばらばらに散った銭を眺めながら凍りついている。
「よっちゃん、そこ退き。道説、弓の準備」
切迫した声で指示を飛ばしながら、本人は尾筒丸のこしらえた二体目の人形を引っ掴み、階のかたわらに静かに据える。長恭の「来たのか、土師法師」という問いかけは完全に黙殺された。
「道説、さっきゆうた通りや。人形を射る思うのんやあらへん、その向こうにいる悪者を射る思うのんえ」
「うむ……しかしまことにかような――」
「道説、こっち見い」一度どんと床を踏みならすと、季満は怒ったような顔をしてみせた。「ええか、信じへなんだら、どんな簡単なことかて成功しいひんにゃ。これからお前のやることは難しいことやあらへん、お前の矢はぜったい相手に当たる。おれを信じい、自分を信じい」
しばしためらいつつ、弓の具合を確かめるように二度三度と弦を引いていたのだが、ややあって「応」と短くいらえると、道説は几帳の前に立ちはだかって檀弓に征矢をつがえた。
(季満、お前を信じるぞ。お前の言うとおり、この矢は当たる。この矢は当たる――)
「太政大臣に仇す輩、我が一矢を以て報いなさん。この矢当たれ」
弓弦も切れよとばかりに引き絞り、かんと射放った征矢は――はたして人形の手前でこつぜんと消えたのだった。
言師が「うっ」と唸ったなり、後ろに控えていた別当の顔すれすれに、一筋の征矢が突き立った。土壁の半ばまでを貫いた矢は飴色に焦げ、薄い白煙ときな臭いにおいを漂わせている。
別当は特に驚いたふうもなく、その矢柄に手をかけた。
「……いずこかの外法師か。手は打ったのだが――うまくいかなんだようだ。言師、止めるか」
矢は容易に抜けない。別当は仕方なしに矢柄をへし折ると、微動だにしない言師の背にそう水を向けた。言師は頬をなでなで首だけを振り向け、低い声で、
「今宵この大事をしくじれば、もとより生きて朝を迎えることはせぬ――さよう、牛頭天王に誓願した。相手が誰であろうと何人いようと、私は弓を引くのみ」
と決意のほどを示す。
別当の目がつかのま、眩しげに細められた。
「正直これは成らぬと思っていたが……見上げたものよ、言師。この大事成就に命をかけたか」
言師が自嘲気味に鼻をならす。
「……まこと、御辺の言わるるとおりよ。私はもともとそれほど術に長じおるわけではない。これ以上時間をかけても、地金をさらすことにしかならぬであろう。――なればこそ」
(この正業につくまたとない機、逃すわけにはゆかぬ。我が為に、妻が為に!)
祭壇から二矢目を頂き、ふたたび桃弓につがえる。言師の瞳には、呪殺などという禍事を行うものにまったくそぐわない、清々しい澄んだような光さえ宿っている。
それはまさしく、命を捨ててかかるものの覚悟の光とも言えようものであった。
「天刑星よ、牛頭天王よ、照覧あれ。この忌矢を以て冥罰とせん。奸臣庇うものあらば、この矢当たれ」
空気を切り裂くかん高い音のみを残して、言師の射放った蘆矢は祭壇の手前でかき消えた。
(あの矢はどこへ行ったのであろう、本当に季満の言う『悪者』に当たったのであろうか。――なにがしかのいかさまを弄したようにも見えなんだが)
季満を信じると言い、また真実信頼して弓を引いた道説であったのだが、いざその結果を見るにつけ、湧いて出てくるのは疑念ばかりであった。
なるほど、面妖にも矢は消えた。が、その後人形はびくともせず、それきりいたって何事も起こる気配はない。道説と長恭はいきおい所在なく、つい先程などは困惑の態でその辺りをうろつこうとして、季満にひとくさり怒鳴られたりしていた。
尾筒丸は相変わらず、縁の下のネズミに耳をそばだてる猫よろしく、一方を見やりながらぴくりとも動かない。長恭が事態の説明を求めるも、季満はいちど不機嫌そうに舌打ちをしてよりのち、ぶつぶつとなにごとか呪文めいたつぶやきを発するのみで、こちらもまた黙殺されるに止まる。
すでに護法が始まっている以上、長恭もいつもの傲岸ぶりを発揮することは躊躇われるらしい。仕方なしに道説と二人、菩提講に連れてこられた童子のごとく縮こまっているよりほかなかったのであった。
「季満や、状況がわからぬ。矢は当たったのかな」
季満のむつかしい貌は、まさか成功を示すものではあるまい。が、不安と疑念に苛まれながら黙然と座っていることに、道説はいいかげん倦んできていた。渋い貌をされるのを百も承知で、つとめて朗らかな声をかけてみる。
「……ダメや、外した。方角がずれとるかもわからん。ちょう黙っとき」
季満は早口にそれだけまくし立てると、もとのぶつぶつに戻ってしまった。平素の愛想のよさとはうって変わって、まったく取り付く島もない。
「土師法師、それで、今はなにをしているのだ。――なにか私に手伝えることがあれば言ってほしい」
「…………」
「これ、土師法師」
長恭の言葉はみたび無視される。今回はいくらか譲歩のいろを帯びた申し出であったので、袖にされた青年は柳眉を逆立てて憤慨した。
「……まったく、おのれの腕の悪しきが招いた事態であるのに、説明もひとつもせぬとは――」
「長恭どの、お静かに」ふと、前に言われたことを思い出して、道説は手をあげて長恭の繰り言を遮った。「季満、邪魔をするが、大切なことぞ。おれも長恭どのも、現状がどうであるのか説明してもらわぬことには、お前を信用しようにも信用できぬ。――それが事の成否を分かつのであろう」
我ながら上手いことを言ったと内心得意になる道説に、季満の切れ長のきつい眼差しが注がれる。
ぶつぶつが止まる。
「……あのな、すぐに――」
と、言いかけた瞬間、なんの前触れもなく季満の体がかき消えた。姿を探す間もなく、庇と母屋を分かつ柱の、ほぼ天井に近いところで、なにかが猛烈な勢いで激突したような音が起こる。
「あっ……季満!」
音のしたほうへ首を振り向けた時には、ちょうど季満の体が手足をばたつかせながら、板の間に落ちゆくところであった。墜落する転瞬、二度目の激突音に屋敷中が鳴動し、ややあって柱に激突したときに脱げたものか、季満の烏帽子が遅ればせながら主人のうえへ落ちてくる。
「季満、無事か」
「……! ……!」
したたかに背中を打ったせいか、季満は呼吸ができない様子で、獣のようなうなり声を上げながら板の間を転げ回っている。介抱しようにも手がつけられず、そうこうしている間にも、大臣や家中のものが音を聞きつけてやってくるのではないかと、道説と長恭は一緒になって周章狼狽するよりほかなかった。
「ミ、ミヅキメ、大丈夫なんか……!」
苦しい息のうちから、季満はそんなことを呟いた。道説たちがそれを不審に思う暇もなく、
「尾筒丸、見とったな、どっち!」
咳き込みながら矢継ぎ早に怒鳴る。床に這いつくばった季満をこわごわ窺っていた童子は、しかし半ベソをかきながらおろおろするばかりある。ようよう口を開いても吃りがきつく、口数が少ないのも手伝ってなにを言っているのかわからない。
「尾筒丸、早う――!」
「土師法師、落ち着け。お前がそれでは萎縮するばかりだ」
焦れる季満を、長恭がそう諭す。道説に「土師法師の介抱を」と言って立ち上がると、彼は尾筒丸のかたわらに席を移した。
「……季満、大事ないか」
介抱と言われても、なにをしたらよいものやら見当がつかない。とりあえず華奢な肩に手を置いてみると、季満は人が変わったように「さわんな!」と目を剥いた。身をよじって肩にかけられた手を払う。
長恭は少し離れたところで、尾筒丸の頭に手を置いて、なにごとか言い含めているようだった。声が小さく話の内容は聞き取れないのだが、漏れ聞こえるそれは地の高さと相まって、なんとも女のように優美である。
(かような声と顔とで今様でも謡われてみれば、それは女どもが放っておくはずもない。天は不公平よ……)
思わず場違いな想念が胸中をよぎる。季満に引っぱたかれた手をふりふり、道説は少なからぬ羨望をもって長恭をうち眺めた。青年はほどなく腰を上げ、階のかたわらに据えられた人形を手に取り、尾筒丸の指さすほうへと位置を微調整している。
「道説、準備せえ。大臣を、護ってるのが、ばれとる。次は人死にが……出るかもわからん」
息を整えながら、季満は切れ切れにそう言った。
「最初の矢を外したせいだな――すまぬ」
「お前って……」
荒い息がひとしきり乱れる。なにが可笑しいのか、季満は笑っているようであった。
「……お前のせいやあらへん、でも、次で決まらへなんだらな、大臣放かして逃げるえ。おれを狙うのんならまだしも、お前かよっちゃんでも、狙われたら、防げへん」
「それは――」
「土師法師、いいぞ」
長恭の言葉に、季満は「道説、次が来る、早う射れ」と言い置き、自身は几帳のほうへ這っていく。大臣の髪を巻きつけた人形を少し毟り、それを口に入れて向き直った。
「季満、ひとつだけ教えてほしい」ふいに頭の中に浮上してきた疑問を、道説は思いつくまま尋ねた。「この矢は……相手を殺すであろうか」
「……向こうは殺す気ィや。お前も殺す気ィでやらへなんだら、呪は返せへん。返らへなんだら、この四人のうち誰かが死ぬやろ」
そう言って目を閉じると、季満はふたたびぶつぶつを開始した。
「妙法先生、次は当たると、尾筒丸も申しております。――ご存分に」
長恭も尾筒丸も、弓箭を携えてたたずむ大男を無言で見詰めている。相手の命の心配をしている場合かと、道説は己の弱気を戒めた。
(では、殺そう。生かしてはおけぬ、大臣が、この三者のうちいずれかが、そうしなければ死ぬというのなら――殺す)
「応」と低くいらえて、道説は鏃の先に人形をとらえた。弓弦をぎりっと引き絞り、
「呪箭の者、この一矢を以て誅せしめん。この矢当たれ」
かんと征矢を射放った。
言師は三矢目を桃弓につがえていた。
(手応えはあった。次の一矢で、太政大臣は悶死するだろう)
ふたたび邪魔は入るまいと、言師は確信していた。
命をかけた必殺の矢である。複数の腕利きが一心不乱に加持するのであればまだしも、当面の脅威である陰陽寮はすでに抑えてあり、洛内の陰陽法師への斡旋も、別当がどうやってか遮断していた。この急場に寄せ集められるようなにわか法師ごときに、
(我が一世一代の呪詛、破れようはずもない)
知らず口角が上がるのを感じた。
「別当、越前は遠い。陰陽権助の職を賜りたいが、禄はいかほど頂けようものか」
思考はどうしても目前に迫った報酬へと向かってしまう。むしろ己を奮発させるつもりで、言師は背後へ声をかけた。
返事はない。
「ご案じ召さるな、今宵巨悪は――」
「オンセンエンシャテンドウソワカッ!」
凄まじい気合とともに、別当が一歩前へ踏み出し、右手に結んだ刀印を突き出すようにして、祭壇のほうへ向ける。が、その挙動の終わらぬうちに、言師の体は脚を上にして、まるで魔物に掴みあげられたかのように天井へと消し飛んだ。
「言師!」
言師の体は垂木をかすり、化粧屋根の野地板を突き破らんばかりの勢いで天井に激突し、盛大な埃を従えて板の間に墜落した。悶絶する彼の大腿には、弓摺羽までを射通した征矢が生えており、その矢疵の辺りだけが、まるで炎に炙られた生木のようにぶすぶすと燻べっている。
「ひとりではなかったか……」
別当がひとりごちた。さすがに物音を聞きつけたものか、対屋のほうがにわかに騒がしくなっている。
「言師、歯を食いしばれ」
「待て……手出し無用……!」
矢に手をかけようとした別当を、言師は血を吐くような声で止めた。臓腑を損じたものか、真実その口の端からあごにかけて、涎まじりの血が滴っている。
激痛を噛み潰さんとして、その体は瘧のごとくに打ち震えていた。
「言師、お前は失敗したのだ。もう弓は握れまい」
言師の右腕はあらぬ方向へと折れ曲がっていた。天井をひと巡りしてきた代償はそれだけに止まらず、とくに矢の突き立った右脚は酷い。骨が膝から突き出ており、真っ黒な血が布袴をしとどに濡らしている。
「まだまだっ! まだ二筋、残っている! まだっ!」
別当の手を振り払うと、瀕死の獣のような唸り声を上げながら、言師は祭壇の前へと這っていった。
「……残った矢は一筋、先に基経を殺れぬ以上、もはやお前の打つ手はない。潔く――」
別当は言葉を切った。気でも狂れたものか、言師は低く笑っているのである。
「ある、いま一筋、ここに……!」
震える手で大腿の征矢にふれる。言師はなんとかこうとか身を持ち上げ、祭壇の前にいびつな正座をした。
(油断した……が、ここが先途! しくじるわけにはゆかぬ……!)
「……謹んで勧請し奉る、武塔神の荒御魂やどらしめ給え。冀くは我が誓願成就せさせ給え」もはや言師の面に、前の清らかな様子はみじんも窺えない。まさしく呪いを吐くといったふうに続けて、「矢よ矢よ返れ、この矢返って射手が五臓を刳らん、この矢――!」
腿の矢を掴み、絶叫とともに引き抜く。
「――返れ!」
血の糸を引くそれを、言師は祭壇に向かって投げつけた。