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5-4 ねがいごと

 夜の病院は、夜の学校と並んでこの世で一番不気味な空間だと思う。昼間ですら、どんよりとした空気が流れているのに夜になると、そこから輪をかけて人を不安にさせるような空気が溢れている。

 廊下の至るところに設置されている、切れかけている照明も、この雰囲気を演出するのに一役買っていると思う。真っ暗よりも少しだけ明かりがあった方が、余計に不気味に感じるものなのだ。

 謎の声のお導きによって、ユーリの病室に来いと言われたものの、すでに日付も変わっているこんな深夜に真正面から行ったところで、当たり前のように追い返されるに決まっている。

 どうにかして病院に忍び込めないかと、病院の広い敷地内を、ぐるっと一周して侵入経路を探したところ、ちょうど廊下の窓の一つが開いていた。それは単純に病院側が不用心だったのか、それとも、あの声の主がなにか小細工してくれたのかはわからないが、純也はその窓から侵入した。

 ユーリの病室は五階。誰かに見つからないように階段を慎重に駆け上がる。幸いにして誰とも遭遇しなかったが、この病院の警備は大丈夫なんだろうかと少し心配になった。

 薄暗い廊下を慎重に、そして素早く歩きながら、ユーリの病室を目指す。その数メートルの距離がいつもの何倍にも長く感じられた。

 ユーリの病室の前にたどり着き、部屋の中に人の気配がないことを確認し、扉を開ける。

 部屋の中は照明も何もついておらず、真っ暗だった。室内の唯一と言ってもいい家具がベッドであり、ユーリはそこで穏やかに寝息を立てている。その様子は、数時間前に純也がお見舞いしていた時となんら変化がない。

 ユーリの寝顔を見て、もう一度その寝顔を見られたことに一瞬だけ安心した。だけど安心してばかりはいられない。謎の声の発言によればこのユーリは抜け殻で、彼女の魂は別の次元にいるという。

『おっ、思ったより早かったね。でもここに来たってことはそういうことなんだよね?』

 脳内に直接語り掛けるように謎の声が聞こえてくる。部屋に入った瞬間、話しかけられるだろうと思っていたので、心の準備はできていた。

「そのまえに一つ教えてくれ。あんたはこの世界とユーリがいるって言う世界を行き来できるんだろ。一つユーリに伝言を頼まれてくれないか?」

『あれあれ? もしかして、キミは彼女を残してこっちの世界に残るつもりなの?』

「そんなつもりはない。だけどな、俺がそっちにいったらユーリが迷惑がるかもしれないだろ。あいつに拒絶されるのには耐えられないからな。あいつの意志を確認したいんだ」

『そういうことならまあいいけどさ。でももしかしたら、ボクがキミの質問を正確に伝えないかもしれないし、彼女が答えたことと違うことをキミに伝えるかもしれないよ』

「それはアンタを信用するしかないな。そりゃあ俺だって、ユーリと直接話せるならそっちの方がいいさ。だけど俺にはそんな力は宿ってないからな。アンタに頼むしかない」

『う~ん、そうだなあ。じゃあこうしよっか。ボクがキミの脳味噌に直接声を送っているように、彼女の声をキミの脳内に届くようにしてあげるよ』

「それができるのなら、是非お願いしたい」

『それじゃあ、ちょっと待っててね』


 ユーリはソワソワと落ち着かない様子で、何もない真っ暗な世界を右往左往していた。

 純也が早まった真似をしませんように、自分の事なんか忘れて純也が幸せに暮らしますように。ユーリはそれだけを願っていた。

 それは紛れもない本心だが、ユーリが願っていることはそれだけではない。純也と一緒にいたいという自分勝手で許されない欲望。それも彼女の本心だった。

『ちょっといいかい?』

 この世界にいるのはユーリだけだが、たまに遊びに何者かがいる。それがこの男? 女? とりあえずよくわからない存在だ。

「どうしたのですか?」

 おそらく純也のことだろうと思いながら、努めて冷静を装ったまま答えた。

『キミのご主人様のことなんだけど』

「…………」

 その話が出ることは予想していたので動揺はない。

『ちょっとね。こっちに来る前に少しキミとお話がしたいらしいんだ。キミが望むのなら、彼とお話させてあげるけどどう?』

「やらせて……! いえ、お願いしますっ!」

 力強く、自分の想いを吐き出すかのように答えるユーリ。

『おお~! そう言う気持ちの強い感じは好きだよ。普段からそうやって素直になればいいのにさ。まあいいや。じゃあすぐにご主人様と繋ぐから待ってて』


 謎の声がユーリの声を聞かせてくれると宣言してからかなり時間が経った気がするが、実際のところはまだ数秒しか経ってないのかもしれない。純也の時間感覚が曖昧になっていた。

 純也はユーリのベッドの横に丸椅子をユーリの近くに持ってきて、そこに腰かけ、ユーリの寝顔を眺めていた。

 彼女の頬をそっと撫でる。彼女に触れた感触はとても柔らかくて、どうして目を覚まさないのか、意味が解らなくなるほど、ユーリはそこに間違いなく存在している。彼女が消えてなくなるなんて、有り得ないし、そんなことを受け入れるなんてことはもっと有り得ない。

『やあ、おまたせ。それじゃあ、ボクはキミたちが結論を出すまでは口を挟まないでおくことにするよ。それじゃあ、キミたちがボクの想像以上のものをみせてくれることを期待しておくよ』

 ふっと、純也の頭の中から何かが消失した。きっと声の主が、宣言通り気配を消してどこかに行ってしまったのだろう。とは言っても、きっとどこかで自分たちのやりとりを覗き見しているはずだ。

『純也? 聞こえてますか?』

 聞き間違えるはずもない。ずっとずっとこの声が聴きたかったのだから。

「あ、ああ、聞こえてる」

 思わず大きな声を上げてしまいそうになったが、自分が今どういう場所にいるのかを思い出し、声のトーンを抑えた。

『ああ、本当に純也の声です……。もう一度この声が聞こえるなんて思いませんでした』

 涙混じりのユーリの声。その声を聞いているだけで、純也も涙が溢れそうになる。

 この声がもう一度聴きたくて、純也はずっと病院に通い詰めた。

 でも純也が今ここにいる目的は彼女の声を聞くことだけではない。

「元気? って言うのもおかしいけど、元気そうでよかった」

『純也。あなたのほうこそ。だから――だから、あなたはずっとそのまま元気でいてください。ずっとそのままの元気で頑固な純也で居てください』

「…………」

『もし馬鹿なことを考えているようでしたら、考え直してください。それはきっと純也のためになりません。純也が不幸になってしまいます』

「ありがとうな、ユーリ。おまえにそんなに思ってもらえている時点で、俺は世界で一番幸せ者だよ。これ以上俺は何を望むってんだ。いやそれ以上に望むものはあるな。ユーリが俺の幸せを願っているように俺もユーリの幸せを願っている」

 ユーリは言葉に詰まったかのように、一瞬黙ってから、

『ですがそれはわたしには過ぎたことです。わたしは十年前に、亡くなった身なのです。今回のように純也の前に現れたのだって、神様の気まぐれに過ぎません。言わば奇跡なのです。そんな奇跡のおかげで純也と楽しい時間を過ごせた。わたしは十分幸せ者です』

 そう言って、小さく笑ったユーリの表情は見なくても簡単に想像できた。きっと目を伏せて、諦めたように自嘲気味に口元を歪めているのだろう。

 彼女だって、本当は未来を諦めたくないはずだ。だからこんな風に拒絶されても、純也は彼女があきらめなくてもいい未来を探さなくてもいけない。

 純也はぼんやりと視線を壁の方に向けた。そこには病院特有の真っ白い壁――白い世界が広がっていた。

 どうしてだろう。こんな時だっていうのに、ふと、あの時見た夢のこと――ユーリが自分の目の間に現れて、願いを叶えてくれると言っていた夢のことが頭の中に浮かび上がってきた。きっと病室の壁一面に広がっている真っ白な世界が、あの時自分が立っていた真っ白い世界を連想させたのだろう。

 こんなときに、こんなことを思い出すんだから、そこに何か糸口があるはずなんだ。

 なにか、なにかなかったか? 脳内をフル回転して、自分の未来を掴みとれ。

  そして純也は一つの糸口を得た。

「そうか……。そう言えばさ、再会した時にユーリは、俺の願いをなんでも叶えてくれるって言ったよね? あれはもう無効になったのか?」


 ユーリは天命を受けた気分だった。そうだその手があった。

「純也。お願いして。わたしのことはもういいから。自分の幸せを願って。そうすれば、きっとあなたは幸せになれる。だってそれが十年前にわたしがした約束なんだから」

 あの声の主がくれた不思議な力のひとつ。純也に恩返しができるようにって、与えてくれた力。ユーリはこの力を使って、彼に恩返しをするために現実世界に行ってきたのだった。

 結局果たせなかった約束だと思ったけど、まだ間に合うかもしれない。

『ああ、わかった。あの時は結局言えなかったけど、今なら俺が願うべきことはもう決まっている。俺はユーリと一緒に日々を過ごしたい。この世界中でそれが不可能なら、別の世界でも構わないと思っている』

 なんで? なんで、純也はここまで自分のことを思ってくれているのだろう。

 きっと純也は自分のことを勘違いしている。

(わたしはそんな大層な存在じゃない。純也の意志を無視して記憶を奪ったり、美月さんに純也の気持ちを勝手に伝えちゃったり。こんなわたしじゃ純也には相応しくない)

 でもユーリの心の中にはやっぱり純也と一緒に居たいっていう思いはあって、そんな自分の欲望を優先させたいと考える浅ましい自分に嫌気が差す。

「たしかに美月さんは純也のものにはならないかもしれない。いやこの力を使えば、幸人さんから奪うことだってできるはずです」

『美月のことはもういいって、あの時言ったろうよ。もう俺はそんなことをひと欠片も望んでいない』

 純也が呆れたように、ため息交じりで言う。

「わたしなんて純也と一緒にいる資格はないんです。十年前のあの日、わたしは罪を犯しました。そんな罪人が幸せになる資格なんてないんです」

『なんかさ。今のユーリを見てると、数日前の俺を見ているみたいだ。いやユーリの姿は見えてないんだけどな。自分で自分を卑下してさ。勝手に自己嫌悪に陥って、何かに申し訳なくなる。結局、それは下らないことなんだよね。俺は今になってそう思えるようになった。じゃあさ、ユーリ自身の望みはなんなの?』

「何度も言っていますが、わたしの望みは、純也の幸せです。わたしなんかが純也の傍に居たら、純也は幸せになれません」

 結局のところ、色々と理由をつけてはいるが、ユーリは怯えているだけだったのかもしれない。人は常に変わっていく。純也だって、今は自分にこうして好意を抱いてくれているが、それが十年後も二十年後も続くとは限らない。

 純也がユーリに向けているその気持ちはいずれ冷めてしまうかもしれない。もしそんな残酷な現実に遭遇してしまったら、きっとユーリは耐えられない。だったらいっそのこと、自分は大事にされているという事実とともに、墓に入ってしまうのも悪くないんじゃないかと、ユーリは思う。

 残酷な未来を選ぶくらいなら、甘美な過去に浸かっていたい。

「それに人の気持ちは移ろいやすいものです。純也が今、わたしのことを大切に思っている気持ちは本当にうれしいです。でもその気持ちはいつまでも続かないと思います。そうなった時、わたしはきっと耐えられません」

 目から涙が零れ落ちたのは、自分を捨てて他の何かに夢中になっている純也を想像してしまったからだ。

 純也はユーリの言葉を聞いて、小さく笑った。

『俺もユーリも幸人も美月も司も、一日を積み重ねるごとに変化している。ユーリに対する想いが永遠に続く保証なんてどこにもないだろう。でもさ、そんな不安はきっとみんな心のどこかに抱えてるんだと思う。幸人と美月だって、あんなに仲良くしてるけど、きっと同じように不安を抱えているはずなんだよ』

 みんながその不安を持っていると知ったところで、ユーリの不安が消えるわけではない。ユーリは純也の言葉の続きを待った。

『でもさ、そんな先のことを考えて何になる? そんなふうに悲観的に考えてどうするんだよ。いつかなくなるのが恐いから、いっそのこと何にも手に入れないで進んで行こうって、そんなのは間違ってるだろ』

「言いたいことはわかります。でも――」

『でも、も糞もない! 俺がユーリと一緒に居たいって言ってんだ。俺のその願いをユーリは叶えてくれるのか? くれないのか? 問題はこれだけだ。もしユーリが俺と一緒にいるのが嫌だって言うんなら叶えなくてもいい。だけど、少しでも俺と一緒にいたいって思ってくれてるんなら、俺の願い――叶えてくれよ……』

 力強くて、思いのこもった純也の言葉。

 ここまで言われて耐えられるはずがない。ユーリの中に眠る浅ましい欲望がふつふつと沸いて来て、彼女を支配する。

 純也にすべてを委ねたい。だって純也はユーリのご主人様なのだから。

 だったらもう自分は迷わない。純也の幸せを願うのなら、彼の言うとおりにするのが自分の役割であり、義務なのだ。そもそも最初から、そこに自分が口を挟むなんてこと自体おこがましいことだったのかもしれない。

「純也。わかりました。ここまで言われれば、もうわたしの負けです。あなたの願いを聞きましょう。しっかりとその願い事をわたしに教えてください。必ずや成し遂げて見せます」

 ごちゃごちゃと難しいことを考えるのはやめよう。いつだって純也がユーリを導いてくれた。だから今回だってきっと彼が導いてくれる。

 ユーリにできることは、純也を信じることだけだった。いや、そもそも最初からそれだけで十分だったのだ。

 純也が大きく深呼吸する音が聞こえる。ユーリは自分の心臓が大きく鼓動する音を聞きながら、純也の言葉を待った。


 願い事を口にする直前、純也の脳裏をよぎったのは、いつぞや見た夢だった。結局あの時自分が口走った願い事は、ついぞわからなかったが、そんなことはどうでもいいことだった。

「俺の願いは、ユーリと一緒にくだらない日常を過ごすこと。勉強がまったくできないユーリに勉強を教えたり、また幸人たちと一緒にダブルデートしたり、今度は二人きりでデートをしたり、そんな感じでなんでもない日常をふたりで過ごすこと。それが俺の願いだ」


 純也の言葉に、ユーリは涙が止まらなかった。その願いは純也の願いであると同時に、ユーリ自身の願いでもあるのだから。

「わかりました。その願いを叶えることで、わたしはかつて純也からいただいた、多くの恩を返したいと思います」

 二つの願いが混じり合って、奇跡が生まれる。

 ユーリの身体が白い光に包まれる。彼女がいる真っ黒い世界において、その光はまさしく異質なものだった。闇をはねのけるように、その光がユーリの周りを照らす。

 光はこの真っ暗な世界全体を照らした。ユーリは十年越しに、この世界を自分の目で拝むことができた。

 その光はなんだか優しい感じがするものだった。もしかしたら、純也の優しさが含まれているのかもしれない。

「ありがとう。純也。わたし、あなたのことがだいすきです」

 果たしてその言葉は純也のもとに届いたのかわからない。だけど届かなくたっていい。これから何度でも、その言葉を純也に伝える機会があるのだから。

 その時、どこか遠くの世界で誰かが笑った気がした。


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