衝動にあらず。計画にもあらず。
コイツならいつでも殺せる。
そういうヤツを一人用意しておく。
できれば後が煩わしくない独居老人がいい。世間様からも嫌われているようなら最高だ。
「生きていけなくなる」と確信したとき――いいか、「生きていけなくなったとき」じゃあ、ない。極めて冷静に、自分の将来に対して希望がなくなったと判断できるタイミングであって、四方手を尽くして八方塞がり、ってんじゃあ、遅い。そこを踏まえた上で、「将来自分は自殺するより外なくなる」と確信したときに――ソイツの頭を胴と切り離す。それができなきゃただ殺すでもいい。
とにかく持って運べる死体を作りだす。
それを近くの交番に――もちろん、現場近くの交番を押さえておけよ――持っていく。
そうすりゃあとは国が10年は食わせてくれるって寸法よ。
どうして電話じゃないかって?
交番に行ったほうが正気を疑われるじゃねえか。
いいか。
日本で生きていくのに大切なことは、いかに死なねえ状況にいるか、だ。
毎年の健康診断は欠かすな。ほとんどの病気はそれで防げる。
交通ルールを知悉して必ず守れ。ほとんどの事故はそれで防げる。
日々の適度な運動と週に一度の旨い飯は欠かすな。死にたくなる心はそれで防げる。
それを維持できねえ仕事に就いたら躊躇わずに辞めろ。
それを維持できねえ金を失ったら――
躊躇わずに、やれ。
◇
今となっては友人が言ったのか、テレビや本で見たものなのか、もう思い出せないその言葉を私が実行したのは五十路を回った年の晩秋だった。
庭先で斬った老人の鮮血の赤と匂いが、路地の向こうに生える銀杏の黄葉と香りに雑じっていたのをよく覚えている。
不思議と交番に行くまでの記憶は銀杏だけで、どこを通ったのか、誰と出くわしたのか、まったくわからない。
人様を殺してしまって昂奮していたことだけは間違いがなく、そのせいだろうと思われた。
その殺してしまった老人の家から五分ほどの交番には、三十路を回ったくらいだろう若い警官と私と同じくらいのベテランと思しき警官がいた。
途中で首を斬り落とすことを諦めた老人の死体は首がもげかけており、ふたりはびっくり仰天していた。人間、不測の事態に陥ると口が半分開くのだということを私はこの年にして初めて知った。
驚きのあまり右往左往あったものの、私はふたりに現行犯逮捕され、取り調べを受けることとなった。
取調室は狭かった。そして暗かった。
警察署自体が明るいところではなく、まるで日向に出るなと言わんばかりの暗さが気に障った。
この国の性質はこういう細部に現れている。
「つまり――」
角刈りの刑事が厳めしい顔つきで話をまとめようとする。
「計画殺人ではない、と」
「はい」
佐藤と名乗ったこの刑事は、強面の外見に反して非常に紳士的だった。
「しかし殺すことを決めていたのでしょう?」
「はい」
「事前に」
「はい」
困惑が紳士の顔に浮かぶ。私は少しだけ説明することにした。
「宝くじの逆なのです」
「宝くじの……逆?」
「もし宝くじが当たったらベンツを買おうと決める。これは計画ですか?」
「いや、違うでしょうなあ」
「これと同じです。窮乏に瀕したら彼を殺そうと決めていた。そしてそれは実現してしまった」
「だから殺した」
「はい」
「そこがわからんのです。あなたの生活は……裕福とは決して言えないでしょうが、しかし困窮していたというには無理がある」
「無職を一年以上続けていても、ですか? 貯金が10万ほどになっていても、ですか? 一年以上の間に200社以上の採用を断られていても、ですか? 本当にそれで、近い将来人間らしい生活が営めますか? そしてなにより――一年以上就職活動を続けることは本当に人間らしい生活ですか?」
私の質問に佐藤刑事は苦虫を潰したような顔になった。
「私は自分の罪を正当化するつもりはありません。しかし同時に私の今の境遇が社会的に正当だったと言うつもりもありません。私は私の人間らしさのための最善を尽くしたつもりです――」
この作品はフィクションです。