1-2 整理できない気持ち
自分でもどうしてこうなったのかわからない。いやそんなことはない。思い返せば、どこかに必ず原因があるものなのだから。
最近は、気を抜けばいつもこんなことを考えてしまう。
美月と幸人のこと。そして、心臓が抉れるように切ない自分のこの気持ちについて。
純也はだいぶ温くなってしまったお湯につかりながら、天井を見上げた。そこに見えるのは、真っ白い天井とそれに付着している水滴だけだった。
美月と出会ったのは、今から十年程前だったろうか。
母が仕事の都合でこの辺野市に引っ越して来て、最初にできた友達が美月だった。
それから美月が中学に入るまでは何をするにしても、妹の司も入れて毎日のように三人で遊んでいた。
それこそ年の近い三人は本当に姉弟のように時間を過ごして来た。
だが中学に入って美月がテニスを始めるようになってから、一緒の時間を過ごす頻度が激減した。その代わりと言うわけではないが、純也は中学に入ってから幸人と知り合い、彼と行動を共にするようになった。
純也と幸人が中学二年生の時ことだ。
幸人が純也の家に遊びに来ていた時に、たまたま美月が遊びに来たのだ。その時に幸人が美月に一目ぼれしたらしく、彼は純也に美月を紹介するようにせがんできた。
いつもは何をするにしてもほとんどやる気を見せない友人が、初めて積極的にぐいぐいと迫ってきたものだから、純也は面食らってしまったことを覚えている。
そして純也が仲を取り持ってあげた甲斐もあり、二人は交際を始めることとなった。
当時の自分は、美月を女の子として全く意識していなかったし、美月を好きになる幸人って、もの好きなヤツなんだな、くらいの考えしか抱いていなかった。きっと自分は二人に比べて、まだまだ子供だったんだと思う。
それから恋人同士になった幸人と美月は二人きりで会うようになったせいで、純也が幸人と遊ぶ時間が減った―――ということもなく、元々純也と幸人の二人で遊んでいたところに美月が加わった形になり、今度は三人で遊ぶようになった。
美月も美月でちょうど中学のテニス部を引退して、空いた時間を使えるようになっていたので一緒に過ごす時間も増え、純也と幸人が所属していた野球部の試合がある時には、毎回応援に駆け付けてくれたりもしてくれた。
今でこそ美月の前でも堂々としている幸人だが、付き合い出した当初は美月の前に立つだけでも顔を真っ赤にしており、三人で遊びに行くときは、純也が間に入って会話を取り持ってあげないと会話が成り立たないほどだった。
いつも頼りっぱなしの友人にこうやって頼られることは、純也にとって何にも代えがたい喜びだった。
幸人が彼女をデートに誘おうという時も、彼はそれを直接伝えるのを恥ずかしがって、純也を介して美月に伝える、なんてこともしょっちゅうだった。
そして美月は、幸人と付き合っていく中で、これまで純也にはまったくと言ってもいいほど見せなかった女の子としての顔を幸人に見せるようになった。もちろんそれは幸人に向けられたものなのだが、二人と距離が近い純也も彼女のそんな表情を頻繁に目にしていた。
当時の幸人は口を開けば、美月のことばかりだった。その話を聞いているうちに、純也は美月が本当に女の子であるということを実感することとなった。どうして自分はこんなことに今まで気づかなかったのだろうかと思うほどに、美月がすごい魅力的な女の子に見えるようになった。
きっとそれが始まりだ。
三人で遊びに行くことに、違和感を覚え始めたのは……。
「おにいちゃーん。まだ入ってんのー! そろそろあたし入りたいんだけど」
扉の向こうから聞こえてきた司の声で、純也はぼーっとしていた意識を呼び起こされた。
「あー。今上がるー!」
声とともに慌てて湯船から抜け出した。
タオルで身体を拭くことで、体についていた水滴を拭い去ることはできたが、自分の体内を渦巻いている影のようなものまでは拭い去ることはできなかった。
「あれ? 今日から体育ってサッカーだっけ?」
制服から学校指定の青いジャージに着替えながら幸人が尋ねてくる。
窓の外は、夏を主張するかのように太陽が燦々と輝いている。なんでも、今日の最高気温は三十度を超えるそうだ。
もう七月になっているのだから、この気温も通常運行と言えるのかもしれないが、この暑さを受け入れるだけの技量を、純也は持ち合わせていない。
「そうだっけか。あんまり覚えてねえわ」
ジャージに袖を通しながら純也が答える。
昨夜、自分の心を巣食っていたなんとも言い表し難いもやもやは、一晩経ったら綺麗さっぱりとは言えないが、かなり薄くなっていた。人の気持ちは時間とともに薄れゆくものだと誰かが言っていた気がしたが、そういうことなんだと思う。
眠りに入る前に、前日に夢で会ったあの少女ともう一度出会えることを期待して布団に入ったが、今朝の夢に彼女は現れなかった。
夢なんて見ようと思って見るものではないし、きっとあの少女とも二度と会うこともないのだろう。そう思うと、多少の寂しさはあった。
そんなことを考えていると、純也たちの話を聞いていた隣の席の吉田が会話に割って入ってきた。
「もちろん、今日からサッカーだぜ」
何がもちろんなのかは誰も知る由のないことだが、彼は自信満々に白い歯を見せた。
「中学時代、フィールドの貴公子と呼ばれた、俺の実力を見せてやるぜ」
どっかで聞いたことのある通り名を自称して、吉田は胸を張る。
「あれ? そもそも、吉田って、サッカー部だっけ?」
純也が問い返すと、
「中学までだけどな。今はほら、持病の心臓病が……」
吉田淳はわざとらしく胸を抑えるが、言うまでもなく、彼の演技である。
サッカーにはマリーシアと呼ばれるプレーがあるらしいが、間違いなく吉田はそれが下手くそなんだろうと確信した。
「じゃあ体育は休んで、リハビリに専念しといたほうがいいぞ。そうしたら、いずれ日本のトッププレイヤーになれるかもな。とりあえず心臓病を治す前のほうが動きがよかった、とか言われないように頑張れよ」
純也が吉田の言葉を受け流すと、吉田は、ちぇノリが悪いな、口を尖らせた。
「まあ冗談はさておき。中学までやってたのは本当だぜ。高校じゃあ、貴重な青春を部活動に捧げたくなくて、やめちまったけどな」
理由はそれぞれだが、中学までやっていた部活動を高校でやめる人は結構多い。
純也と幸人の場合は、自分たちの野球の才能に限界を感じ、そこから上のステージにはいけないことを悟って、野球から足を洗った。
「というわけで、俺の華麗なプレーの数々をクラスの女子にアピールしてやるぜ。俺のバラ色高校生活はここから始まるんだ!」
純也は「そうだな」とそっけない返事を返し、隣で聞いていた幸人は、ふっ、と鼻で笑ってそれに答えた。
「クッソ。春宮は彼女持ちだから、余裕をかましていられるのはわかるが。木下よ、おまえだって、独り身だろう。他人事じゃないはずだ」
純也と美月が恋人関係にあるのは周知の事実だ
美月に憧れを抱く男子生徒は多いらしく、吉田もその一人だった。憧れの先輩のことを知りたいと思って、彼女のことを調べていく中で、彼氏持ちであることが発覚する。そしてその彼氏が誰なのかと、調べる中で幸人に行きつくというわけだ。
美月と幸人も自分たちの関係を、わざわざ自分から言ったりはしないが、隠そうともしないので、美月に憧れた生徒は必然的に幸人と美月の関係まで辿り着くというわけである。
(ははっ、でもまあ、俺だって、客観的に考えてみれば美月に憧れた有象無象の一人にすぎないのか……)
幼なじみという関係があるおかげで、今も美月とは親交が続いているが、それがなかったと仮定すると、学校中に溢れている美月に憧れを抱いている男子生徒Aでしかないのかもしれない。
思考がマイナスになっていることを自覚して、純也はとりあえず吉田のノリに合わせておくことにした。
「ああ、そうかもしれないな。じゃあ俺も、バラ色の高校生活のために頑張ろうかな。まあ、俺サッカー滅茶苦茶苦手なんだけど」
「おう木下、その意気だ。俺らも頑張ろうじゃねえか」
「それはそうと、女子は俺らと別に、室内でバスケらしいけどね」
「は――?」
横から入って来たとある男子生徒の一言によって、吉田はぴくりと動かなくなってしまい、彼の意識はどこか遠くに行ってしまった。
その姿を見て、幸人が思いついたかのように、
「吉田、サッカー好きか?」
と声を掛けたが、彼からの返事はなかった。
「見やがれ。この華麗なドリブルを!」
やる気満々の吉田がまた一人と躱して、フィールドを横断するようにこちら側のゴールに迫ってくる。
今吉田が躱したのは、サッカー部の三谷だ。サッカー部の連中すら手玉に取っている姿を見ると、フィールドの貴公子という二つ名も伊達ではなかったのかもしれない。
(なるほど。あれだけ自信満々に言っていただけはあるんだな……)
刻一刻とゴールに迫ってくる吉田を見ながら、純也はそんなことを思った。
(だけど――)
吉田の目が半分ほど潤んでいて、その顔がやけくそ気味に見えるのはきっと気のせいではないだろう。
今の吉田の姿を女子が見たら、確かに黄色い歓声が沸くかもしれないが、この場にいない女子が黄色い歓声を上げるわけがないし、吉田の華麗なプレイを目にできるわけもない。
今この場に上がっているのは、「吉田を止めろ」という男子高校生の野太い声だけだ。
結局、こうして吉田のバラ色学園生活は、虚しくもおあずけとなってしまったわけだ。
「おい純也。あと俺たちしかいないよ。俺たちであいつを止めよう」
隣に立っている幸人が、いつの間にかすぐそこまで迫っている貴公子を指差す。
振り返ってみると、自分の後ろにはゴールキーパーしかいなかった。残りは純也と幸人、ゴールキーパーの三人。
やるしかないな、と意気込んで、二人で並んで吉田の進路に立ち塞がった。
「いくら二人かがりでも、実力差は歴然だぜ」
吉田は口元に余裕の笑みを浮かべている。
それを見て、まずは純也が、
「っていうか、おまえゴールキーパーじゃなかったのかよ」
女子の観戦がないことを知り、テンションが駄々下がりした吉田は、この世の終わりのような顔をしながら、敵チームのキーパー役を買っていたのだ。
「うるせー! こうでもしないとやってられるか!」
吉田は反対側のペナルティエリアから一人でドリブルしているわけだから、百メートル近くを一人で走り、この時点で八人抜いていることになる。
「来るぞ」
幸人の声で、純也も腰を落として相手の動きに対応できるようにする。
吉田の体重が一瞬右に動いた。純也はそれを見逃さずに、体重をシフトする。
――しかし。
「ふっ、甘いぜ」
それはフェイントだった。吉田は純也の一瞬の隙を突き、その横を通り抜けようとするが――、
「まだ俺がいるよ」
すかさず幸人がフォローに入る。
「クソッ……。彼女持ちに負けてたまるかよ」
吉田が歯をぎしりと鳴らして、舌打ちをする。
――吉田は本気だ。
その瞬間、吉田改め、フィールドの貴公子の身に纏うオーラがはっきりと変わった。いつもおちゃらけてばかりいる男の顔ではなくなっている。
普段からこんな風に引き締まった表情をしていれば、女の子にモテそうなのにな、という感想は純也の心のうちだけに留めておく。
本来ならば、純也は幸人のフォローに回るべきだったのだが、吉田の気迫に押され、二人の戦いを見守ることしかできなかった。
吉田の身体が一瞬右に動くが――フェイントだ。幸人は、純也の二の舞になるまいと、しっかりとその動きを見極めていた。
そのまま膠着状態が続く。
膠着状態に我慢できなくなったのは幸人だった。幸人はボールに向かって足を延ばすと、その動きに気づいた吉田は華麗にボールを捌いて、幸人からボールを死守すると同時にその脇を抜いた。
きっと吉田は勝利を確信しただろう。だが幸人は素早く体制を立て直し、横を抜いた吉田にすぐに追いつき並走する。
いつの間にか、純也は二人の戦いを見ているだけのポジションに成り下がっていたが、サッカーが大の苦手な純也に割って入れるだけの実力はない。きっと純也が出しゃばるものならば、双方にとって邪魔になるだろう。
「もらった!」
幸人が吉田の足元めがけてスライディングをかます。
その時、吉田の口元が不敵に歪んだ。
「甘いぜ! だが、彼女持ちの軟弱野郎にはこれが限界だろうな」
そう吐き捨てたと同時に、足の甲にボールを乗せて、吉田が飛んだ。
今度こそ本当に勝負あったかに見えたが――
幸人は諦めなかった。咄嗟にスライディングの軌道を変えて、空中に浮かんでいるボール目がけて、右足を伸ばした。
「危ないっ!」
その後に起こり得るであろう事故を想像して、純也は思わず叫んでいた。
その数舜後、純也の想像通りに、空中で吉田が幸人の右足に引っかかってしまった。
吉田は空中でその勢いを止めることもできずに、前のめりになったまま、ヘッドスライディングをするかのようにズルズルと地面を滑った。
「おい! 大丈夫か?」
その様子を見て、審判を務めていた体育教師の宮本がすぐさま駆けつけてくる。
ボールが転々と転がっているが、誰もその行方を追っていない。
宮本先生の声に反応して、吉田は元気そうな様子ですぐさま立ち上がった。
「クッソ! あそこから粘るか……? 俺は大丈夫っす~」
悔しそうに呻いてから、手を上げて無事をアピールする。顔と体中が砂まみれになっているせいか、格好はまったくついていない。表情も、キリッとした貴公子モードから普段のおちゃらけているものに戻っている。
体育教師も周りの生徒も吉田の無事にほっと一息ついたが、
「おい、幸人!」
吉田に足を引っかけてしまった幸人は足首を抑えたままうずくまったままだった。
それに気づいた吉田と宮本先生もすぐさま駆け寄ってくる。
「ゴメン。ちょっと熱くなりすぎた。吉田は大丈夫?」
起き上がれないところを見ると、相当足が痛むはずなのに、幸人は相手を気遣っている。
吉田はそんな幸人の姿を見下ろして、
「一流の選手はな。怪我をしないから一流なんだぞ。俺くらいになると、あんなんじゃ怪我なんてしねえよ。だからこっちの心配はすんなよ。中々いい勝負だったな。おまえサッカーの経験あったのか?」
すぐにクラス全員が集まり、幸人の周りに人垣ができる。
「体育の授業と、冬場の基礎トレとして中学の野球部時代に少しやってた程度だよ。ちょっと純也。わるいけど、ちょっと肩を貸してくれない?」
「ああ、立てるか?」
幸人の腕を純也の肩に回し、幸人をゆっくりと立ち上がらせる。幸人の表情が若干青白くなっていて、呼吸も荒くなっている。
宮本先生はその様子を見て、
「じゃあ木下。悪いけど、春宮を保健室まで連れて行ってくれるか?」
「わかりました」
幸人に肩を貸したまま、歩調を幸人に合わせ、ゆっくりと保健室への道を目指す。
二人の背後ではサッカーの試合が再開し、大きくて太い歓声が上がっていた。少し振り返って様子を確認すると、吉田がゴールを決めたようだった。
「やっぱりスポーツっていいね」
しみじみと語る幸人に純也は、
「じゃあ今から野球部に入るか?」
「それはいいや。甲子園を目指して努力するほどの熱血は俺にはもうないよ」
未練も感慨もないような、諦めた口調で幸人が呟く。
幸人は純也に体重を預けながら、どこか遠くを見つめていた。どこを見ているのかはわからないけれど、彼の視線の先にあるのが甲子園ではないということは確かだ。
「いつかさ。草野球チームを作ってさ。おっさんになっても、おじいちゃんになっても、楽しくワイワイやりたいなって考えてるんだ。もしチームを作ったら、純也も入ってくれる?」
そんなことを語る友人の表情をうかがうと、彼はその草野球をやっている自分たちを想像しているのか、楽しそうに笑みを浮かべていた。
不意に中学時代の思い出が戻ってくる。純也も幸人もそこまで上手ではなかったが、純粋に野球を楽しんでいた。あの頃が随分前のような気がするが、まだ一年ほどしか経ってないのだ。
それでもあのころのように幸人と一緒に野球ができたらきっと楽しいと思う。
「ああ、考えといてやるよ」
純也はそっけなく答えたが、心の中では二つ返事で答えたいくらいの心持ちだった。それが出来なかったのは、まっすぐ純粋な目で見てくる幸人に、真っ直ぐな気持ちで答えることができなかったからだろう。
保健室にたどり着くと、養護教諭の西本先生が出迎えてくれた。
年齢は四〇歳前後、恰幅がよくて、おばちゃんと言う表現がとてもしっくりくる女性。羽織っている白衣が割烹着に見えることから、一部の生徒からは食堂のおばちゃんと呼ばれている。
ちなみに、フィールドの貴公子こと吉田淳くんは、養護教諭を目の当たりにして、
「保健室の先生って、アラサーくらいの年齢で、めっちゃエロイ雰囲気を醸し出しているお姉さんじゃないのかよ。詐欺だあああああああああ!!!!!!」
などと、わけのわからないことを抜かしていた。まあ気持ちはわからんでもないが、夢の見すぎだ。
西本先生に椅子を勧められて、幸人が腰かける。
「ちょっと体育で足をやってしまいまして」
幸人がそう言って、純也に手伝ってもらいながらゆっくりと靴と靴下を脱いで、怪我の具合を西本先生に見せる。
右足首のあたりが、赤くなって大きく腫れている。
「あら、結構ひどい捻挫ね」
西本先生がそれを見て、顔をしかめる。
「ここで安静にしててもいいけど、それだけ腫れてたら、念のために学校を早退して病院に行くことをお勧めするけどどうする?」
西本先生が幸人の方を見ながら尋ねた。
「じゃあそれでいいですか? どのみち病院には行くつもりでしたし」
へらへらと笑いながら、あっさりと返答する幸人。
「そう。じゃあ、病院に電話するから。向かいが来るまでちゃちゃっと応急処置だけしておきましょう」
西本先生はそう言って腕を捲り、冷凍庫から氷を取り出し、棚からテーピングを持ってきた。
「それと、付き添いの子はもう行っていいわよ」
ちらりと西本先生がこちらに視線を向けて、素っ気なく言った。いつまでもサボってないで、早く授業に戻れということなのだろう。
もちろん先生の言葉に反論もなく、純也は素直に従うことにした。
「じゃあ、幸人。後で経過教えてくれよ」
それを告げると、幸人は右手を上げて、「わかった」と返した。
その姿を見て、純也は保健室を後にした。