第一話「悲劇の始まり」
眩しい太陽の下、キラキラ輝く海の上を水しぶきをあげながらフェリーが進んでゆく。
二泊三日の東京湾クルーズには、中学校生活を送る生徒とその親子たちが「津久根中学校サマーバケーション企画」と称したイベントに参加していた。毎年恒例となるこの企画では、夏休み中に友人と、またはその親子との親睦を深めるために立案された企画イベントで、「親が子に同伴する」という資格さえ満たせば自由参加なサマーイベントだ。今年は事前に行われたアンケート調査で最も人気の高かったフェリー旅行に生徒たちのテンションも朝からハイになっている。
ハヅキもまた、この旅行を楽しみにしていた女子生徒の一人。普段は生徒会の執行会、部活動での部員の統括などに追われる多忙の生活だが、夏休みのこのイベントでゆっくり羽を伸ばそうと決めていたため、イベントには父のタカシと母のヒデコとともに、心地良い風を浴びるフェリーのテラスでくつろいでいた。
「ハヅキ、見てごらん。ビルがもうあんなに遠くよ」
「わあ、もっと奥にはスカイツリーも見えるよ!」
「本当ね。こんなに素敵なら、イズミさんたちとも一緒だと良かったんだけれど」
イズミとは、ハヅキの幼少の頃からの幼馴染、イズミ ケンスケの事だ。家族同士の付き合いも長く、当然今回のイベントにも一緒に参加できると思っていた。
「仕方ないよ。ケンちゃん、来年からメルボルン大学の理学部に日本人最年少で飛び級でしょ? 残念だけど、準備のジャマはできないもんね」
ハヅキは残念そうに、細い溜息をつく。
すると後ろからポン、と肩をたたかれる。
「よ、ハヅキ!」
「わっ、びっくりしたあ、シモヤマじゃん」
「へへ」
いたずらに笑う彼はシモヤマ。ハヅキの家の隣に住む同級生で、しょっちゅうハヅキにちょっかいをかけてくる男子だ。
「…」
「…ハヅキ? どうした」
急に黙り込んだハヅキを不思議に思ったシモヤマは、ハヅキの顔を覗き込んだ。
「え…ううん。なんでも。なんかさっきから妙な視線を感じるっていうか」
悪い予感がする、そう言いかけたが今はせっかくの楽しいイベント中だ。不穏な空気にはしたくなかった。口をつぐんだハヅキを笑い飛ばすようにシモヤマは
「はは、誰がお前のことなんか見るかよ、自意識過剰なやつ」
「う、うるさいなあ」
そんな他愛もない話をしていると、突然に
「こら、シモヤマ!」
と、このイベントに同伴していたシモヤマの母、シモヤマが現れた。
「げ、シモヤマ!」
と、シモヤマは露骨に嫌な顔をする。
ここでお気づきだろうか。シモヤマ家は自分の家族同士、何故か苗字で呼び合う習慣があるらしく、最初はハヅキも混乱したが今ではこの光景に馴染みを感じていた。
「あら、シモヤマさん、こんにちは」
近くでくつろぐ母、ヒデコがいつもの調子で軽く挨拶をする。
「あらやだ、どうも~。お家が隣だからいつも挨拶してるけど、海の上で会うなんてなんだか新鮮ねえ」
「そうね、シモヤマさんちも二泊三日、楽しみましょうね」
「ええ、それじゃまた。ほら、シモヤマ行くよ!」
「イデデ!耳引っ張んなよ、シモヤマー!」
母親に連れられてゆく同級生のシモヤマを眺めながら、ハヅキの母は苦笑した。
「ふふ、嵐のようだったわね」
「嵐…?」
母の言葉にハヅキはふと、遠くの空を見上げる。
「そういえばお母さん、向こうの空、なんだか黒くない?」
「え?」
と、瞬間、母が聞き返すより早く、さっきまでサンサンに晴れていた空が分厚い雲に覆われ、雷とともに激しいスコールが降り注いだ。
「えっ!なにこれ…!スコール!?」
どす黒い雲を見上げようとするも、肌を叩く痛いほどのスコールが視界を遮った。耳をふさぎたくなるほどの雷鳴により人の声もかすれてゆく。そんな中、父タカシが声を張り、
「ここの海域の気候変動はかなり激しい!ハヅキ、テラスは危険だ、中へ入ろう!…うわああっ!」
「お父さん!?」
一瞬にして嵐に見舞われた大しけの海がフェリーのバランスを崩してゆく。激しい波の動きでフェリーは勢いよく傾き、父タカシはフェリーの外へと放り出された。
「お父さん!…きゃあっ!」
ハヅキはスコールのせいで滑り易くなってしまった手すりに掴まっていられず、父と共にフェリーの外、荒れた海へと投げ出されてしまった。
「そんな…!おか…お母さあんっ…!」
黒い波に身を任せることしかできず、服を着たハヅキの身体はだんだんに重くなる。霞む目の前に、黒い微笑が見えた気がした。