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 三月四日 戊寅(つちのえとら) 子二刻(ねのにこく)


 「……いま、動いたな」

 「気のせいやろ」

 「いや、わたしも動いたような気がする」

 舎人(とねり)に呼ばれて母屋(もや)の庇に陣取ってより、はや一刻が経とうとしている。

 三人の視線は、奥の間と庇を分かつ几帳(きちょう)の前に()えられた、七十二文銭(ななじゅうにもんせん)を積んで造られた塔に注がれていた。彼らはこの一刻の間というものまんじりともせず、折ふし銭塔(せんとう)が動いただの動かないだのとささやき交わしては、いつ来るかもわからない「なにか」を待っているのだった。

 「尾筒丸(おづまる)、なんも見えへなんだよなあ」

 聞かれた尾筒丸はあらぬ方をくるくると見回したのち、ウンと(うなづ)いた。三人から少し離れた位置で、なにか粘土のようなものをこね回している。

 「……季満(すえみつ)や、尾筒丸は最前(さいぜん)からなにをしているのだ」

 「形代(かたしろ)をこしらえてんにゃ。――尾筒丸、できた?」

 アイ、と呟きながら尾筒丸が差し出したのは、米粉を水で練った(しとぎ)である。手のひら大の、白っぽい人のかたちをしたそれは、烏帽子(えぼし)(かたど)ったものか頭頂を尖らせてあった。

 「うまいえ、尾筒丸。もいっこお願いな」

 「土師法師(はじのほうし)、なぜかような(わらわ)をここへ?」

 懸命に人形をこねる童子を、長恭(ながよし)(いぶか)しげに眺めている。

 「留守を任かせるには、いくらなんでも幼すぎようが。なあ尾筒丸」

 道説(みちとき)が代わりに答えてにっと笑った。が、尾筒丸はどうも笑いかけられたとは思わなかったようで、ヘビに睨まれたカエルのような怯えを見せるに止まる。――道説はひそかに傷ついた。

 「……尾筒丸はお前の弟かなにかかの」

 「友達や。な、尾筒丸、友達やなあ」

 童子は作業を続けながら赤くなった。

 「孤児(みなしご)には見えぬな、貴様などよりよほど様子がよい。――どこかの貴族の屋から(さら)ってきたのでなければよいが」

 底意地(そこいじ)の悪いひと言に、しかし季満はどこ吹く風といった顔でけろりとしている。どうも目の上から馬鹿にされたり蔑まれたりするのに慣れてしまったふうがあるようで、むしろ隣人の道説などのほうが、そういった他人の受ける中傷に敏感なくらいであった。

 「軽々にそのようなことを申すでない。――しかし、長恭どのが言葉ももっともだ。卑しからぬ家の子と見受けられるが……なぜお前の()れ屋におるのだ」

 「そらお前、ひとりで御飯たべてもあじないやろ」

 「そういうことではなくてな――」

 「妙法先生(みょうほうせんせい)、お静かに」

 道説のほうへ手のひらをかざしながら、いつの間にか長恭が几帳のほうを注視していた。彼の視線の先には小刻みに震える、七十二文銭の塔がある。

 「尾筒丸いそいで。――道説、弓弦(ゆづる)はって。いつでも射れるようにしとき」

 「お、おお」

 四者それぞれのうちに、にわかに緊迫したものが訪れたとき、ふいに几帳の奥から小柄な老人が現れた。――どうやら彼の歩みが板の間を震動しただけのようであった。

 (何者だ……佐世(すけよ)さまではない)

 (ひるがえ)った几帳の向こうに一瞬、御帳台(みちょうだい)とおぼしき影が垣間見える。白一色の単衣物(ひとえもの)のみを着、闇に溶ける立烏帽子(たちえぼし)を頭上にいただき、両手に樋箱(おまる)を抱え、老人はあたかも立ったまま眠ってしまったかのように黙っていたのだが、ややあって「お……」と呟くと、庇に会した四人をもの珍しげに眺めだした。

 「おお……あれじゃ……亜相(あしょう)どんの言うとった者じゃな。でかいのう」

 (この方は……太政大臣(おおきおとど)!)

 奥の間の御帳台が、この屋の主人の在処(ありか)を明かしている。この日本国(ひのもとのくに)という船の(かい)を握る、その老人は従一位太政大臣じゅいちいだじょうだいじん藤原基経(ふじわらのもとつね)に相違なかった。

 「なにを食うたらかようになるのじゃろ。――お、これな」

 板の間を揺るがして(ぬか)ずいた道説の鼻面に、漆塗(うるしぬ)りの(みやび)な樋箱が突きつけられた。どうも捨ててこいということらしい。

 「う、初見参(ういげんざん)つかまつりまする。これは左衛門府(さえもんふ)下臈(げろう)管少尉(かんのしょうじょう)にて、御殿を汚すご無礼はひらに――季満」

 素早く季満の膝に樋箱を置く。

 「あ、おン前……あっ、あかっ、あかん――!」

 あやうく中身が(こぼ)れそうになるのを、間一髪で受け止めたときには、道説はすでに背を向けて(こうべ)を垂れているのであった。

 (許せ、季満)

 「ふうん。亜相どんにも石佐(いしすけ)にも、大事(だいじ)なからんとは言うたんじゃがの。まあ、遅うまでご苦労じゃのう。ううむ」

 「あのう、ひょっとして、石佐ゆうのはこちらはんの家司(けいし)の?」

 そう言いながら、季満は尾筒丸のほうへ樋箱を渡そうと見せかけ――腕の伸びきる寸前で長恭の膝元へ(すべ)らせた。ハコの中のナニかがちゃぽんと危うい音をたてる。

 「…………!」

 季満の狡猾(こうかつ)なる手管に、はたして長恭の双眸(そうぼう)は殺意に燃え上がった。

 「わかるか。石頭の佐世じゃからして、石佐じゃ。――あれも(さき)には大学頭(だいがくのかみ)などやっておっての。頭はよいのじゃが、よい分だけ融通が利かぬ。ううむ、なんじゃ、かわゆい顔をしとるのう……」

 樋箱を押し付けるあてを捜していた長恭が、はたと尾筒丸の顔を視線の先にとらえた。童子は今にも泣き出しそうな顔をしている。

 「ん、そちは……見たことがあるのう。たしか年始の節会(せちえ)の折、琴など弾いておらなんだかの」

 「あ、はっ! つたなき手ゆえ、かえってお耳に残ったものかと。――これは大納言藤原良世だいなごんふじわらのよしよ(そく)、長恭と申す下臈蔵人(げろうのくろうど)にござりまする」

 ハコを申し送る相手を見つけられぬまま、長恭は仕方なしにそれを携えたまま頭を垂れた。傍目(はため)にはまるで樋箱を下賜(かし)された一場面のようである。

 「亜相どんが息で長恭とな。ああ、そちが蘭夕郎(らんせきろう)か! なるほどのう、うむ、近くで見ると一段と美形じゃのう」

 「……勿体なきお言葉」

 長恭はそう言って形ばかり一礼すると、立ち上がってやや無愛想気(ぶあいそげ)に背を向け、樋箱を手に背後の(きざはし)へと降りていってしまう。今ほど褒められたばかりの美貌には、しかしかすかに恥のような色が()かれていた。

 「あ、これ、長恭どの! ――これは失礼を」

 詫びながらも道説は内心、あの青年のために頭を下げるのはこれで何度目であろうかなどと、忿懣(ふんまん)やる方ない心持ちでいっぱいであった。基経(もとつね)は特に気分を害した様子もなく、「よいわえ、アレを捨てに行ったのじゃろ」などとあっけらかんとしていたのだが。

 「ま、なにも起こらぬじゃろうて。左大臣(ひだりのおとど)も石佐もやたらに『御身大切(おんみたいせつ)御身大切(おんみたいせつ)』などと口をすっぱくして言いおるが、たかだか夢の話。なに、ただの気のせいよ」

 「大臣(おとど)には、今宵(こよい)なにも起こらぬと仰せになられまするか」

 基経のなかば呆れたような口に、道説がやんわりと反駁(はんぱく)した。百官を()ぶる重き身の言葉としては、いささか浅慮(せんりょ)とも受け取れる。夢をゆるがせにできぬ重大な予兆と信じ、夢解きや夢違(ゆめたが)えなどの占いに(しげ)くかかる人も珍しくない世にあって、大臣の言葉は身を軽んじすぎているように聞こえる。

 (まこと御身大切(おんみたいせつ)よ。高貴な人々こそ、身を(うれ)えて一層につつしむべきである)

 というのが道説の考えであった。

 「起こらぬとも。夢に運命が左右されるなど、馬鹿げた考えよ。かようなことはこれまでに幾度となくあったわ。そのたびに石佐がそちらのような者どもを連れてきた。ほどこしのようなものじゃで、今日もその続きに過ぎぬ」

 道説がさらになにか言い募ろうとした矢先、季満が彼の膝をつついた。代わりに口を開いて、

 「いや、ありがたいこっとす。ほんまに大臣のような有徳(うとく)のお方がおらなんだら、わたしらのようなもんは食べてゆかれへんどすな。――ところで、そのお首のものはなんどすやろか」

 へいこらしながら言った。

 薄闇に眼をこらせば、大臣の単衣(ひとえ)の首には、白いなにかの小片を金鎖とおぼしきもので綴った瓔珞(ようらく)が下がっていた。彼が身動きするたびに、かすかにさらさらと音をたてて波打っているそれは、寝所にいた人間がつけるものとしてはいささか奇妙にも思える。

 「これか。これはの、左大臣が御守りにと言うてくれたものじゃ。なんでも霊験(れいけん)あらたかなる仏舎利(ぶっしゃり)じゃそうで、寝るときも肌身離さずつけていなければならぬそうな」

 「はあ、霊験どすか」

 基経はいかにも馬鹿馬鹿しそうに、しわの寄った鼻をふんと鳴らしてみせた。話の内容に反して、彼はお(こつ)の『霊験あらたか』さなど全く信じていないように見える。

 「よい歳の男が真面目くさって『これは御仏(みほとけ)が霊験すぐれたるものにて』などと……なにも左大臣に限った話ではないが、まったく童子のごとき呆れ果てたる物言いよ。外聞(がいぶん)もあるゆえのう、これもお勤めと思うて付き()うてやらねばならぬのじゃが」

 道説は思わず瞠目(どうもく)した。どうやら基経は神仏や霊障(れいしょう)のたぐいをまったく信じない(たち)らしい。神代(かみよ)の昔から連綿と続き、帝をして神の末裔と崇めしむる朝廷(おおやけ)にあって、こういった考え方はけだし(めずら)か極まるものであろう。それも百官の頂点に立つ身、並びなき『(いち)の人』をして、である。

 (我が身と引き比べるなど畏れ多いことだが……あまりにも違う。かねて切望しながら、いまだに我が身に備わらぬ観念を、このお方は無価値なものとして(はな)もひっかけないのだ!)

 感心と狼狽にかすかな嫉妬の入り交じったものが、つかのま大男の胸に去来(きょらい)した。本当に見知らぬ山奥に迷い込んだような気さえしてくる。

 「そうどすか、お優しおすなあ大臣は。――いやなに、黄金(きがね)は古来より陽のものや()われとりまして、この陰たる夜半(やはん)に身につけるのんは、ともすると五臓調和(ごぞうちょうわ)の乱れを引き起こしかねまへん。御寝(おしずまり)にならはるんどしたら、外しておいたほうがよろしいかと」

 季満はとくに感じ入った様子もなく、相変わらずへいこらしていた。が、平素(へいそ)おちゃらけ放題なのが、とにもかくにもそれらしいことを話しだしたので、沈んでいた道説もふと思いを新たにし、

 (うむ、大臣には大臣のお考えもあろうが、ならば尚のこと、陰陽道(おんようどう)に長けたこの男を連れてきたは正解であったのだ。――見よ、ちゃんと話すべきことを話しておるではないか。まったく長恭どのも見る目がない)

 (さき)に季満に対して疑問を抱いたことなどすっかり忘れて、道説はしきりに感心した。

 基経は欠伸(あくび)をしながら聞いていたのだが、季満の話が終わるや否や、さもおかしげに含み笑いつつ、

 「やれやれ、そちも石佐や左大臣がごとき口を使う。――この歳になればの、五臓調和の乱れなど珍しいことではないわい。それをやれ身につけた物のせいだの、やれ歩いた方角が悪いだの、やれ肉を食ろうたせいだなどと、さような些事(さじ)のせいにされてはたまらぬ。そちが生業(なりわい)のことゆえ、あえて強弁(きょうべん)するでもないがの――迷信じゃよ、さようなことは」

 (てん)として言い放った。

 「へえ、まことに仰せのとおりで。大臣のお言葉の通り、なにぶん生業のこっとすさかいに、こんなことでも言うておかなんだら仕事にならへんのどす。お気にせんといてくれやす」

 あっさりと前言を翻す、季満の日和(ひよ)った物言いに、道説はふたたび瞠目せざるをえない。

 (いっときでも感心したのが間違いであった……! いかに申し上げ(がた)しとはいえ許せぬ、お前には矜持(きょうじ)というものがないのか、季満っ!)

 ここが基経の家宅でなかったなら、目の前のちびを大声一喝(だいかついっせい)したことであろう。ひそかに身を揉む道説を()いて、基経はひとつ満足げに頷くと、

 「ではな、わしはもう休むぞ。大事なく朝を迎えれば、石佐からなにがしかの褒美も出ようほどに、気楽にやらっしゃい」

 などと言いながら奥へ戻っていってしまった。

 「ミヅキメ、こっち」

 「なに?」

 「いや、なんでもあらへん。独り言や」

 季満がぼそっとなにかを呟いてすぐ、几帳の向こうで「あっ」という声が聞こえ、次いでなにかごそごそするかすかな物音が聞こえてきた。

 「……季満よ、見損のうたぞ。大臣が身の上を(おもんばか)るのなら、なにゆえ(おもね)って持論を曲げる。大臣が身のことだけではない、それはお前の為にもならぬ」

 几帳の向こうが静かになった途端、道説は声をひそめて季満をなじった。この男、ひとに阿るのも阿られるの嫌いなのであるが、それに()して嫌いなのは『ひとがひとに阿っている姿』なのであった。言うまでもなく、その(おもて)は仁王のそれである。

 「ただのデタラメや、あら」

 「なっ……お前、いい加減に――!」

 「ちょう待て。――はい、ご苦労はん」

 みたび瞠目する道説を一顧(いっこ)だにせず、誰にともなく(ねぎら)いの言葉を吐くと、季満は自らの脇の下へ手をやり、

 「ふふん、これ、なんやと思う」

 そこから一筋の長い毛を取り出し、道説にひらひらと示してみせた。

 「なにと言うて……髪の毛のように見えるが」

 「うん、おじいちゃんの毛ェや」

 「おじ……大臣のことか。いつの間に……」

 「これをな、さっきの形代に結びつけて……」

 尾筒丸を手招きして、先程こしらえた頭の尖った人形を受け取ると、季満はその首に大臣の髪の毛を巻きつけ始めた。あまり器用なほうではないらしく、人形の首をねじ切って「あかん、縁起わるいなあ」などと呟いている。

 「……季満、なぜデタラメなど申し上げた」

 ややあって、道説が低い声でぽつりと呟いた。

 「ん? そうしたほうがそれっぽいやろ。――ダメや、ようせん。尾筒丸に頼もか」

 「こちらを向け、季満」

 「なんや、おっかないカオして。ほんまお不動はんやな、ほら尾筒――」

 「季満」

 道説が本気で怒っていることにようよう気付いて、季満はにやにや笑いを引っ込めた。黙りこくった両者の様子を、尾筒丸がおっかなびっくり窺っている。

 「……おれは失望しかけているぞ、季満。長恭どのに言うたことは嘘ではないが、以降も真面目にやるつもりがないのであれば――」

 道説はそう言って、おもむろに太刀を膝元に引き寄せる。偶然か否か、高灯台(たかとうだい)の火が一瞬、道説から逃げるように揺らめいた。

 「――これにものを言わせるより他ない。どのみち大臣に万が一のことあらば、籐大納言(とうのだいなごん)さまが縁者たる長恭どのは措くとしても、下臈(げろう)のおれやお前が責を問われずに済む道はないのだから」

 季満はいらえずに再び尾筒丸を手招きし、「お願いな」と人形を返すと、ひとつ舌打ちをした。

 「要するに、や。おれが大臣をなんとかできひん思とんにゃな、お前は」

 「そうは――いや、(あざむ)くまい。そうだ」

 「そうか、そらあかんな」長恭が出て行った階のほうを、季満はなにを見るともなく眺めている。「……ほんまはな、あんまり真面目にしいひんほうがええにゃが、仕方あらへんな」

 「どういう意味だ」

 「お前もゆうたやあらへんか、おちゃらけとるのんに理由があるかもわからんって」

 道説ははたと言葉に詰まった。確かに言うことは言ったのだが、それは長恭をなだめる為の言葉であって、本当にそう思っていたのかと言われれば否定せざるをえない。

 「おれ流やけどな、四角四面(しかくしめん)にやるとようないねん。真面目にするゆうことは、深刻やからゆうことや。――少なくとも周りで見てるモンはそう思うやろ」

 「まあ、そうかもしれぬが、それとこれとどういう――」

 「それがあかんにゃわ。そやけど、お前に能力を疑われるのんはもっとあかん」

 「……なにゆえだ。それがことの成否に関わるとでも言うのか」

 「そうえ。――ちなみにあのおじいちゃん、もうしばらく()かしといても問題あらへんさかい。ああゆう手合いは呪やら術やらがえろう効きづらいよって」

 「ええ待て待て、お前の言うていることがさっぱりわからぬ。一から説明してくれ」

 道説はいらいらしながらも一方で、

 (木を見て森を見ぬのはお互い様であったのやもしれぬ。おれはひょっとして、季満の仕事の邪魔をしているのではなかろうか……)

 などと、軽々に口を挟んだことを後悔しだしていた。

 「一から説明してる時間はあらへんが……そやな、おじいちゃんが呪に強いゆう訳はな、信じてへんからや。――だからお前はおれを信じへなんだらあかん。わかった?」

 「わからん。わからんが……そうすることが必要なのであれば、信じるしかあるまい」

 「……どや、尾筒丸」

 唐突に話を振られた尾筒丸は、ちょっと(すが)めに道説の顔を窺うと、ややあってウンとひとつ頷いた。

 「よし――ほんまは黙っとこ思たんやが、お前には話しとこか」

 言って、季満はにわかに真顔になった。笑っている顔とはまったく別人のようにも見え、口を閉じているだけで人とはこれほどにも変貌してしまうものなのかと、道説は思わず場違いな感慨を抱いてしまう。えくぼの浮かぬ、歯を見せぬ白い細面(ほそおもて)は、それだけでなるほどどうして、長恭に負けず劣らずの美貌である。

 「あの瓔珞(ようらく)、怪しいえ。詳しゅうはわからんけど、なんや良うない呪が籠もっとるように見えてん。――この件と関わりあるかもわからん」

 「それであのような……いや待て、そう思うのならなぜ大臣にそう申し上げぬのだ」

 「ゆうたかて聞かへん。さっきの聞いてたやろ、おじいちゃん、ソッチの話は信じひんえ。――そやさかい、ちょう荒けない手ェ使わさしてもろたけど」

 「……というと」

 季満は手刀を首にあてる仕草をしてみせた。

 「鎖を切っといた。外聞云々(がいぶんうんぬん)ゆうても効能じたい全然信じてへんさかいに、たぶん直してまた首にかけることはしいひんやろ。とりあえずは、ちょう安全になったゆうわけや」

 「……ということは、だ。それで終わりにはならぬということか」

 「もちろん。お前にも働いてもらうえ」

 階の向こうの闇から足音が聞こえてくるなり、季満のかんばせはたちまち元のにやけたものに立ち戻った。

 (あの瓔珞、左大臣が御守りであったらしいが……まさか左大臣まで何者かに狙われておるのであろうか)

 腕を組んで思考にふける暇もなく、長恭が階から庇へ上がってくる。「どこに捨てたものか迷ってしまいまして」と言って座った青年に、季満が軽薄な声をかけた。

 「よっちゃんお帰り。えろう遅かったなあ、よっちゃんもついでにしてきたのんか」


 「対屋(たいのや)吟師(ぎんし)を控えさせてある。他はすべて(おさ)えだ、こちらには回せない」

 「無用、吟師も回されたい。――たかだか外法師(がほうし)の二、三人で、陰陽寮(おんようりょう)をどうにかできるとは思えぬ」

 「廿人(にじゅうにん)だ、言師(ごんし)。これだけの数を集めるのにいささか時を要したが、呼師(こし)達を加えて廿(にじゅう)と三人、方々に散って神祇官(じんぎかん)と陰陽寮の気を散らしている。無論、哭師(こくし)もその中にいる」

 「…………」

 言師は無言のまま立ち上がり、眼前の祭壇に(ほう)ぜられた桃弓(ももゆみ)を手に取った。それを頭上に頂いて膝を折り、一心になにごとか祈っている。

 丹念に拭き清められた板の間が、言師と別当(べっとう)の間に据えられた高灯台の、灯明(とうみょう)の明かりを反射している。一間に(もう)けられた白木の祭壇には、折敷(おしき)に盛られた塩、胡麻、(すもも)、餅、干鮑(ほしあわび)黒酒(くろき)白酒(しろき)などの神饌(しんせん)が献ぜられ、その奥の(みてぐら)のあいだに、小さな骨とおぼしき小片がひとつと、(あし)の矢が三筋、神籬(ひもろぎ)を擬して祭られていた。

 「少数でやるに()くはない。ないが、お前にはすでに一月の猶予を与えた。これ以上の時間をかけるのは、もはやお前の無能力を明かすことにしかならないように思える。露見(ろけん)する危険を(ともな)ってでも――」

 「今宵だ」

 頭上に大弓を頂いたまま微動だにせず、言師はひと言、自身に満ちた声でそう遮った。

 「今宵、決着はつく。つける。つかぬときは、せめてけじめはつけよう。――それよりも(さき)の約定について、改めて二言なきを(やく)されたい。この呪詛(かしり)相成ったあかつきには、私を他の者どもに(さき)んじて官人に取り立てると」

 言師は音もなく振り返ると、儀式めいた挙作(きょさ)で弓弦を張りはじめた。折々その双眸に光るものが見えるのは、灯明の火の映るだけばかりではあるまい。

 「……六位(ろくい)を約す。それ以上は、少なくとも二、三年の内には(まか)りならない。職能にこだわるのなら陰陽権助(おんようのごんのすけ)の職を。財を欲するのなら……少し遠方になるが、越前の国司(こくし)差配(さはい)できよう」

 任官を望む言師の眼に、しかし物欲の卑しい濁りは見いだせず、ただ相手の嘘を看破(かんぱ)せんとする厳しいいろが隠れもなく見えるのみである。いちど弓をぎっと引き、かんと鳴らすと、

 「御辺(ごへん)が嘘をつかぬと信じている。――さらば、お下がりあれ」

 そう言って祭壇の矢を(いただ)き、それをおもむろに桃弓につがえた。

 「奸臣(かんしん)藤原基経、天刑星(てんぎょうしょう)の裁きあれ――」

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