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2-1 記憶のカケラ

 第二章 素直な気持ち


 人も社会も世界も、すべて常に変化している。

 それが現実だ。

 今の状態に満足していたとしても、それは決して長くは続かない。

 世の中なんてキミの事情とはお構いなしに移ろいゆくものなんだ。

 だけどもし、今の楽しい時間が永遠に続く世界があるとしたら?

 キミはそんな夢みたいな世界を選ぶかい?



 ――これは十年以上も前。純也が四歳になったばかりのころ、幼少期の記憶だ。

 幸人とも美月とも出会う前の記憶。辺野市に引っ越してくる前の記憶。

 どういうわけか、今に至るまでずっと忘れていた過去の記憶の一片。どうして急にこの記憶が蘇ったのか? きっと彼女と出会ったからだろうと思う。

 彼女と接触することで、自分の中に眠っていた記憶が蘇ったとか、彼女が以前純也の記憶を奪っていて、その記憶を返してくれたとか、そんな風に考えてしまったが、さすがにそれはファンタジーすぎるかなと、純也は思う。

 だけど現実に、彼女と出会った日の夜に、純也にとっては重要な記憶の一部を取り戻したというのは、紛れもない事実だ。無関係と切り捨てるのは、さすがに無理がある。

 当時、妹の司は喘息を患って入院していた。現在陸上部のエースとして活躍している彼女からは想像もつかないが、小さいころは家にいる時間よりも病院で過ごした時間の方が長いというような体の弱い子だった。

 父は仕事で、母は妹の看病。そうなると、必然的に純也は独りぼっちになることが多かった。

 家ではほとんど一人だったが、いつの間にか一人の時間にも慣れてしまっていた。だって純也にはそれが当たり前だったから。

 ――その日、通っていた幼稚園の帰り。

 周りの友達はお母さんが迎えに来て、手を繋いで帰っていく。純也はその光景をただ眺めていた。

「純也くん。お母さん来るまで、先生たちと遊んでよっか?」

 純也のその姿に同情したのか、幼稚園の先生が優しい声で話しかけてくる。

 別にいつものことだ。両親が妹につきっきりで純也に構ってくれないのは。

 純也は四歳にして、夜は一人でトイレにいけるし、母に頼まれたおつかいだって一人でできる、そんなしっかりとした子なのだ。

 だから、たかだか母が迎えに来なかったくらいで寂しがったりすることはない。それに一人で過ごすことにはもう慣れているのだ。

「ううん。ぼく、ひとりでかえる。せんせい、さよなら」

「そう……。ちゃんと気をつけて帰るのよ」

 心配そうな先生の声。純也は先生の言葉に首を縦に振って答えた。

 うっすらと空が雲に覆われている。今日は雨が降るかもしれないからと、純也は母に傘を持たされていた。

 だけど純也の視線は、そんな曇りがかった空を映すことはなく、灰色のアスファルトのみを映していた。

 本当はもっと両親に構ってほしかった。だけど自分がワガママを言えば、きっと彼らは困ってしまうだろう。「いい子」である純也にそれはできなかった。

 一人でトイレにいけるようになったのも、おつかいができるようになったのも、本当は両親に褒めて欲しかったから――「いい子」だと褒められて、頭を撫でて欲しかったからだった。

 だけど、「いい子」になってしまったら、今度は手間のかからなくて、多少は放っておいても大丈夫な子、と評価されるようになり、より一層放置されるようになった。

 おかげでそうなってからは、両親が純也の面倒を見てくれていた時間がさらに減り、幼稚園にも一人で通うことが増えた。

 いくら一人になることに慣れているといっても、それは我慢することに慣れていただけで、本当はそんな風に我慢なんてしたくなかった。

 純也は地面に転がっている石ころを蹴りながら、ゆっくりと足を進める。

 自分はお兄ちゃんなんだから、多少のことは我慢しないといけない。そう自分に言い聞かせて。

 帰り道も半分以上が過ぎた時、頬に滴が降ってきた。見上げると、幼稚園を出た時よりも、空に浮かぶ雲が分厚く、そしてどす黒くなっていた。

 純也が手に持っていた傘を開くと同時に雨脚が強くなってきた。傘と雨のぶつかり合う心地よい音が鼓膜を刺激する。

 雨の日は嫌いじゃない。むしろ晴れた日より好きかもしれない。

 水たまりの中に足を突っ込んでジャブジャブとするのが一番好きだった。もちろん今日は長靴ではないし、そもそも雨が降り始めたばかりで、水たまりもできていないからやるつもりはなかったが。

 降り注ぐ雨の音を楽しみながら歩き、自分の家がある通りに差し掛かったところで、電柱の下に不自然に置かれているダンボールに気がついた。

 純也は少し気になって、そのダンボールに近づいてみると、ダンボールの上部に紙が張り付けてあり、そこに文字が書かれていた。

『だれかひろってください』

 それが難しい漢字で書かれていれば、当時の純也には絶対に読めなかっただろうが、幸いその文字はすべて平仮名で書かれていた。

 純也は最近平仮名をマスターし、カタカナをも自分のものにしようとしている最中だったので、そこに書かれている文字を読むことなど朝飯前だった。

「ん? んにゃあ~」

 可愛らしい鳴き声とともに、ダンボールからひょこっと顔を出したのは、栗色の毛を持つ小さな猫だった。雨に打たれたせいか、毛が少し湿っていた。

 その猫は純也に何かを訴えるような目をしていた。猫の言葉なんて純也にはわからないが、その猫が何を訴えようとしているのかなんとなく理解できた。

 その解釈が本当に正しかったのかは、神のみぞ知ると言ったところだろうか。

 純也はその場にしゃがみ込んで、恐る恐る子猫の顎の下を撫でると、子猫はくすぐったそうに身をよじる。

 子猫に触れている手の平から、柔らかい感触と子猫の体温が伝わって来て、当たり前だけど、この子猫は生きているんだということを、純也はこの時実感した。

 純也はその子猫の反応が楽しくなってきて続けていると、

「ふみ、フシャ~!」

 あまりに純也がしつこかったせいか、子猫は純也を威嚇してそっぽを向いてしまう。

 普段の純也なら、子猫に嫌われてしまった、と考えて落ち込むような状況だが、不思議とこの時はそんなことを考えもしなかった。どうしてか、この子猫に嫌われるというビジョンが見えなかったのだ。

「キミもひとりぼっちなの?」

 純也の問いかけに、子猫は純也の言っている意味が分からないというような顔で、まっすぐこちらを見つめていた。そもそもこの子は自分が今、どういう状況に置かれているのかというのもわかっていないのかもしれない。

 どうにも、子猫のことが他人事とは思えなかった。

 母には、寄り道をしないで真っ直ぐ家に帰るように言われている。「いい子」の純也であるならば、子猫のことなど放っておいて、さっさと家に帰るべきだったのかもしれない。

 だけど、ここで子猫を見捨てるのは、純也の良心が許さなかった。

 雨が当たらないようにと、自分が持っている傘の中に、子猫も入れてあげる。

 それからゆっくりと純也が人差し指を子猫の目の前に突き出すと、子猫はしばらく不思議そうな顔で純也の顔と人差し指を交互に眺めていた。

 やがて子猫はゆっくりと純也の人差し指に鼻を近づけて、一度匂いを嗅いだ後、ちろちろと純也の人差し指を舐めはじめた。

 くすぐったくって思わず指を引っ込めそうになったが、それをしなかったのはくすぐったさも含めて、その感触が心地よかったからだ。

 久しく味わっていなかったような、ぽかぽかした温かい気持ちが全身を伝っていく。

 純也は子猫の境遇を勝手に想像して、そこに勝手に自分の境遇を重ねて同情していただけなのかもしれない。

 それでもこんな温かい気持ちを抱いてしまった以上、子猫を放置しておくことなどできるわけがなかった。

 家に連れて帰れば、両親に怒られるかもしれない。「いい子に育ったと思ってたのに、勝手に猫なんか連れて来てどういうつもり?」と叱られて幻滅されるかもしれない。

 でも、「いい子」でばかりいても、誰も純也のことを見てくれない。だったら、少しくらい悪いことをして、たとえ叱られてもいいから、両親の気を自分に向けたいという思いもあった。

 もう引くつもりはない。誰に反対されても、自分はこの猫と一緒に生きていくんだって決めたんだ。

「一緒にくる?」

 純也は子猫に手の平を差し出した。子猫はたっぷり数秒間、純也の手の平を見つめ、自分の前足を純也の手の平に重ねた。

 子猫は、空模様よりも真っ黒な瞳で純也の顔を覗きこんでいる。その顔には、やっぱり何が起こっているかわからないという表情が浮かんでいた。

 その表情が本当に愛くるしかった。

「じゃあ行こうか」

 傘を持ち、子猫を抱えながら純也は帰路に就いた。


「純也。その猫どうしたの?」

 家に帰り、しばらく子猫と遊んでいると母が帰って来た。そこで、純也はすぐに母に子猫を見せた。

 この時の自分の心境を思い返すと、今でも畏まって緊張してしまう。そのくらい、純也にとっては決意が必要な出来事だったのだ。

「そ、そこで拾ったんだ」

 疾しいことは何もないはずなのだが、次に何を言われるのだろうか、と考えると、ついびくびくしてしまう。

 母は、腰に手を当てながら渋い顔で、居間で呑気に寝っ転がっている子猫と純也を交互に見比べる。純也はその視線に耐えきれず、母から目を逸らした。

「それで、純也はどうしたいの? 自分の口ではっきり言ってごらん」

 母は毅然とした態度で、でも柔らかい口調で純也を諭すように言う。

「ぼく、この子をお世話したい。きちんと自分でやるから……」

 純也の声は少し震えていた。

 母は純也の目を真っ直ぐに見つめている。純也はまたしても母から目を逸らしたい衝動に駆られたが、それをグッとこらえて、純也も母の視線から目を逸らさなかった。

「そう。でも生き物を飼うって大変なのよ。それでも絶対に投げ出さないって約束できる?」

「できる――っ! ぜったいやるもんっ!!」

 その声は、自分でも驚く位の声量で、母もその声にびっくりして目を丸くしていた。

「ふふっ、そんな大きな声を出されたんじゃ仕方ないわね。純也のそんな声、お母さん初めて聞いたもの」

 顔を綻ばせながら、母が嬉しそうに微笑む。

「それに、最近純也に構ってあげられなかったから、寂しい想いをさせていたのかもしれないわね。お父さんには私から説得してあげる」

「やったあ!」

 純也は思わず飛び上がって喜んだ。

 そのままの勢いで、居間のソファーにペタンと座っていた猫に歩み寄り、頭を撫でてあげる。

 子猫は他人事のように、「おう、よかったな」というような表情で純也の顔を見つめていた。

「ここにいても大丈夫だってさ」

 母は自分の息子と子猫を見ながら、

「たしかに、これはかわいいわね。ところで、もうこの子の名前って決めたの?」

「あっ――」

 失念していた。母をどうやって説得しようかと言うことに夢中になっていて、この子の呼び名もまだ決めてなかった。

「う~ん」

 首を捻って考える。

 そして浮かんだのは三つの文字。もしかしたら、最近見たテレビとかアニメとかから取った名前だったのかもしれないが、そこまでは覚えていない。

「『ユーリ』って名前はどうかな?」

「ユーリちゃんね。かわいい名前じゃない」

 ユーリがその名前を気に入ったのかそうではないのか、純也には判断できなかったが、ユーリは、ふみゃあ、と鳴いて、純也に寄り添ってきた。

 それからユーリと一緒の時間を過ごした。

 両親は相変わらず、司につきっきりだったが、純也がそれを寂しがることはもうなくなった。なぜならば、いつもユーリが隣にいてくれたから。一人ぼっちで幼稚園から帰る時も、家に帰ればユーリに会えると思うと、気持ちが高鳴っていた。

 時には、ユーリが純也の幼稚園にまで迎えに来てくれるなんてこともあった。そんなときは、探検と称して近所をお散歩したりもした。

 そんな風にして、純也は楽しくて掛け替えのない日々をユーリと共有した。

 そしてさらにそれから……。

 それから、どうなったんだっけ……?


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