2-3 手作りお弁当
純也の周りで変化が起きようと、学校の授業はなんの変わりもなく、いつも通り進んでいった。
昼休み、いつもであれば幸人とともに食堂に行くのだが、その幸人が怪我で入院のため、今日は欠席だ。
昨日の放課後、幸人のお見舞いに結局行かなかったことについては、昨夜のうちに幸人に弁明のメールを送っておいた。その際に送ったメールは「急に腹がいたくなったから、そのまま家に帰ったわ。わりい」と言う内容のもの。
中学時代、部活をサボる時でさえ、もう少しマシな言い訳を考えていた気がする。そして、「お大事に。って、俺が言うのもおかしな話だよね」というメールが帰って来て、心底申し訳ない気持ちになった。
その後も少しやり取りをして、今週末には退院できるということを教えてもらった。
それまでの間、昼食を食べるときは一人で食べることになるな、と考えながら、とりあえず学食にでも行こうかと席を立った瞬間、
「純也!」
教室のドアが開く音とともに、女の子の声が耳に入ってきた。
純也は自分が呼び掛けられていることを認識し、視線を向けると、そこにいたのはユーリだった。
教室に突如現れた中等部の制服を纏った美少女。男女問わず、その姿に興味を持たない生徒はいない。弁当を食べていたクラスメイトもその箸を休めて、彼女に注意を向けていた。
教室中の視線が、ユーリと純也を交互に見つめる中で、ユーリはそれを気にした様子もなく、
「純也! 昼食を一緒に食べましょう」
一瞬前までは、呆気にとられていたという様子だったクラスの男子の視線に、明らかに憎しみの色がこもった。純也の方を見ながらぼそぼそと呪詛のようなものを唱えている生徒までいる始末だ。
今日の昼食は一人だな、と思っていたところに現れたユーリ。もちろん内心では嬉しい気持ちもあるのだが、それ以上にクラス中の視線が痛い。純也は慌てて席から立ち上がり、教室の入り口でこちらに向かって手を振っているユーリに駆け寄っていく。
「お、おう……。あ、ああ。いいよいいよ。行こうぜ」
ユーリの身体を教室から押しやって、純也はいろんな感情の篭った視線から脱することに成功した。
背後から聞こえた「後で事情を詳しく聞かせてもらうからな」というどす黒い声はきっと、吉田淳のものだろう。声が聞こえただけだったが、彼がどんな顔をしていたかは、容易に想像ができた。
この後教室に戻って来たときに自分がどんな目に合うのかを想像すると、少し憂鬱になったが、今は考えないようにしたいと思う。
純也とユーリは、そのまま廊下の角まで歩いて立ち止まった。ここまで来たら、さすがに自分たちの声が教室まで届くことはないだろう。
一息ついて、恨み言の一つでも言ってやろうと思っていると、ユーリが先に口を開いた。
「昼休みが終わった後、きっと大変ですね」
ユーリは口元をつり上げて、悪魔のような笑みを浮かべていた。きっと純也が困っているという、この状況を心底楽しんでいるのだろう。
「誰のせいだ。誰の――」
純也は溜息をついて言い返した。その言葉にトゲは一切含まれていない。純也自身も心のどこかでは、この状況を楽しんでいる節があったからだ。
「さあ、わたしには皆目見当もつきません」
思いっきり棒読みで、ユーリは肩を竦めてすっとぼける。
「それよりもついて来て下さい。昨日、司ちゃんに校舎を案内してもらった時に、いい場所を教えてもらったんです」
ユーリが強引に純也の腕を掴んで、引っ張っていく。純也は戸惑いつつも、彼女の誘いに乗ることにした。
(まあたまにはこんな風な昼食も悪くはないか……)
純也はあまり意識しなかったが、今の二人の状況は手を繋いで廊下を歩く男女である。果たして傍から見たら、純也とユーリはどんな関係だと思われていたのだろうか。
純也が連れられてきたのは、中等部校舎の屋上だった。中等部の校舎に高等部の生徒が入ってはいけないという決まりはないのだが、わざわざ高等部の生徒が中等部校舎に行くようなことは滅多にない。純也自自身も昨年の三月までは中等部の校舎に通っていたが、卒業式以来の再訪になった。
当然、中等部の生徒たちは、突然やってきた高等部の先輩に対して奇異なものを見るような視線を向けていた。純也はそんな視線を浴びながら、屋上への階段を上った。
屋上はとにかく殺風景で、そこにあるのは灰色の無機質なコンクリートと純也の倍ほどの高さがある緑色のフェンスくらいなもんだ。普段から解放されているが、基本的に生徒は寄りつかない。実際、純也自身も在学中に屋上で昼食を取ったことは一度もなかった。
通常、屋上からの景色というのは見晴らしが良くなるものだが、近くにそびえ立っている大きな木のせいで周囲を見渡すことができないのだ。こんなところが、この屋上が人気のない理由の一つだと思う。
「さっき、中等部の校舎を通った時、俺めっちゃ浮いてたよな。正直、かなり恥ずかしかったんだけど」
「くすっ、そんなことないですよ。それにそれを言ったら、わたしだって、高等部の校舎に入ったんですからおあいこです」
ユーリは確かに顔立ちが整っているし、スタイルもいいし、間違いなく可愛い女の子の分類に入るだろう。だけど、猫だった時の方が可愛げがあったような気がするのは、純也の記憶が曖昧だからなのだろうか。
(思い出は美化されるという言葉もあるしな)
「まあ、おあいこだな。それでいいや」
これ以上言い返しても無駄であることを悟り、純也は若干投げやり気味に言葉を返す。
ユーリの顔を見ていたら、なんだか彼女を責める気がなくなってしまう。昔からこうだった。
彼女が何かをやらかした時も、純也は彼女に何か言おうとするのだが、結局二の句が継げなくなってしまうのだ。彼女に何か文句を言ったという覚えはない。それはきっと彼女の持っている人柄が成せるものだろう。
人間ではないユーリに対して、人柄という表現が適切なのかどうかは多少の審議が入るかもしれないが。
「そうそうそれでいいんです。男の人は細かいことを気にしたらいけないって言うじゃないですか」
うんうん、とユーリは頷いて純也の態度に納得する。
なんだか十年前に戻ったかのようなやりとりに懐かしい気分になった。
「ところで司は一緒じゃないのか?」
「司ちゃんなら、部活のミーティングあるって言って、今日の昼は一緒に食べれないそうです。というか、大会まで昼休みは毎日ミーティングやら軽いトレーニングとかが続くらしいですよ。大変ですね。わたしは身体の弱い司ちゃんしか知らないから、ちょっと心配なんですけど」
「その心配はもう必要ないな。なにせ、今のあいつは俺よりもよっぽど健康体だ」
「それを聞いて安心しました。それじゃあ積もる話もありますし。まずはお昼にしましょう」
それで話は一旦終わりだとばかりに、手をパン、と叩くユーリ。
随分と彼女に振り回されている気がする。そういえば昔もこんな風にユーリに振り回されていたなあ、と過去の記憶に思いを馳せて、懐かしい気分になる。
もともと振り回されるのは嫌いじゃなかった。自分の過去の記憶を思い返してみて、誰かに振り回されていなかった期間の方がはるかに短いと思う。十年前はユーリに、辺野市に引っ越して来てからは美月に振り回されることが多かった。
「いいけど。途中で購買にも寄らなかったし、俺、お昼持ってないんだけど……」
「もちろん知ってますよ」
「じゃあ何か、俺に昼飯を抜けとでもいうつもりなのか?」
それはさすがにマズい。
男子高校生が午前中の授業を耐えきることができるのはなぜなのかと問われれば、間違いなくその後にやってくる昼食の時間を楽しみにしているからである。純也もその例に漏れず、昼食を食すためだけに、午前中の授業を凌ぎ切ったといっても過言ではない。
「そんなわけないじゃないですか。わたし、純也のために昼食を作ってきたんですよ」
そう言って、ユーリは手に提げていたカバンを漁りはじめる。
(まさかキャットフードとかじゃないだろうな)
そんな考えが、純也の脳裏をよぎった。さっきからの振り回されっぱなしの流れから言って、有り得ない想像ではないと思う。それに今はこんな姿をしているユーリだが、元々は猫なわけだし。十年前は食事にキャットフードを食べてたわけだし。
「純也。今、かなり失礼なことを考えてますね。今のわたしは人間なんですよ」
声が漏れていたのかと、純也は咄嗟に自分の口を塞いでしまった。
「なんでばれたんだ……?」
純也が畏怖の感情を込めて尋ねると、
「えっ、冗談で言ったんですけど、本当に考えてたんですか……? さすがにショックです……」
ユーリは顔を伏せ、肩を落として、小柄な体をさらに小さくさせる。
「いや、そうじゃなくてだな……。それは――」
慌ててフォローしようとする純也だったが、そこで顔を伏せているユーリが口元をうっすらと笑みの形にしていることに気がついた。
純也は続けようとした言葉を噤むと、純也の態度を見て自分の演技がばれたことに気づいたユーリが、
「あれ? ばれちゃいました?」
悪びれる様子もなく、顔を上げてペロリと舌を出す。
「それでは、お詫びと言ってはなんですが、こちらをどうぞ」
ユーリが差し出したのは、四角い形をしたピンク色の可愛らしい弁当箱だった。
「今朝、純也の家に行く前に作ったんです。お口に合えばよいのですが」
ユーリは純也の反応を窺うように、上目づかいで言う。
「それじゃあ、拝借して」
ユーリが両手で差し出した弁当箱を、純也も両手で丁寧に受け取る。なんだかよくわからない緊張感が二人の間に生まれていた。
さきほど否定はされたものの、ユーリのお弁当イコールキャットフードなのではないか、と言う説を捨てきれずにいた純也は、恐る恐る弁当箱を開けて、中身を確認した。
「これは……」
しかし、そんな疑惑はすぐに払拭され、弁当箱の中身を見て、純也は思わず感嘆の声を漏らした。
そこには色とりどりのおかずが陳列していた。卵焼きにポテトサラダ。から揚げにエビフライ。それからキャベツの千切りとアスパラ巻きなど、そしてご飯にはふりかけをまぶしてある。
お弁当の定番とも言えるメニューの数々に、普段は学食か購買でお昼を済ましている純也は期待を抱かずにはいられなかった。
「へえ~、ザ・お弁当って感じだな。もちろんいい意味でな」
純也の素直な関心の言葉に、
「えへん。昔から、純也のお母さんの料理を見て来ましたからね」
ユーリは胸を張る。小柄な彼女だが、胸を張った時には、その胸がかなり強調されるほどの大きさを有している。
「それを見て、自分もいつかは料理を作ってみたいと思ったものです。こんなわたしにこのような機会を用意してくれた神様に感謝です」
ユーリは祈るように手を組んで目を瞑る。風が吹いて、彼女の綺麗な髪がふわりとなびく。
その仕草がとても様になっている。修道女というものを実際に見たことはないが、きっとこんな風に神々しさを漂わせながら神に祈るのだと思った。
「それじゃあ、いただきます」
純也も両手を合わして、食の神様とこれを作ってくれたユーリに祈った。
早く食べて感想を言え、と急かすようなユーリの眼差しを受けながら、純也はまず卵焼きを口に運んだ。
味を確かめるようにゆっくりと咀嚼する。
「お味はどうですか?」
期待と怯えが入り混じったような声音で聞いてくるユーリ。
純也が何も答えず黙っていると、ユーリが答えをせがむように目を輝かせて身を寄せてくる。
まず卵焼きを食べた時の味の感想として、普通の場合は、甘かったとか、しょっぱかった、とかいう表現が思い浮かぶものだが、この卵焼きは違った。何と表現すればいいのだろう。
口に入れた瞬間、明らかに卵ではないモノの味がした。その原因を探るべく、噛み続けていると梅干しのような酸っぱさが口の中に広がってきた。この時点で、自分が口に入れている物の異常事態には気づいていたが、純也のうちに眠る好奇心がそのまま飲み下す事を許さなかった。
この物体の正体を解読するためになおも噛み続ける純也。そこで口内の物体に変化が訪れた。口の中に広がっていた酸味が綺麗さっぱりなくなり、今度は甘味が味覚を支配する。
甘味と言っても、卵本来の甘みとかそう言ったものではなく、チョコレートのような甘さだった。
ここで身の危険を感じ、卵焼きのような物体を飲み込んだ。
はっきり言って美味しくなかった。味だけを言うならば、学食のカレーの方が数段美味しいだろう。
だけど、もう一つ食べたいという衝動に駆られるのはなんでだろう。あの物体の中に、何か中毒になるような成分が混入されていたのかもしれない。もしくは、危険だと感じるものほど、人間にとってはごちそうとなり得るのかもしれない。
「純也! ねえ、感想! 感想は!」
ユーリはせかすように純也の肩を揺さぶってくる。しかし、純也は彼女の言葉に答えず、無言で真剣な表情のまま、もう一つの卵焼きを口の中に運んだ。
またしても不思議な味が広がっていく。しかもさっきとは別の味がする。
意味が分からない。だけどそんな不思議さが病みつきになる。
もう一個。もう一個。
無言のまますごいペースで口に運んでいく純也。卵焼きがなくなった後は、から揚げ、そして次は……。
そんなこんなで、最後に白飯を食べつくし、弁当箱を空っぽにしたところで、ふと我に返る。
「ごちそうさま……」
卵を産んでくれた鶏。から揚げとなってしまった鳥。米やじゃがいも、キャベツを栽培した農家の人々。ユーリも含めて、彼女のお弁当を作る上で関わったものすべてに感謝を込めて、純也は両手を合わせた。
こんなに穏やかな気持ちになれたのはいつ以来だろう。そんなことを考えずにはいられない一品だった。
「純也、凄い食べっぷりでしたよ。思わずその食べっぷりに見惚れて言葉が出なくなってしまうくらいに。それで感想は? あの食べっぷりを見てたら、もう十分伝わってますけど、純也の口から直接聞きたいです」
純也は口に手を当てて、この場で言うべき言葉を探したが、結局上手な表現が思い浮かばなかったので、率直な感想を伝えることにした。
「そうだな……。よくわからなかった」
「――は?」
おいしいとかウマイとか賛辞の言葉が来ることを確信していたであろうユーリは、顔をしかめ、何とも微妙な表情を作った。
「ちょっと待ってください。わたしの問いかけを無視して、あれだけの勢いで食べてたのに、最終的にはよくわからないですか? ちょっとどういうことですか?」
ユーリは純也に詰め寄って、純也の襟首を掴んで身体全体を揺さぶる。
「そ、そんなこと言ってもな……。独特な味がして、なんだかその味の向こう側にあるかもしれない何かに期待して、思わず箸を進めてしまう。そんな感じの弁当だったぞ」
「それで?」
ガシッと純也の肩を掴んで、ユーリは色素の濃い真っ黒の瞳で、真っ直ぐこちらを見つめてくる。
「美味しかったのか。美味しくなかったのか。どっちなんですか?」
「いやあ、それがよくわからなくて……」
ユーリはため息をついて、純也の肩から手を離す。
「はあ、呆れた。まあ今回はそれでいいです。あんなに夢中に食べてくれただけでも、わたしは十分嬉しかったですから。それ以上は望みません」
ユーリは顔を背けて頬をぷっくりと膨らませていた。
その顔がどこまでも愛らしくて、彼女をほっぺをつつきたいとか、写真に撮ってその表情をずっと眺めていたいとか、そんな衝動が沸いてきたが、純也の理性が欲望に打ち勝ってどうにか我慢した。
「ところで、ユーリの昼食は?」
「わたしですか? わたしは純也の教室に行く前にサッと済ませました。ですから心配は無用です」
「ずいぶんと素早いんだな」
そういえば昔も、彼女は出された餌をすごい速さで食べつくしてたな、とそんなことを思い出し、思わず口元が緩んでしまう。
「それじゃあ、本題に入りましょうか。純也を屋上に連れてきたのは、何も一緒に昼食を食べるためだけではありませんから」
そう言って、ユーリは姿勢を正す。よくわからない彼女の真剣さに、純也は自然と正座の体勢になっていた。
かしこまっている純也を見て、ユーリは笑いをこらえきれず、小さく噴き出した。
「そんなに畏まらなくていいですよ」
ユーリは一度咳払いして、それから一呼吸置いてから喋り始める。
「わたしは十年前、とある事情で純也と別れることになりました。その辺りの事情も今は忘れているかもしれませんが、わたしの方からはそれについて何も言えませんし、言う資格もありません」
ユーリはまったく表情を変えなかったが、その表情の奥に寂しさとか切なさとか、そんな感情が透けて見えるような感じがした。それを見て、純也は、ユーリのためにもどうにかして早く思い出すことを、心の中で誓った。
「わたしは純也もご存知の通り、以前純也にこの命を救ってもらったことがあります。さらにそれだけではなく、捨て猫だったわたしに温もりや優しさをくれました。これは感謝してもしきれないものです」
「…………」
純也は口を挟むことなく、ユーリの言葉を聞いていた。
「だけど猫だったわたしは、当然どうやってもその恩を返すことができませんでした。その時ほど自分が無力で情けないと思ったことはありません」
「…………」
「あはは……、でもそんなこと、今はどうでもいいですね。わたしがここにいる目的は、純也にその時の恩を返すためです。そのために、どうしても人間になりたくて、毎日神様に祈ってました。そしたら神様がわたしの願いを叶えてくれて、不思議な力が沸いて来て、この姿になれたんです」
ユーリはなんでもないことのようにそう告げた。
「純也に恩を返すために何ができるだろうと考えました。そして思いつきました。わたし、純也の願いを、一つだけなんでも叶えてあげます」
――願い?
どこかで聞いたことのある単語だ。いや思い出そうとしなくても、純也ははっきりと覚えている。
あの時見た夢が今、現実となって純也の目の前に現れているのだ。
ユーリと再会できた時から、どこかでこんな風に夢での出来事が起きることについて、予想? 予感? を抱いていた。だからこの場では、それほどの驚きはなかった。
「急にそんなこと言われてもな……」
嘘だ。なぜならば、あの夢を見た日から、自分の願い事はなんだろうと模索してきたからだ。はっきりとした結論は未だに見えていないし、夢の中で自分が何を言ったのかも思い出せない。
だけど、昨日のうちに思いついた願い事が一つあったじゃないか。あれを願えばいい。実際にユーリがその願い事を叶えてくれるのかどうかはともかく、あれこそが自分の願い事じゃないのか。
自分は今、美月と幼馴染以上の関係になりたいと思っている。でもそのためには色々な障害が存在する。例えば、親友の幸人の存在とか。
(駄目だ。違う。俺は幸人がいなくなることなんて望んでない。違う。あれはただの気の迷いだ。美月に対するこの思いも、きっといつかなくなるはずだ。だから俺が我慢すれば、きっとすべてが元通りになるんだ)
純也が自分の気持ちを否定しようと躍起になっていると、夢で見た光景とは少し異なることが起きた。
「言いたくないのでしたら、別に口に出さなくてもいいです。ただわたしは純也の想いを読み取って、それが叶うように行動するだけですから」
あの時とは異なり、自分の願いを自分の言葉ではっきりと口にしろとは言われなかった。
「ふふっ、わたしはですね。純也が今どんなことを考えてるか、簡単に見通せるんですよ。だから純也がその願い事を口にするのが恥ずかしいって思っていても、ちゃんとわたしは純也の考えを読み取って、その願いを叶えてあげます」
その時、ぎくりとしてしまったのは、自分の中に潜んでいる汚い部分を覗き見られたような気分になったからだろう。人は誰しも、自分の汚い部分は誰にも見せたくないと思う生き物だ。
「いや、違う。俺はそんなこと思って……」
だから慌てて弁明しようとしたのも、自分を守るための防衛本能のようなものだったのかもしれない。
「どうしてそんな風に誤魔化すんですか? どんな人間――いえ、どんな生物だって、自分が叶えたい願い事を持っているはずです。そしてその願い事を叶えるために、わたしたちは毎日を頑張って生きているんです。純也は違うんですか?」
「願い事にだって、いろんな種類があるだろ。ゲームの中の主人公になりたいとか、便利な魔法を使えるようになりたい、とかな。これだって立派な願い事だ。だけどそれらは努力したってどうしようもない願い事だ」
「でも、わたしが言っていることはそういうようなことではありません。それに、そんな願い事だったとしても、わたしがなんとかしてみせますし、そもそも純也の願い事はそういう類のものではありませんよね」
きっぱりと純也の目を見て言い返してくるユーリ。純也はその目を見返すことができず、つい目を逸らしてしまう。
「すみません、論点がずれてしまいましたね。回りくどいことはこれっきりにして、はっきりと言いましょう。純也には思い人。つまり好きな女の子がいますね?」
心臓が二回、大きく跳ねた。言い返そうにも、何の言葉も浮かび上がってこない。
「だけど幼馴染でお姉さんのように接してきたその人は、純也の親友と付き合っている。自分が割り込む余地がないから、自分の気持ちを諦めようとしている。そういうことですよね」
そこまではっきりと言われれば、認めるほかない。
どうせ誤魔化したところで、ユーリは純也が隠そうとしていることを言い当ててくるのだろう。だったら、頑なに否定するよりも認めてしまった方が幾分か気は楽だ。
「ユーリはなんでもお見通しなんだな。すげえよ。ビビった」
両手を上げて降参のポーズを取る。
「もし純也の気持ちが叶おうと叶うまいと、きっとその中の登場人物の誰かが不幸になるのは避けられない。だったら、不幸になるのは自分でいい。自己犠牲の精神ですね。こういうところは昔、わたしを育ててくれていた時から変わりませんね。自分の事を二の次に考えていて、誰よりも優しい純也。それは純也の美点だと思います。わたしもそれに救われましたしね」
「そう言ってもらえると、俺も救われるよ」
「だけど、そんな風に自分を蔑ろにしていれば、いずれ自分自身を滅ぼすことになるでしょう。現に、自分の中に眠っていたよくわからない感情を制御できなくなっているでしょう――」
「俺の心の中を覗くな! じゃあどうすればいいって言うんだよ!」
なんだか、ユーリに自分の汚いところを指摘されているような気分になった。人間は、認めたくない事実を指摘された時に、一番カッとなってしまうのだ。
だがユーリは純也の剣幕に怯むことなく、まっすぐな瞳で純也を見つめている。
思わず声を荒げてしまったが、途中で止める事もできず、言葉が溢れてくる。
「急にでかい声出してゴメン。でも聞いてくれ。もし仮にだ。俺が美月と付き合うようになったとしたら、幸人はどうなる? 俺があいつの立場だったとしたら、自分の恋人を寝取った友人を許すことなんてできない。俺はあいつに恨まれたくないんだよ。結局のところ、ここで俺が我慢することが、俺自身の傷を最小限に抑えられる。だからきっとこのままでいいんだ」
「だから自分の気持ちを隠し続けるんですか? 自分だけが我慢すれば、本当にすべてが解決するのですか? そして、その気持ちは本当に我慢できるものなのですか?」
「きっとできるさ。これまでだって、そうしてきたんだ。これからだってそうできる」
そして、たっぷり数秒間沈黙が流れる。先に口を開いたのはユーリだった。
「そうですね。所詮はわたし個人の考えに過ぎないのかもしれません。話はここまでにしましょう。とりあえず一つだけ。わたしは純也の願いを叶えるためだけにここにいて、その準備をできているということだけは覚えておいてください。考えがまとまったら教えてください。とりあえず純也の考えがまとまるまで、このことは、わたしの方から口にしないことにします」
「……ああ」
ユーリは純也の返答に頷いて、立ち上がる。
「それと、わたしが願っているのは、他の誰でもない純也自身の幸せです。そのために、わたしが出来る限りのことは力になりたいと思っています」
「ありがとう。そんな風に思ってくれるのは、本当に素直にうれしい。それと、さっきは急にでかい声出してゴメン」
「いいえ。わたしも無神経すぎました。それじゃあ、わたしは戻ります。次の時間体育ですから着替えをしないといけません」
それを聞いて、ユーリは純也に優しく微笑みかけて、その場を立ち去った。
ユーリの笑顔は純也の気持ちを包み込んでくれるような温かい微笑みだった。純也の心の奥底に眠っているヘドロのように汚い気持ちを少しだけ溶かしてくれた。
屋上に一人取り残された純也は、地面に腰を下ろして後ろに手を付けながら空を見上げた。
空には薄い雲がかかっていて、太陽を覗き見ることはできない。
この空もなんか悩みを抱えているのかな、とそんな想像をする自分がおかしくて、純也は口もとを緩めた。
(悩んでいるのは俺の方か)
だから空があんなにどんよりして見えるのかもしれない。
だけど覚悟は決まった。自分はこれからもずっと続くであろう、この日常を守りたいと思う。たまに汚いことを考えてしまう自分だけど、それを抑え込めばきっと大丈夫だ。それに幸人に美月を紹介したのは、他ならぬ純也なのだ。それなのに今さら美月とどうこうなりたいなんて、虫が良すぎるだろう。
だからこのままでいいのだ。
そもそもにおいて、美月が好きだというのは確かに純也の内に秘めた素直な気持ちではあるが、幸人と美月と三人でこれからもずっと仲良く日常を過ごしたいというのもまた、紛れもない純也の素直な気持ちなのである。
(だったら、願い事は今みたいな日常が続きますように、だな)
果たしてそれは自分を納得させるためのものなのか、それとも自分自身に言い訳をしているものなのか、純也自身も区別できなかった。だけどそんなことはどうでもいい。
心の奥底に眠る黒い気持ち。何をおいても、これを封印することが純也の取り組むべき課題だ。ムキになって、ユーリに怒鳴りつけてしまうような、こんな下らない感情はさっさと封印したほうがいい。
だったらどうするべきか。
(それだったら、きっとなんとかなる。原因から遠ざかればいいんだ)
自分の心の中は、空模様とは異なり、少しずつ晴れ渡ってきているような感じがした。