Hello Miyako I
仁和三年 一月七日 辛巳 未四刻
初春。
根雪が泥にまじっている。朱雀大路はなかば泥濘の河と化している。
雪が降っても雨が降っても、晴れてさえいなければ、たいてい大路はこんな調子であった。上鳥羽で船を降り、初めて上洛をはたした若者に青雲の志があったとすれば、まず洛中のこんな様子にこころを挫かれてしまう。
平安京の玄関口である羅城門の姿、うけあって言うが、たいそうみすぼらしい。唐風のみやびな佇まいも、こまめな補修があったればこその麗容なのだ。あちこち丹が剥げ、素手で剥いでしまえるような木材は残らず取り外され、若者の生まれるずっと前に、暖房の具にされて久しい。七十年前に大風で倒壊し、再度建てられた二代目ということだが、それにしてもこの寂れようはどうしたことであろう。
肉を削がれ、痩け、雪の烏帽子をかぶった羅城門は、見るだに寒々しかった。京の看板とも言えるこの楼門を、他ならぬ京自身が見限っていることがいやでもわかってしまう。
けだし玄関というものは、そこに住んでいる人間のみが関心を持つものである。初春の羅城門の下に宿る人々は目下のところ、震えるのに忙しくてそれどころではないのだ。玄関への関心はおろか、彼らは明日食べるものにも事欠いている。食べるものに事欠いている人々よりも、もう二度と食べる必要のない人々のほうがはるかに多いのは、羅城門の家族達にとって、はたして幸せなことなのかどうか。
羅城門をくぐり、大路に出た若者は、よりにもよってすぐ左へ折れてしまった。九条大路という、京のどんづまり。もしそのまま朱雀大路を北上したなら半刻ほどで、大内裏は朱雀門に詰める衛士に誰何されたであろうし、右折しても物売女の一人にくらいすれ違ったことだろう。が、右京、別してその南部はほとんど人など住んでいない。
寒いのだろうか、若者は背中を丸めて歩きながら、しきりに両の二の腕を撫している。
平安京の東、青龍に見立てられて流れる鴨川はまさに龍のごとく、時々思い出したように氾濫しては洛中の人々を攫っていく。
その犠牲者は老若貴賎の別なく……とはいかない。高級住宅街ともいえる左京北部、さらにその北東部には、鴨川に寄り添うようにして立派な堤が築かれており、いとやんごとなき方々に、貴船は高淤加美神の気まぐれが及ばないよう、細心の注意が払われている。
かくして水は低きにしたがって流れ、おおまかに京の北東部から南西部へと、生活の跡を洗い流して殺到した。ために右京は水がたまり湿地のごとく、家々の基礎は腐り、流されてきた死体は腐り、そこに住まう人々の心はいよいよ腐った。
淤加美とは龍の謂である。青龍も貴船の龍神も、お金持ちにだけ便宜をはかってくれるということにかけては、人と変わりはないようだ。若者は年季の入った草履を泥まみれにし、小袖一枚のみがその震える体を包んでいる。先刻より歩きながらしきりに折烏帽子を押さえているのは、髻に結びつける小結が擦り切れてなくなってしまったからだった。右京に足が向いたのも、あるいは彼もまた龍に嫌われる、貧しい人間だったからなのかもしれない。
四半刻も歩いただろうか、若者はねばる泥を蹴散らしながら、菖蒲小路を折れた。あたりに散見できるのは崩れた築地塀、相たおれてなかば土と化した小柴垣、朽ちた家屋、死体。所々には田や水菜畑まである。洛中に畑があるなどと、若者は夢想だにしなかったに違いない。これが京? ああ、おれはなんでこんなところに来てしまったんだろう。彼は鼻をつまみながらそう考える。故郷のほうがどれだけましだっただろう、老いた両親は気を揉んでいないだろうか、と。
右手から物音を聞いたような気がして、若者は首を振り向けた。
黒ずんだ簀子縁を挟んで、くたびれた小屋がひっそりと建っている。見たところ、元々はもう少し大きな屋敷であったらしく、腐った木材の山が裳を引くようにして小屋に連結されている。
遮るもののない庇の下、薄暗い一間には、当然のごとく誰の姿も見えない。
きっとカラスに違いない。若者は声に出して言うと、足早にその場から立ち去った。京には人界の怨みが凝って鬼がでる、という噂は、どんな田舎者の耳にも入ってくる典型的な京の風聞であった。内裏には狐狸、洛中には鬼――京に行くことのできない人々はみな自分にそう言い聞かせて、ひそかな憧れを諦めた。
ふいに草履の鼻緒が切れて、若者は泥のなかに頭から突っ込んだ。
さて、若者の見出した件の小屋、実は人が住んでいる。
若者の見た一間には、ちゃんと二人の人間が座っていた。彼らの座る板の間には、一つずつ折敷が置かれ、その上に飯と汁、申し訳程度に魚が二尾のっている。
稗粟の固粥は盛り切り、青物の汁に、煎汁を取ったあとのふやけた鰯には醤が塗ってあった。貧しい食卓で、土器が足りないのか、鰯の坐す磐座はなにかの葉っぱでできている。
こんな破れ屋に龍が好むような金持ちが住まおうはずもない。京の多くの人間がそうであるように、この家の主、土師季満もまた、数多いる貧乏人の中の一人であった。
囲炉裏の弱火に足の裏をかざしながら、飯をかき込んでいる。その背中は華奢で小柄、咀嚼する顎はあくまで細く、やや険のある切れ長の目にとがった鼻梁は女のごとくで、こころもち太めの眉を除けば、男らしい造作はまるで伺えない。
「……年の初めくらいな、餅さんあってもええ思わへんか、尾筒丸」
尾筒丸と呼ばれたのは、どう見ても五、六ほどの童であった。飯をいっぱいに頬張って返事もできず、応えを待って箸を止めている季満に向かって、彼は迎合するようにウンと頷いた。
「そやろ、たまにはええモン食べたいし」
季満は箸を置くと、部屋の隅に置かれた小さな厨子へと這っていった。荒れ果てた室内には、それ以外のどんな家具も見当たらない。かびの匂いが漂っている。良くいえば開放感に富む、悪くいえばうら寂しい部屋である。
「確かこないだ実丸にもろたやつがあったはずやが……」
あった、と季満は華やいだ声をあげた。手には長方形に切られた紙切れが五枚ほど。
「ちょう遅なったけどな、こら近いうち元旦のお祝いができるかもわからんえ、尾筒丸」
尾筒丸は飯を咀嚼しながらウンと頷く。
「さ、今夜はお仕事、お仕事。ようけ食べてせいだい気張らな……盛り切りやけど」
ふたたび這って戻ると、季満は飯をほんの少しだけ土器に移し、その上に鰯を一尾のせて立ち上がった。そのまま部屋の北側の隅まで歩いていく。
部屋はどこもかしこも傷んでいたが、なぜかその一角だけが特にひどい。床も壁も水をぶちまけたように真っ黒で、ふやけた板目は乾く様子もない。その腐った板床の境目あたりにそっと土器を置くと、季満は誰もいない空間に向かって小さく声をかけた。
「……ミヅキメもな、一緒に餅さん食べような」
ほんまに、年の初めくらい餅さんあってもええよなあ。季満はそう言うと振り返り、溜息をつきながら簀子縁に出ていった。羽を休めていたカラスがギャアと鳴いて飛んでいく。
鈍色の曇天から、白いものが降ってきていた。
「なんだ、餅くらい言うてくれればいくらでも用意したものを」
ところ変わって左京、一条近衛大路は検非違使庁前。
菅原道説は藁蓑を狩衣の上にまといながら、たまたま一緒になった知り合いの坊令と話していた。
坊令とは京識の一役職である。京識とは京戸、つまり洛中に住まう人々の戸籍の管理を主に、庶人の苦情、訴訟の受付、軽犯罪の取り締まり、橋の修繕などの環境改善、その他諸々の雑役をこなす行政機関のことである。
「しかし、坊令たるお前が餅ひとつ用立てられぬというのも……」
道説は濃い眉を寄せた。使庁の前でつい話し込むうちに、灰色の天蓋からはいつのまにか雪が降ってきていた。
「去年の収穫が振るいませんで、家人一同、青くなっております」
「まさか全て駄目になったわけでは……なったのか」
はたして坊令は目を伏せる。彼の唇が青いのは、寒さの為だけではないようだ。
「……仕事は終わったのだろう、ちとそのあたりまで付き合え」
道説は坊令を伴って近衛大路を左に折れ、大宮大路を南へ歩き出した。彼の家は六条にある。
(なんぞ売れるものでもあっただろうか)
と、道説は心中で頭をひねっていた。
背後で重い足を引きずっている彼、坊令の仕事は要職にして激務であった。そのぶん禄も魅力がある。
坊令は左右京識が一人ずつ、各条に置くもので、彼らは各々三坊から四坊の広大な敷地に住む住民を、一保四町につき一人の割合で選任される保長とともに管理・督察することが求められる。
ちなみに一坊は四保、一保は四町、一町は四行八門という制度によってさらに三十二に分割され、一戸主という単位に区切られる。庶人や下級官吏はおしなべてこの一戸主という空間に家屋を持っていたので、単純に一町を三十二世帯と考えると……彼ら一人の持ち回りは約千五百世帯から二千世帯あまりということになる。
もちろんこれよりも大きな屋敷を持つ官吏もおり、すべての町に人が住んでいるわけでもない。あるいは京識から人手の都合もあることだろう。実際は確実にこれを下回るであろうが、それらを差し引いても恐ろしい数字である。彼らの涙の味がなんとなく想像できてしまう。
各保長を尋ねまわるだけでも日が暮れる上に、保長は担当区域内に発言力を持たなければならない都合上、その多くは官位を持つ者が任じられる。彼らも好きでやっているわけではないので、往々にしてめんどうな職務を怠ける者が出てくる。無位の坊令がそれを咎めても無視する。怒鳴りつけて追い払う。それくらいならまだかわいい方で、これも役得と勘を違えたものか、勝手に町内の人間から金品を供出させ、従わない者をそしらぬ顔で京識に讒訴するなどという者まで出てくる始末。
こういった不埒者に対して、京識も罰則強化や巡回頻度を増やすなどの方策を取ってはいたが、旧来の薄給ではとても勤め手はつかない。ために無位とはいえ、彼らには少初位という最下位の官位に相当する禄と、二町の田地が支給されていた。田地は国司や博士級の専門家を除けば、五位以上の位階を持つ者にしか支給されない。
「去年の冷夏、あれか」
「はい、日照が足りなかったものかと」
道説の位階は正七位上、もって左衛門少尉を任じている。当然田地の給付などなかったが、日の光に左右されぬ禄を頂いていた。実のところ田地給付を少しだけうらやましく思っていたこともあったのだが、こんなことがあっては考え物である。相手が天照大神では文句も言えない。
「実が入ってない? そうですか、それは残念でしたね」
で終わりなのだ。
沈鬱に黙りこくったまま、二人は四条に入った。このあたりは官民雑多で、目に飛び込んでくるのも築地塀あり、籬、板塀ありと様々である。着ぶくれた庶人の子とおぼしき子供が数人、柳の枝を振りまわしながら小路から走り出てくるのを、立ち止まってやり過ごす。
「……ようやっておるようだな」
町内の小径を覗いてみても、特に荒れた様子もなく、塵や汚物が散乱していることもない。坊令と保長が正常に機能している証拠である。
「あの折、道説さまが来てくだすったお蔭です」
坊令は謙遜して言った。左京四条は彼の担当であった。
「ほかの坊令もみなお前のようであったなら、な。少しは洛中もましになろうよ」
以前、この坊令が困るのを見かねて、道説はさる屋敷の傲岸きわまる保長を大喝一声したことがあった。相手は大屋敷の家司で位階は従六位、道説よりも位が高かったのだが、道説は検非違使を兼ねる衛門尉として保長の罪状をまくしたて、
「従わぬのならこの場で縛り上げて市獄に引っ立てるまで、即刻お役目の引き継ぎをなされよ」
と、几帳の帷がはためかんばかりの大音声で彼を恫喝したのだった。
実のところ、検非違使にそんなことをする権限はない。洛内の武力警察組織とも言えよう検非違使庁は、その職掌を強盗や殺人などといった、重犯罪の取り締まりに限っていた。
くだんの保長もそのことを知らないわけはなかったのだが、ただ純粋に恐ろしかったのであろうか、とにもかくにも、彼は及び腰で職務をおろそかにしないことを誓った。が、案の定、のちにこのことを使庁に訴え出、ために道説は検非違使の職権をみだりにしたとして叱責を受けている。
「検非違使と京識はその職分がまるで違う、お互いにその責を超えた関わり合いを持つことは癒着である」
というのが佐の言葉だった。
「四条はまだよい方なんですよ、道説さま。九条では鬼が出るとのもっぱらの噂ですから」
九条は東寺、西寺の聳える洛中最南部である、北部の繁華殷賑に比べるべくもないが、少なくとも左京にはそれなりの人は住んでいた。
「夕刻になると羅城門から声が聞こえるのだそうです。いわく、鳥が啼くような、かん高い声が」
「あそこに宿る浮浪人ではないのか」
「はあ……それがここ最近、片付ける者もいないのに、その浮浪人やら死体やらがどんどん減っているというのですよ。にも拘わらず声は途絶えない。これは鬼が喰らっているのでは、などという話に」
「ほう」
道説は弾んだ声を出さないように気をつけた。つけたつもりだったが、坊令にはとうに顔色を読まれてしまっていたようだ。
「……道説さま、まさか」
「おお、そうと聞いて行かいでか。鬼というのはこれで斬れるものかな」
あっけなく看破されて開き直ると、道説は蓑に隠れた衛府太刀をかるく叩いた。この男、生来嘘というものがつけず、したがって演技のたぐいも苦手なのだった。
「お前とて腕に覚えのないわけではあるまい。よし、今宵は付き合え。おれから駄賃も出してやる」
(ちょうどよい口実ができたな)
と、道説はほくそ笑んだ。ただ援助を申し出ても、この堅物はきっと固辞して受け取らないに違いないのだ。
「あ、いけません! 季禄の余りもまだ――」
「なにをぬかす、いまさら言うても遅いわい。おれと知遇を持ったが運の尽きと思え」
すっかり葉の落ちた街路樹の柳が、憔悴したように路へしなだれかかっている。すでに二人の足は六条を踏んでいた。大笑しながらここで待てと坊令に言い置くと、道説は六条坊門小路へ折れていった。
(夏の禄が残っておったはず、絹の一疋も渡せば足りようか)
「百鬼夜行に遭わねばよいがな、淑野!」
道説の呼びかけに、坊令はうなだれて返す言葉もないようだった。
(なにが百鬼夜行だ、冗談のつもりか)
と、青年は思った。舌打ちをしたくて仕方がない、といった表情である。
暗い一間に六人の人間が顔をつきあわせていた。高灯台の小さな明かりを挟んで、身なりのよい、冠をかぶった男が五人の男に正対している。
寄り添うように一つところに固まっている者達は、年格好がちぐはぐで、一見してなんら共通点のあるようには見えない。板の間の上には円座のひとつもなく、酒肴の一献もない。およそ明かりの届く空間には、人間以外のなにもなかった。
「我らこそ庶人どもに見られれば、鬼よ霊よと騒がれるでしょうな」
左端に座っていた年輩の男が、冠男に阿ってそう言った。
「こたびの件、隠密裏にことを運ばねばならぬのは、前に説明したとおり。庶人に見咎められるくらいなら、鬼に取って喰らわれるほうを選ばれよ」
冠男の言葉はどこまでも冷たい。一蹴された男の縮こまる気配が、闇の中でも手に取るようにわかった。
「……あとは各々方、報酬に見合うだけの働きを見せていただくのみ。この上なにか尋ねたきこともないのなら、わたしはこれにて失礼させていただく」
「待った」
青年が苦り切った声を上げた。この男、先刻からなにが気に入らないのか、いっかな仏頂面の消えることがない。黙っていてさえそうと知れるほどの圭角が、目鼻立ちもさだかに明かさぬ小さな灯明越しにも十分に窺える。
「書き付けが欲しい。あんたのと、あんたの言う尊き御辺とやらの、両方」
「騙りである、とでも?」
「おれだけが言うんじゃねえよ、この五人を代表して言ってるんだ」
青年の貌には、生来のものか自信から来るものか、ふてぶてしいものが刷かれていた。請われて来たのだ、という態度を露骨に示している。
「ことが成ったあかつきには、俺を官人に取り立ててくれるってよ。証拠が欲しいんだよ。お前の走狗になるのにゃやぶさかじゃねえが、俺は狡兎を狩ったあとで煮られるつもりはねえ」
「……それはこの場の総意、と受け取って構わないのか」
はたして、強気の青年をのぞく四人は視線をそらす。総意といえばまったくそのとおりであったが、冠男がそれを聞いたあとどう出るか、彼らはそれが気になるのであろう。
「我らは五人の腕利きを必要としている。しているが、このほかに選を漏れた者どもが、お前達の背後におることを忘れぬがいい。そしてこの件に当たる五人は、一つの生き物のように団結して動いてもらわねばならない。一人の言質は、五人の言質と見なす。陰陽師として取り立てることがあるとすれば、それは五人ともに。適わぬときは五人ともども去ってもらう」
お前達の代わりはいくらでもいる、言うとおりにしない者が一人でもいるなら全員お払い箱だ――要約すれば、そういうことである。
「もとより、我らに異存はござらぬ。そこな若者の言動は、多分に才気走ったものと解釈してくだされ。我らはすでに一蓮托生、必ずや仰せの通りに動くこと、確約いたしまする」
右端で腕を組んでいた初老の男が、立て板に水を流すがごとくまくしたてた。自分より明らかに年の若い男に、躊躇も見せずに額ずいてしまう。恥も外聞も考慮しないふるまいではあったが、それを補ってあまりある威厳のようなものが、伏した痩骨から立ち昇っている。
「……お互いのために、そうなることを願っている。速やかに行動されよ」
冠男はそう言いながら立ち上がる。滑るように部屋から出ていくその背中を、青年の舌打ちが追いかけていった。