5-1 思い出のカケラ
第五章 ねがいごと、ひとつ
お互いが自分の身を削ってまでお互いの幸せを願う。
だけどそれは実らず、ふたりは不幸になる。
なんて滑稽な話なんだろうね。
でも神様なら、ふたりの願いを叶えて、ふたりとも幸せにしてくれるんだろうね。
ユーリの中の懐かしい記憶が蘇ってくる。これが走馬灯というやつなのだろう。
たしかあの時は、木下純也と出会った日とは正反対に、雲一つない快晴だった。
――しっかりと記憶に残っている。
あの日、ユーリは純也の中に眠るユーリとの思い出をすべて奪ったのだ。そんな日を忘れるわけがない。その日は純也の分までユーリは自分たちのことを覚えていようと誓った日でもあるのだ。
「やだあ! ユーリもつれてくの!」
甲高い声で叫んだのは、まだ声変わりもしていない幼いころの純也。
猫の姿をしているユーリを抱きかかえて、純也は自分の宝物を奪われまいと、母を睨みつけている。
――これは十年前の出来事。一度目のユーリと純也の別れのお話。
純也に拾われてから一年近く経ち、ユーリ自身もこの生活に慣れ、そして満喫していた時だった。
ある日、木下純也の父が交通事故に遭い、この世を去った。
父が仕事から帰って来る途中の出来事だった。前方不注意のトラックが、赤信号であるにもかかわらず、交差点に突っ込んできた。仕事で疲れていた父は、そのトラックの気配に気づかず、交差点に侵入してきたトラックと衝突した。
言葉にしてしまえばただそれだけのこと。でも、それ以上の衝撃、そして後遺症を純也たちの一家は受けることになった。
人間の命なんて、儚くて、本当に一瞬のうちに亡くなってしまう。
その事故により、木下家は一家の大黒柱を失うことになってしまった。
司の病気も完治し、これからユーリも含めた家族全員で平和な日常を満喫するはずだった。だけどその些細な願い事を、神様は叶えてくれなかった。
この世界はいつだって理不尽なことで溢れかえっている。
だけどいつまでも落ち込んではいられない。父の蓄えが多少あるとはいえ、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。木下家の母は子供たちを養うために職を探した。
そこで彼女は結婚する以前に働いていた職場に連絡をつけ、事情を説明し、そこで働きたいという意志を当時の上司に話した。すると、会社側も彼女の職場復帰を了承し、こうして純也の母は息子たちを養うための職を手に入れた。
しかし、それで丸く収まったかといえばそうではない。会社側は辺野市というところにある支部で働くことを条件に母を雇ってくれたのだった。
当時住んでいたところから、辺野市までは距離にして数百キロ離れている。そういうわけで、木下一家はマイホームを手放して、別の場所での生活を余儀なくされた。
だがここで問題が発生する。マイホームであれば何ら問題のなかったペットの問題である。
母は会社から住宅補助として勤務地近くのアパートを格安で借りられるという待遇を受けることになっていた。だがそのアパートはペッドを飼うことを禁止されており、そうなるとユーリは純也たちについていけないということになってしまう。
それを聞いたときから、純也はこうしてユーリを連れていくと駄々をこねているのだ。それを母が宥めようとしているが、純也がそれを譲る気配はなかった。
引っ越しが決まってから、引っ越しをするまでの一週間、純也はロクにご飯も食べず、家族と口も聞かず、ふさぎ込んだままだった。
「純也! いうことを聞きなさい!」
状況が状況だっただけに母も気が立っていたのだろう。いつもはおっとりとしている純也の母が、こうやって声を荒げるのをユーリはこの時初めて見た。
「ユーリを連れていけないなら、ぼくはそんなところいきたくないっ!」
母の声に負けじと、純也は大声で思いっきり首を振って拒絶する。
「じゃあもう、あんたなんか知らない! じゃあずっとここにいればいいじゃない!」
この一言が決定的だった。母も言った後に自分の失言に気づいたようで、顔を真っ青にしている。
純也に抱かれているユーリが身じろぎして、純也の表情を窺う。彼は目を真っ赤にしていた。その目の奥に秘めている彼の決意がそう簡単には揺るがないことをユーリは感じた。
こんなふうに純也が自分のことを大切に思ってくれていることは心から嬉しいし、喜ばしいことだった。
でもきっと、このままじゃいけない。
母はなおも純也を説得しようと、言葉を重ねるが純也は一向に反応を示さない。
引っ越しは明日に迫っていた。
やがて母は、他にもしなければいけない準備が満載だったため、純也を説得することを一時中断し、部屋から去っていく。
一人と一匹が残された部屋の中で、
「ユーリ。僕たちはずっと一緒だよ」
窓から差し込んでくる太陽に照らされながら純也が呟く。
彼の腕に抱かれながらユーリは、
『わたしも純也とずっと一緒に居たいです。だけどそれはダメなんです』
もちろん、一介の猫にすぎないユーリの言葉は純也に伝わらない。
彼の耳には、ユーリが普段と同じように鳴き声を上げているようにしか聞こえていないのだろう。そして彼の目には、事情を何も知らない飼い猫が、呑気に鳴いているように見えていることだろう。
「うん、わかってる。大丈夫、ぼくはずっとユーリのそばにいるよ。そうやってあの時にやくそくしたから」
もしかしたら、「よい子」の純也にはわかっていたのかもしれない。
純也が言っていることはすべて我がままで、それはどうやっても叶えられないことであると。諦めなければならないことがあると。だけど、まだまだ子どもの純也はそう簡単に自分の大切なものを手放したくないのだろう。
ユーリだって、こんな楽しい時間を簡単に手放したくない。だけど自分がいればきっと大好きな純也に迷惑がかかる。
『わたし、純也に拾われて、これまでに味わえなかった幸せな時間を一杯味わうことができました。わたしは世界で一番幸せな猫だったかもしれません』
自分の想いが伝わらないのがもどかしくて、ユーリは大声を上げて鳴いた。純也はそんなユーリを見て、優しく慈しむような表情で、ユーリの頭を撫で続けた。
その日は夕食も食べずに、純也はずっとユーリを抱いていた。何度か母が夕食に呼びに来たが、純也は頑なに応じなかった。それでも彼はユーリの分の夕食は準備して、食べさせてくれた。
夜になると、純也はユーリを抱いたまま布団に入ってしまった。
ユーリはもぞもぞと身体を動かし、純也の拘束から逃れて、寝ている彼の顔を見下ろした。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、ユーリの栗色の体毛を照らす。
『今までありがとう純也。もうお別れですね。もうわたしは純也の傍に居てはいけないんです』
『本当にその選択は正しいのかい?』
『――――!!』
その時、ユーリの脳内に突然響いた声。
馴れ馴れしいそのしゃべり方に、ユーリは当然のように不信感を抱いたものの、純也から視線を逸らさずにその声に答える。
『もちろん純也とこのまま過ごせたらいいなって思ってます。だけどその願いを叶えるには、障害が多すぎます』
純也とこのままの生活を続けること、これがユーリの一番の望みであり、きっと純也の望みでもあるだろう。
『だからご主人様に内緒で姿を消そうっていうのかい?』
『そうです。純也にとって、今のわたしは足枷に過ぎません。わたしがいなくならないと、純也は選択を間違えてしまうかもしれません』
すうっと息を吐いて、ユーリは一呼吸置く。
『だけどわたしがいなくなったら、純也はきっとわたしのことを思って悲しんでくれるでしょう。それはそれで喜ばしいことではあるのですが、悲しんでいる純也を想像すると、やっぱり心が痛みます』
『だったら、キミとの思い出を全部忘れてしまえばいい。忘れてしまったら、思い出に浸って悲しむことなんてないだろうね。この世界からキミがいた記録を丸ごと消去してしまえば、キミとの別れを惜しむ人もいなくなる』
『それもいいかもしれませんね。きっとわたしのことなんて忘れてしまって、新しい場所で暮らすことが純也にとって、一番の幸せなのでしょう』
『じゃあ、それを願ってごらん。だけどその前にひとつだけ忠告しておこう。己を顧みない者が他人を救えるなんて道理はないんだよ。キミは自分のことよりもご主人様のことばっかり考えているようだけど、それですべてが丸く収まるわけじゃあないんだよ』
『それでも、わたしにできるのはそれだけですから。わたしはその道を選びます』
ユーリが願ったのは、純也が自分との別れを悲しまないこと。
このままユーリが姿を消したとして、純也は絶対に自分との別れを悲しむだろう。泣き叫ぶかもしれない。ユーリの姿を探して街中を彷徨うかもしれない。まだ子どもの純也がそんなことをすれば、父と同じように事故に巻き込まれるなんてことになりかねない。
『ゴメンね、純也。純也の中に眠るわたしとの思い出の数々をこういう形で失くしてしまうなんて。純也はきっと悲しみますよね。でも純也は悲しむことすら忘れてしまうのでしょう。すべて忘れてしまうのですから』
純也の頬をペロリと舐める。純也はくすぐったそうに身じろぎしたが、目を覚ました気配はない。
『もし、本当にもしもですけど、また純也と出会えることがあったら、その時は純也の願いをなんでも叶えてあげます。ゼッタイに約束です。それは人の思い出を奪ったわたしがしなければならない罪滅ぼしです』
ユーリは願った。すると心の奥からチクリとした感情が沸いてくる。
ユーリの中の自分が、純也から離れたくないと言った。もう一人の自分が、純也に自分との思い出を忘れてほしくないと言った。
だけどユーリは純也が自分との思い出を忘れて、純也の前から姿を消すことを選んだ。
すべてを忘れるように祈りながら――自分の存在がこの世から消えることを望みながら、ユーリは純也のおでこに前足を置いた。
「――っ!!」
純也の中に眠っていた記憶が、雪崩のように流れ込んでくるような気がした。雪崩がユーリの脳味噌を揺さぶりかき回し、不意に吐き気がこみ上げてくる。
その感覚はきっと錯覚だったのだろう。純也と別れたくないというユーリの中に眠っている欲望が、この先に訪れる展開に拒否反応を示すかのようにこんな感覚を生み出したのだ。
ユーリはその吐き気に必死に耐えた。だって、こみ上げてきたものを吐いてしまったら、純也の思い出がすべて台無しになってしまう気がしたから。
数分間その状態が続いた。
そして、記憶の雪崩が止み、それと同時に吐き気も収まる。
これが他人の思い出の重さなんだと思う。ものすごく思い。自分ひとりで背負うには背負いきれないのではないかと思うほど重い。
(これがわたしの選んだ道なんだ――)
大きく深呼吸すると、あの声が話しかけてくる。
『ちゃんとできたみたいだね。じゃあ外に出てごらん。ボクはそこで君を待ってるよ。もうこの世界にキミの居場所なんてないんだからね』
ユーリは人の気配のない廊下を歩き、少し開いていた居間の窓から外に出る。
まん丸の満月が天を彷徨っていおり、それと同じように満天の星たちも夜空を舞っている。
声に導かれるまま、ユーリは暗闇の中に姿を消した。そしてこの世界からユーリが存在していた記録は消失した。